第1話:異世界に転生しちゃったので、黄金の記憶と目覚める
交差点の視界が反転し、強烈な摩擦音が脳髄を駆け抜けたとき、ツヨシは「ああ、これでようやく雑誌を閉じるのだ」と不思議と安らぎを感じていた。
長年連れ添った妻にも先立たれ、定年という名の余暇が、なぜか果てしない荒野のように感じられた六十歳の夏。趣味の自転車で風を切るのが唯一の愉悦だったが、寄る年波は残酷だ。大好きだった『週刊少年ジャンプ』のページをめくることさえ、今は重労働だった。最新号の厚み、細かな書き込み、展開の速さ――それらすべてが、今のツヨシには眩しすぎた。二〇二三年、五十三号。それが、彼が最後に読んだ雑誌の姿だった。
――だが。
次に目が覚めたとき、ツヨシの視界を覆っていたのは、病院の白い天井でも、天国でもなかった。
鼻を突くのは、甘ったるい花の香りと、硫黄が混じった魔法の残滓。視界に広がるのは、雲を突き抜けんばかりの巨大な樹木と、空を飛ぶ影――ドラゴンか、あるいは翼竜か。
「……夢にしては、随分とリアルだな」
起き上がったツヨシの体から、違和感が消えていく。老いにより曲がっていた背筋は真っ直ぐに伸び、常に痛んでいた膝の古傷も、階段を駆け上がる前の軽快さを取り戻している。二十代、大学の漫画研究会に身を置き、同人誌の原稿用紙に明け暮れていた、あの頃の肉体だ。
ツヨシが困惑しながら泥まみれの服を払っていると、ふと脳裏に奇妙な「ノイズ」が走り始めた。それは痛みではない。膨大な情報が、まるでハードディスクからメモリへ転送されるような、熱い奔流だ。
(これは……!)
驚愕に目を見開く。脳内に展開されているのは、五十年分に及ぶ記憶のライブラリ。
創刊号から最新号に至るまでの、すべての作品のプロット、名場面、キャラクターの配置、伏線の回収、そして、読者の心を鷲掴みにし、熱狂の渦へと巻き込むための『黄金律』。
「友情・努力・勝利」――この言葉が、魔法の詠唱のようにツヨシの魂に刻み込まれている。
この世界は、剣と魔法が支配する異世界だ。人々は過酷な環境で生きるため、娯楽といえば教訓めいた詩集や、退屈極まりない歴史書しかない。この世界には「娯楽」という概念が死んでいるのだ。
(そうか、そういうことか)
ツヨシは膝の上の泥を払い、立ち上がった。
かつて自分を熱狂させた、あのジャンプの構成術。プロの作家たちが死に物狂いで編み出した、読者の感情をジェットコースターのように揺さぶる「物語の構造」が、すべて自分の脳内にインストールされている。
最初の敵との出会いは、最初の『見開き』だ。
目的達成への障害は、物語における『中ボス』との邂逅だ。
そして、すべてのエピソードの結末には、読者が次週を待ちわびて眠れなくなるような『引き』が必要だ。
「この力は……俺に、もう一度『少年』に戻れと言っているのか」
ツヨシは崖の縁まで歩み寄り、眼下に広がる異世界の風景を見下ろした。魔法の光が街を灯し、剣士たちが腕を競い合っている。だが、そこには「熱」がない。人々の目は死んでおり、ただ生きることだけが目的になっている。
彼らは知らないのだ。
絶望の淵から仲間を信じて立ち上がる時の、あの震えるような高揚感を。
自分の限界を突破して、敵を打ち破る瞬間の、カタルシスの深さを。
そして、泥をすすってでも、夢を叶えるために努力し続けることの、何よりの尊さを。
ツヨシは確信した。自分がここに転生した意味。それは、老いと疲弊で閉じかけた自分の人生を再起動させ、この退屈な世界に、魂を揺さぶる「物語」という魔法を送り込むことなのだ。
「いいだろう。この世界の読者どもに、俺が心底教えてやる」
彼は地面に落ちていた鋭利な石を拾い上げ、湿った土の上に、最初の『コマ割り』を描き始めた。
これは、ただのファンタジーではない。
これは、かつて漫画の原稿用紙に一生を捧げた男が、異世界という荒野で再びペンを取り、伝説の「創刊号」を生み出すための、魂の記録である。
脳内の『黄金律』が、異世界の魔力と共鳴し、土の上に描いた線が、かすかに金色に光を放ち始める。
ツヨシの心臓が、二十代の頃と同じテンポで、力強く高鳴り始めた。
「さあ、始めようか。異世界少年ジャンプ――いや、俺たちの物語の、第1話だ」
ツヨシの瞳に、かつて漫画に夢中だった頃の、あの純粋な輝きが戻っていた。物語は、静かに、しかし確実に動き出した。




