異能者・1
時は少し溯る。
藤野香月はいつものように朝からパソコンに向かい合っていた。
高校3年の時に初めて書いた小説が新人賞を受賞し、そのままプロの作家となってから3年が過ぎる。その端正な顔立ちから新人賞を受賞した時は、『美人高校生作家』ともてはやされ、テレビや雑誌の取材に追われた事もあったが、純粋に小説を書く事が好きなだけだった香月にとってそれはただの雑音にしか感じられなかった。香月は出版社に執筆活動以外の取材関係は受けないように頼み、極力マスコミの前に姿を出さないよう努めた。お陰で今ではマスコミとは無縁の生活が続き、執筆活動に集中することが出来ている。
高校を卒業する時は、大学に行ったほうがいいと両親から強く薦められたりもしたが、香月は迷わずプロの作家の道を選んだ。自分自身、大学に行く理由を見出せなかったからだ。もし、新たに勉強したくなったらその時に改めて受験すればいい、というのが香月の考えだった。
今は横浜にある実家を離れ、ここ吉祥寺でマンションを借りて一人暮らしをしている。3LDKの部屋の一つを書斎に使い、毎日パソコンに向かう日々を送っていた。
香月の書いているのは主に純文学の分野に入るもので、ベストセラーとまでいかないまでも固定のファンもついて、今は順調に執筆活動を続けていた。
ほんの少し開けた窓から爽やかな風がそよそよと注ぎ込んでくる。香月は真剣な瞳でパソコンに向かいカチャカチャとキーボードを叩く音だけが部屋に響いている。
ふと、キーボードを叩く指を止めて、香月は顔をあげた。
(来る)
その気配に香月は頬をゆるめ、目を閉じた。
香月には普通の人間では持ち得ない能力が備わっていた。それがどのような能力なのかは自分でも詳しく分析したことはない。ただ、子供の頃から死んだ人の姿を見たり、人の『思念』を感じ取ったりすることも出来た。
目を閉じると、一層、その気配は強くなる。
エレベーターが上がってくる。扉が開く。その気配を逐一感じることが出来る。ガチャリと玄関のドアが開く音が聞こえ、香月は目を開けた。
「おはよう」背後から若い男の声が聞こえてきた。
「おはよ」
香月が振り返ると、そこに鳥居彰吾の姿があった。ひょろりと痩せ、肌の色は妙に白く、どこか少年じみて見える。高校を卒業してから視力が落ちたといって、色のついた縁の丸い眼鏡をかけていて、それがなおさら子供っぽく見える理由かもしれない。
彰吾は香月の幼なじみで、香月にとって一番の理解者だった。そして、何よりも香月と同じような能力を持つ同士でもあった。
彰吾の両親は彰吾がまだ3歳の時に事故にあって亡くなっている。彰吾を家に残し、夫婦二人で近所のスーパーに買い物に行った帰り道、マンションの解体工事の横を通った折にその壁が崩れてきて二人はブロックに押しつぶされたのだ。その後、彰吾は祖父のもとに引き取られたが、その祖父も去年の秋にこの世を去った。今は一人暮らしをしながら都内の大学に通っているが、毎日のように香月のもとに訪れ、本当に大学に行っているのかどうかは怪しいところだ。
彰吾も香月と同じように普通の人には見えないもの、感じられないものを見る事が出来る能力を持っている。だが、それは香月の持っている能力とは微妙に違うものらしかった。
香月は彰吾のことを自らの半身のように感じていた。単なる近所に住む幼友達というだけで、まったく血の繋がりなどはないのだがどこか顔立ちも似ている。お互い一人っ子で、子供の頃から一緒にいると姉弟と間違えられる事も多かった。前世というものが本当にあるとしたら、自分と彰吾の二人はもともと一人の人間だったのかもしれない、とまで思う。
彰吾は持ってきたコンビニの袋を部屋の真ん中に置かれたテーブルの上に置くと、布張りのソファに腰を下ろした。
「仕事は順調?」彰吾は香月を見上げた。
「うん」
答えながら香月も机を離れると、ほんの少し右足をひきずりながら彰吾の正面のソファに座った。事故にあったのは小学校一年の夏の時だ。通学途中の香月に向かい、居眠り運転の車が突っ込んできた。運良く命は取り留めたが、その時以来、香月の右足は思うようには動かなくなってしまった。その後のリハビリによって松葉杖を必要としないところまで回復はしたものの、それでも歩く時には右足を引き摺らずにはいられない。足首まで隠れるロングスカートばかりを履くようになったのも、右足と左足でほんの少し太さが違うのを隠すためだ。彰吾は気にするようなことじゃないと言ってくれるが、年頃の香月にとっては気にかかる問題だった。
