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呪詛流し・1

 群馬に入る頃にはポツリポツリと雨が降り始めていた。

 克己の運転するRV車の後部座席にもたれながら、彰吾はその車内に漂う『気』を感じ取っていた。わずかだが、先日感じた女の『気』が漂っている。

「山崎さん……もう一度確認させてください。あなた本当にあの女のこと知らないんですか?」

 彰吾は車を運転する克巳の背中に声をかけた。

「まったく会ったことなんてないよ」

 ちらりとバックミラーを覗きながら克己は答えた。確かに克巳が嘘をついていないことは感じられる。

 だが――

(それならなぜあの女の『気』がこの車のなかに漂っているんだ?)

 これは『怨念』としての『気』とは違っている。間違いなく生きている時のものだ。

「忘れてるってことはないですか?」

「まさか……」

「この車は山崎さんだけが使うのですか?」

「いや、最近では妻のほうがよく使う」

 確かに由紀の『気』も感じられる。だがもう一つ。別の『気』が車内には残されている。

「では、あなたの家族以外にこの車を使った人はいませんか?」

「……そういえば」

 思い出したように克巳は声を出した。「以前、私の友人に何度かこの車を貸したことがあるよ……それが何か?」

「その人の名前は?」

「高岡久志……彼がどうかしたのか?」

「いえ……別に」彰吾は言葉を濁らせた。

「ところで妻や子は大丈夫なのか?」

「大丈夫だと思います」

 彰吾は念のために新たな霊符を由紀と手渡してきたが、おそらく二人は大丈夫だろうと考えていた。「そもそもあの女が『呪い』をかけているのはあなたです」

「けど、妻の実家は火事になり、その帰りには交通事故に――」

「それはあなたへの脅しです。これまでの被害者も同じです。家族も何らかの危険な目にはあっても死に至るようなことはありません。篠原さんのことを憶えているでしょう。もしあの女が本気で奥さんやお子さんを殺すつもりならば、もうとっくに殺されていますよ」

 彰吾はそれっきり何も言わずに黙り込んだ。

 関越自動車道を降りると、山崎は前橋市にある鯨岡の住んでいたアパートに向った。すでに美咲の協力をもとに鯨岡の住んでいたアパートは調査済みだ。

 アパートは市立病院の裏手にあった。すでに5時を回り、薄闇が街を包み始めている。

「ここは?」

 路肩に車を止めると、事情を知らない山崎は古ぼけた2階建てのアパートを見上げた。

「行きましょう」

 山崎に詳しい事は告げぬまま彰吾は香月に支えられながら車から降りた。

 サラサラと霧状の雨が降いている。三人はアパートの階段を登っていった。

 階段を登って一番奥の部屋のドアに『鯨岡』と手書きの文字で書かれたネームプレートが貼られている。彰吾は躊躇うことなくそのドアノブに手をかけた。鍵がかけられている。

「ここは誰の部屋なんだ?」改めて山崎が彰吾に問い掛けた。

「現金輸送車が襲われた事件で重症を負った警備員の住んでいたアパートです」

「留守なのか?」

「彼は妹とともにここに住んでいました。けれど、今年の春に二人は突然失踪したんです」

「失踪? それじゃここには誰もいないってことじゃないか」

 その時、一人の男が階段をあがってきた。

「おい、あんたたち何してるんだ?」

 眼鏡をかけた60歳過ぎの老人が訝しそうな顔で近づいてくる。その背はほんの少し曲がり、眼鏡越しに上目遣いに三人の顔を見比べた。

「あなたは?」

「私はこのアパートの大家だよ。向かいの家に住んでるんだ」

 そう言って老人はアパートの向かいにある2階建ての家を指さした。

「この部屋のなかを見せて欲しいんです」

 怯むこともなく彰吾は言った。

「あんたたち何なの? 警察……じゃあなさそうだね」

 老人はますます険しい顔で彰吾を見た。

 彰吾は小さくため息をつくと、何も答えようとしない代わりにじっと老人の目を睨んだ。

 その次の瞬間、老人の表情が変わった。

「ああ、鍵か……鍵持ってこなきゃな」

 慌てたように背を向けると階段を降り、向かいの家に走りこんでいく。

「いったいどうなってるんだ?」

 山崎は自体が飲み込めずに肩を竦めた。

 やがて、老人は鍵を持ってくると、三人のために部屋を開けてくれた。

「まったく突然いなくなっちゃってね。困ったもんだよ」

 愛想良く笑いながら老人はドアを開けて中を見せた。

 中は二つの和室と狭い台所とトイレと風呂がついている程度で、兄妹二人が住むには最低限の部屋だ。彰吾は部屋に上がると、まるでそこの空気を感じ取ろうとするようにゆっくりと部屋を眺め、香月に顔を向けた。

