プロローグ:読み終わらないページと、漕ぎ出した先
「ツヨシ」シリーズ第8弾が始まります。
「よし、これで完成だ」
ツヨシは最後の一太刀を打つように、庭のウッドデッキの板を固定するビスをねじ込んだ。六十歳。勤め上げた会社を辞め、再任用の誘いも丁重に断った。五年間、時間に追われ続けた日々からようやく解き放たれ、今は庭のDIYや、長年見て見ぬふりをしていた家の中の修理が、今のツヨシにとっての「仕事」だった。
「夕飯、何にしようかな」
汚れた手袋を脱ぎ、キッチンへ向かう。冷蔵庫にある食材で、今夜は少し凝った煮込み料理でも作ろうか。以前ならそんな余裕もなかったが、今の生活には不思議な充足感がある。
夕食後、リビングで愛用のソファに深く腰を下ろす。ここからが、ツヨシの本当のゴールデンタイムだ。積み上がった漫画の山に手を伸ばす。
……しかし。
手にした雑誌の表紙を眺める。週刊少年ジャンプ。創刊号からのヘビー読者である自分が、これまでどれほどの情熱をこの媒体に捧げてきたことか。学生時代には漫画研究会に所属し、同人誌の原稿に明け暮れた。
一ページ目をめくる。二ページ目をめくる。
……三ページ目で、手が止まった。
一行の台詞を追うのに、以前の倍の時間がかかる。絵の密度に、目がちかちかする。かつては一瞬で心に突き刺さっていたはずの「友情・努力・勝利」の熱い展開が、なぜか今日の自分には、遠い世界の出来事のように思えるのだ。
「もう……追いつけないのか」
二〇二三年、五十三号。
それが、ツヨシが最後の力を振り絞って読み終えた「雑誌」だった。漫画を読むことすら、今の自分には重たい作業になってしまった。寄る年波という言葉では片付けられない、喪失感。
「少し、風にあたろう」
自分を慰めるようにそう呟き、倉庫からロードバイクを引っ張り出した。ヘルメットを被り、少し肌寒い夜の住宅街を走り出す。ペダルを漕ぐリズムだけが、今のツヨシにとって唯一、頭の中を空っぽにできる手段だった。
幹線道路の交差点。信号が青に変わり、ツヨシは勢いよく加速した。
その時だった。
不意に、視界の端で光が弾けた。
右折しようとする大型トラックの、あの鈍いヘッドライト。ブレーキをかける時間も、叫ぶ暇すらない。
(あ、これが終わりか。漫画の最終回みたいに、綺麗に……)
そう思った瞬間、ツヨシの意識はブラックアウトした。
耳の奥で、かつて大好きだった漫画のページをめくる心地よい音が響く。
気がつくと、そこは湿った土の匂いと、不思議な魔力の粒子が漂う森の中だった。
自身の体を見下ろす。皺の刻まれていたはずの手は、驚くほど滑らかで、力強い。二十代、一番漫画に夢中だった頃の肉体だ。
ツヨシは立ち上がり、深く息を吸い込んだ。