香月はよほどのことがない限りこの部屋を出ることはなかった。仕事のせいもあったが、やはり最大の理由は右足にあった。
そんな香月にとって、彰吾と話しをするこの時間が一日のなかで唯一の楽しみだった。香月に小説を書く事を薦めてくれたのも彰吾だった。彰吾は頻繁に香月のもとに訪れては、いろいろな話しをしていく。時には泊まっていくことも多かった。その話を聞きながら、香月はまるで自分が外を出歩き、さまざまなものを見聞きしているような気分になれた。
彰吾は袋のなかからお茶のペットボトルの小瓶を取り出して二人の前に置いた。
「何か面白い事は?」香月が訊いた。
「べつに……いたって平和なもんだよ」
彰吾はそう言いながら、ペットボトルの蓋を開けてゴクリと喉を鳴らして一口飲んだ。
「この前話してた『狐』の話はどうなったの?」
彰吾は大学に通う傍ら、『除霊師』のようなこともやっている。インターネット上、『古都』というハンドルネームを使って、あるホームページを管理している。そして、そこにやってくる霊に悩まされている人から相談を受け、本当に除霊が必要と見るとその人を訪ねていき除霊を行っている。
いつも、香月は彰吾の話を聞くのが好きだった。交通事故に逢い婚約者のことを忘れられずに自縛霊となった男の話、悪しき夢を喰らうという『夢喰い』に狙われた女性の話、これまでもさまざまな話を聞かせてくれた。
『狐』というのもインターネット上で一人の女性が話していた霊のことだ。
その女性は、毎晩のように眠っていると『狐』の鳴き声が聞こえる、と怯えてインターネット上で『古都』に相談をしていた。
「ああ、あれは解決済み」
「なんだったの?」
香月はそう言って彰吾の顔を見つめた。香月自身、特に霊の話を聞きたいわけではない。ただ、彰吾がどこでどんなことをやっているのかを知りたかった。
「『狐』は彼女の守護霊で、彼女に危険を知らせていたんだ」
「どんな危険?」
「守護霊となっている『狐』が鳴き始めたのは彼女が今のマンションに引っ越してから。実はその部屋は以前30代の女性が住んでいたんだ。その女性は銀座や新宿などいくつかのクラブを経営していたんだけど、去年の暮れに強盗が入って、その女性は殺されたんだ」
「それじゃ死者の怨念ってこと? でも、その人が殺されたのと、あとで引っ越してきた人っていうのは無関係なんでしょ」
「けどね、『怨念』に理性なんてものはありはしないんだよ。言い換えてみれば、それは純粋な『憎しみ』であって、その対象が誰かなんてことは関係ないんだ。だから、自らのテリトリーに入ってきたもの全てを憎み、殺そうとする」
「じゃあ、その『怨念』から守護霊はその女性を守っていたの?」
「うん、守護霊はかなり強い感受性を持っていたから、その霊の存在に気づいたんだと思う。ただ、人によって守護霊の力も違うから、他の人であれば危険だったかもしれない。除霊をしてきたから、もう『狐』も鳴かないはずだよ」
「なんかかわいそうね」
「人間はみんなかわいそうなもんだよ」
ぽつりとほんの少し寂しそうに彰吾は言った。彰吾は時々、どこか寂しそうな顔をする。
「今日はどうしたの?」
「ん? 何が?」惚けたように章吾は香月を見た。
「何かあったんでしょ?」
香月は彰吾の表情を見ながら言った。その彰吾の表情からは、いつもとはどこか違う空気を感じる。
「やっぱ香月に隠し事は出来ないな」
軽く彰吾は笑った。「何かやっかいごとがここに運ばれてくる気がしてね」
「それじゃ、彰ちゃんの仕事にするつもりなの?」
香月には予知能力のようなものはないが、彰吾にはそういう力も備わっている。
「さあ、どうしようかな。まだ決めてないよ」
香月と違い、彰吾は常に自らの力を試し、それをどう使っていけばいいかを考えつづけている。高校生だった頃が最も顕著に表れていた。必ず朝になると疲れたような顔で彰吾は学校に現れ、自らの能力とその限界について香月にレポートしてくれた。その後も彰吾は『呪術』、『陰陽術』、『神道』などを独学で学び、自らの能力に役立てようとしている。そして、いつも自らの力と、それらの『呪術』に関して香月に話して聞かせてくれた。
彰吾が自分と同じ能力を持っている事に気づいたのは小学3年の時だった。以前から家が近所で一緒に遊ぶ事は多かったが、香月は自らの力については誰にも話したことはなかった。たとえそれが両親であっても、それを話すことが誰にとっても幸せをもたらすようなことでないことを香月は知っていた。