「やっぱりな」

 小さく香月も頷く。二人はそこにあの女の『気』を感じ取っていた。

 チェストの上に一枚の写真が飾られている。二人の男女が仲良く肩を並べて写っている。

「山崎さん……この女性を知りませんか?」

 香月はその写真を手にとると山崎に向けた。

「あ!」

 山崎はその女の顔に思わず声をあげた。「これ、あの女ですよ! 間違いありません!」

「この人、ここの妹さんですよね」彰吾は老人に視線を向けた。

「ああ……そうだね。エリカちゃん。どこ行っちゃったんだろうね。目は不自由だったけど、愛想の良い子だったよ」

 香月の問いかけに老人は答えた。「やはりあの男が悪いんじゃないのかね」

「あの男?」

「ああ、現金輸送車が襲われたのは知ってるだろ? あの前に一、二度見慣れない男が訪ねて来たことがあったんだよ。警察にもそのことを話したんだけど、ちゃんと調べたのかねえ。結局、あの男、誰だったんだか……」

「その男の顔、見たんですか?」

「ああ……ちらっとだけどね」

 老人は思い出そうとするように宙を見た。その瞬間、彰吾が手を伸ばして老人の腕をむんずと掴んだ。

「な、なんだい?」

「……いえ」

 彰吾はすぐにその手を離した。その顔にはある種の満足感が浮かんでいた。

 三人は老人に礼を言うと、アパートを離れ一路赤城山に続く4号線を北上していた。雨は次第に強くなっていく。山崎はワイパーの速度をあげた。

「いったいどこに向ってるんだ?」

 不安そうな顔をしながら山崎は後部座席に座る彰吾に声をかけた。

「このまままっすぐ進んでください」

「あの女とは会ったことも無いんだ。なぜ、俺があの女に恨まれなきゃいけないんだ?」

「たぶん鯨岡重徳は現金輸送車強奪事件の犯人の一人だったんでしょうね」

「自分が運ぶ現金輸送車を襲わせたっていうのか? それで行方をくらませたのか?」

「いえ、きっと鯨岡重徳は殺されていますよ。おそらく妹のエリカも同じでしょう」

「誰に?」

「主犯格の男にですよ。そして、鯨岡エリカはその男があなただと思っている」

「なんだって?」

「正確にいえば『ヤマザキカツミ』という男こそが、主犯格の男で自分たちを殺した犯人だと思い込んでいるんです」

「違う! そんな……俺はそんなもの知らない!」

「ええ。わかっています。たぶん何者かがあなたの名前を騙ったのでしょうね」

「何? そんな……たったそれだけのことで俺はあの女に恨まれたのか? そんなことのために人が何人も殺されたっていうのか?」

 克巳は行き場のない怒りをぶつけるように言った。

「『呪』とはそういうものなんですよ。たとえば相手のことを知っていても、その名前を知らなければ『呪詛』はかけられない。名前こそが『呪詛』の鍵なのです。何よりも鯨岡エリカは目も悪く、その男の顔も知らないようだ。そのために『ヤマザキカツミ』という名前それだけに『呪詛』はかけられたのです」

「いったい誰がそんなことを……」山崎は唇を震わせた。

「あなたの良く知る人間かもしれませんよ」

「それは誰なんだ?」

「いずれわかります」

 冷たい表情で彰吾はバックミラーに映る山崎の戸惑った光が宿る目元を見た。

「……どうやってそれを防げばいいんだ?」

「相手はすでに死んだ人間。『呪詛返し』を使うことは出来ません。残った手はその鯨岡エリカの呪いを解くか……あなたが彼女たちを殺した犯人ではないと教えてあげなければいけません。そのために今、ある場所に向っているんです」

 彰吾がそう言った瞬間、香月の持つ携帯電話が鳴り始めた。香月がすぐにバッグから携帯電話を取り出す。

 それは加藤美咲からのものだった。

「彰ちゃん――美咲さんからよ」香月は携帯を彰吾に手渡した。

 昨日、彰吾は美咲に一つの調査を依頼していた。美咲からの電話はその結果を教えてくれるものだった。美咲が調べてくれた結果は彰吾が想像していた通りのものだった。

「ありがとうございました。たぶん心配ないと思いますけど、渡してある霊符を必ず持っていてください」

 そう言ってから彰吾は電話を切って香月に返した。

「何かわかったの?」

「ああ――だいたいのことはわかったよ」

 彰吾は冷静な目で言った。「あ、そこ左に曲がってください」

 運転する山崎に彰吾は後ろから声をかけた。


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