ある時、突然彰吾が香月の前に立って言った。
『おまえ、俺と同じなんだな』
最初は彰吾が何を言っているのかわからなかった。だが、その彰吾の視線の先に前日に交通事故で死んだはずの近所に住んでいた女の子の姿を見て、彰吾が自分と同じであることに気づいた。
あれ以来、彰吾こそが香月にとって最も身近な存在になっている。
突然――
「あ……」
と、彰吾が小さく声をあげ、次の瞬間、香月もそれに気づいた。
二人ともそれ以上は何も言わなかった。黙ってぼんやりと窓の外の風景を眺めながら、時が来るのを待った。しばらくした後、玄関のチャイムが鳴った。ちらりと香月の顔を見てから彰吾が立ち上がり玄関に向かった。ドアが開き、玄関から声が聞こえてくる。
「やあ、君も来てたんだね。先生いるだろ?」
野太い声。それが誰なのか香月にもすぐにわかった。いや、ついさっき彰吾が声をあげた時に、すでに二人には誰がやってきたのか気づいていた。
やがて、彰吾と共に大柄な男が姿を現した。
「先生、おはようございます」
雑誌社の編集者である篠原一美だった。
篠原の姿を見ると、彰吾は鬱陶しいといった顔をしながらソファに腰を下ろした。彰吾が篠原を嫌っていることは香月も知っている。香月もそれほど篠原を好きなわけではない。それでも篠原の人懐こい性格はどこか憎む事が出来ない。
篠原はオカルト雑誌の編集者で、その雑誌には香月が書くような小説とはまったく似合わない。ところが篠原は香月がプロとしてデビューした頃から、たまに顔を出してはオカルト小説を書いてみないかと誘いつづけている。この近所に一人そういうものを書く作家が住んでいるため、時折、ついでのように現れるのだ。
「どうかしました?」
また例によって執筆依頼に来たに決まっていたが、香月はわざと惚けて見せた。
篠原は彰吾の隣にどっかと腰を下ろすと香月に顔を向けた。
「オカルト物、書いてみる気になりませんか?」
香月の気持ちなどそっちのけで篠原はやはりいつもの調子で言った。
「私、そういうものは書けませんよ」
「そんなことないでしょ。私が見るところ、先生は霊感がかなり強そうだ。きっと良いものが書けますよ」
確かに篠原の勘は当たっている。
「私は純文学にしか興味ないですから」
いつものセリフで香月は断った。
「でもね、純文学ばっかりってのもつまらなくないですか? いろんなもの書いてみるのも気分転換になって楽しいですよ。食事だっていつも和食ばっかだったら飽きるでしょ。たまには中華やフレンチ、食べてみなきゃ。食わず嫌いはいけませんよ」
篠原は妙なたとえ話で香月を口説こうとした。
「今は追いつかないんです。私、書くの遅いから」
そう言いながら香月は篠原の上着のポケット部分に視線を向けた。彰吾もまた同じように険しい目で、その部分を睨んでいる。彰吾も香月と同じものを感じているのだ。
その時、篠原のポケットのなかで携帯電話が鳴り出した。篠原は驚いたように立ち上がり、ポケットのなかから携帯電話を取りだした。
ちらりと彰吾が香月に合図を送る。香月もそれに気づき、篠原の様子を注意深く眺めた。
「はいよー」
篠原は部屋の隅に行こうとすることもなく、その場で喋りはじめた。
「どうしたんだ? こんな時間に珍しいじゃないか。こんな早くから飲みにでも行くのか?」
大きな口を開けて篠原は笑った。
香月はその篠原の様子に眉をひそめた。携帯電話が鳴った瞬間から篠原を取り巻く空気が少しずつ変わりつつある。篠原はそんなことになど気づく事なく、ポケットからメモ用紙を取り出し、何か書き取りながら喋りつづけている。
(死の影が見える)
その空気の変化を見て、瞬間的に香月はそう感じ取った。そして、その原因が今話している電話にあることは香月にもわかる。
『山崎克巳』
今、篠原が話をしているその男に何が起きているのかを正確に掴む事は出来なかったが、その男には間違いなく死相が出ているに違いない。
それほどまでに篠原を取り巻く『気』は強い殺意を持っていた。やがて、篠原は電話を切ると香月に顔を向けた。
「失礼しました。私の学生時代の友人でしてね」
再び、彰吾の隣に座る。
「それで? 何か大変なことでもあったんですか?」
「いやぁ。変なこと言ってるんですよ。そいつ、『山崎克己』って名前なんですけどね、なんでもそいつと同性同名の人間が最近になってバタバタ死んでるんじゃないかって言うんです。で、私にそれを調べてくれって」
「どうするつもりです?」
「調べてみますよ。まあ、私にとっては雑誌のネタになりますからね。同姓同名の人間が連続して死んでいるなんて話、なかなか面白いじゃないですか」
「面白い? 怖くはないんですか?」
「怖い? なぜ?」
「何かの呪いかもしれないじゃないですか」
「いやだなぁ、先生。こんなことで怖がってちゃ商売になりませんよ。それに私もある程度は霊感がありますから、それが本当に霊の仕業かどうかくらいわかりますよ。ヤバイと思ったらなんとかします」
「なんとかって? どうするつもり?」
横から彰吾が訊いた。篠原は彰吾に顔を向けた。
「私の知り合いに『祓い屋』がいるんだ。前に話したことなかったかなぁ。沢木戸晃って奴なんだけど。とりあえずそいつに相談してみるさ」
「気をつけたほうがいいと思うな」
彰吾は横目で篠原を見ながら言った。
「気をつけるって何が?」
「危ないと思うよ。その話し」
彰吾はそう言いながらちらりと香月を見た。香月もすぐにその意味を察した。
「へぇ、珍しいね。君がそんな心配してくれるなんて」
「ああ、一応警告くらいしてあげようと思って」
「そりゃ……ありがとう」
篠原は戸惑いながら答えた。
篠原が帰ると、彰吾はすぐに口を開いた。
「言うまでもないと思うけど……香月も気をつけろよ」
「うん」
その意味を香月もよくわかっている。「あの人はどうするの? 放っておいていいの?」
「さっき、一応警告はしてやったじゃないか」
「あれで大丈夫だと思う? あのままだとあの人……危ないと思わない?」
険しい目で香月は彰吾を見た。
二人とも、篠原を取り囲んでいた『気』がただならぬ殺意を秘めていることに気づいていた。電話を切った時、その殺意ははっきりと篠原に向けられていた。おそらく篠原が『山崎克己』という男の依頼で事件に手をだそうとしているのがその原因なのだろう。
「たぶんな」
彰吾は軽く言った。「ほうっておけばいいさ」
ここが決定的に香月と彰吾の性格の違うところだ。彰吾にとって他人の生死などにはまるで興味がなかった。彰吾がこの世で唯一守りたいと思うのは目の前にいる香月一人だった。インターネットを使い除霊をやっているのも、困っている人を助けるためではなく自分自身の能力を測るためにやっていることだ。
「だめよ」香月は彰吾の目を見つめて言った。
「なぜ? あいつが死んだところで僕たちに何の関係が?」
「そういう問題じゃないわ。そもそも彰ちゃんがそういう考え方をすることが嫌なの」
咎めるような目で香月は彰吾を見た。
「……わかったよ。あとでもう一度だけ警告してやるよ」
しぶしぶ彰吾は答えた。
「それにしても、あれは何だったの?」
「さあね……今はまだはっきりとは言えないよ。誰か人間の手による『呪詛』かもしれないし、死者による『怨念』かもしれない。いずれにしても強い恨みの念が篭もってることには違いないと思うけど」
「何を恨んでいるのかしら」
「それは僕にもわからないよ。ただ、あれが『呪詛』だとすれば、それをかけたのはよほど力を持った『呪い屋』の仕業だと思う」
『呪詛』といえば有名なところで、陰陽師という存在がある。安部清明などは中でも最も有名な存在であろう。現在でも陰陽師という職業は存在している。だが、それ以外にも人を呪い殺すことを生業とした『呪い屋』が、今でも現実に存在することを彰吾は知っていた。しかし、彰吾が知る限り、それは依頼者を満足させるためだけの慰め程度のものでしかなく、さっき感じたような強い殺意を含んだ呪いをかけるだけの『呪い屋』の存在は聞いたことがなかった。
もちろん『呪詛』は修行や特異な能力者だけが行えるものではない。強い『憎悪』という何にも代え難い『呪力』によって成り立つことはある。だが、一般的にそれほどまでの『憎悪』というものを人間が持つことは滅多にない。
「そうね……呪われた人はいったい何をしたんだろう」
「さあね」
「助けてあげられないのかしら」
「『呪詛』であれば『呪詛返し』で応対する手はあるけどね。いずれにしてもあれだけじゃあの『思念』がどんなものなのかわからないよ」
「彰ちゃん、あれを相手にするつもり?」
「さあ……あんな強い呪いとは思っていなかったからね」
彰吾は困ったように頭を掻いた。「僕の力で抑えられるかどうかはわからないよ」
「私がやってあげようか?」
「香月――」
彰吾は困ったような顔で香月の顔を見た。
「私のほうがそういう能力は彰ちゃんより上でしょ」
香月はそう言ってにっこり微笑んだ。




