ヤマザキカツミ・2
兄、重徳の最近の様子にエリカは不安を覚えていた。
どこがどう違うというわけではないが、ここ最近の兄の様子はどこか様子がおかしい。
以前ならば仕事が終わるとすぐに帰ってきて、いつも仕事の話などを聞かせてくれたものだ。だが、ここ1、2ヶ月の間、重徳は口数も少なく、よく飲んで帰ってくることも多くなった。それが友達と楽しく遊んでくるというものならエリカもそれほど心配はしない。だが、最近の重徳は、まるで嫌な事を忘れてしまおうとでもいうように悪酔いして帰ってくる。
エリカは腕時計を目の前に近づけた。
子供の頃から次第に弱くなってきた視力は、今ではほんの数センチ先程度先のものしかはっきりと見ることが出来ない。
午後8時。今夜もどこかで飲んでいるのだろうか。
エリカは夕食の仕度を済ませたまま、兄の帰ってくるのを待っていた。
(どうしたんだろう)
得体の知れない不安感が心のなかに沸きあがっている。
きっと兄が何か悩んでいるとすれば、それは自分の目のことに違いない。アパートからほとんど出ることもなく、仕事などはまったく出来ない。他人に自慢出来るような事は何もない。唯一、自慢できるとすれば道明も褒めてくれる指先の美しさしかない。ほとんど部屋からも出ることもないというのに、エリカはマニキュアをつけ、いつも指先だけは美しく飾るようにしていた。それこそがエリカにとってはたった一つの贅沢であり楽しみだった。
(私の目が見えたら……)
兄も自由でいられることだろう。そして、自分も道明と幸せな家庭を築けるのかもしれない。考えても仕方ないとは思っていても、どうしてもその考えが頭のなかに浮かぶ。
その時、ドアが開き兄が入ってくる音が聞こえた。ドアの開きかた、その動きの音でそれが兄である事はすぐにわかる。
「お帰りなさい」そっと左手を壁に添えながら出迎える。
「ただいま」
薄闇のなかにぼんやりと兄の姿が見える。もちろん部屋の明かりは点けられている。だが、真昼であってもその顔かたちをはっきりと見ることは出来ない。
「お兄ちゃん、ご飯は?」
「ごめん……ちょっと飲んできたから」
そう言って重徳はエリカの脇を通って居間として使っている8畳の部屋に入っていった。重徳の身体からぷんとお酒の匂いがする。
「……そう」
「待ってたのか? 別に待ってる必要ないんだぞ。先に食ってて構わないぞ」
「でも、お兄ちゃんと一緒に食べたほうが美味しく食べられるから」
エリカは再び壁伝いに部屋に戻ってくるとテーブルの前に座った。「今日は誰と飲みに行ってたの? 会社の人?」
「いや……」
重徳は適当に返事をしてテレビのスイッチをいれて部屋にごろりと横になった。
「んじゃ誰?」
「誰だっていいだろ。ちょっと……知り合いだよ」煩そうに答える。
「ひょっとしてヤマザキさんって人?」
その言葉に重徳は驚いて起き上がった。
「なんだって? なんであいつのこと知ってるんだ?」
その声はいつもの優しい兄のものとは違っている。まるでエリカを咎めるような口ぶりだ。
「ヤマザキカツミさんって言うんでしょ。道明さんが教えてくれたわ」
「あいつ、余計な事を……」
「どうして? この前もお兄ちゃんを訪ねてきたわよね。親しい人なの?」
「……ああ。ただ別に親しいわけじゃない」
「あの人……誰なの?」
「おまえが気にする必要はない」
ぶっきらぼうに重徳は答えた。
まるで兄はそのヤマザキカツミという男のことをエリカに知られないようにしているように思える。
それがなおさらエリカの不安をかき立てていた。
* * *
午前10時ちょうど。
ショッピングセンター裏の駐車場で、週末の売上の入ったジェラルミンケース3つをトランクに積み終わると、鯨岡はパートナーの石川英裕とともに現金輸送車に乗り込んだ。一つのケースに2千万とすると、今日は約6千万程度ある計算になる。冬物一掃のバーゲンを週末にやっていたため、いつもよりも売上が多かったようだ。
(これもあいつの言う通りか)
山崎の顔が頭に浮かぶ。
「じゃ、行きましょうか」
石川はハンドルを握ると、アクセルを踏みこんだ。
石川は鯨岡よりも三つ年下の後輩だ。つい三週間前、それまで組んでいた年配の警備員が退社し、その後任として石川が配属されたのだ。いつもはたった二人の警備に不安を抱くことが多かったが、今日だけはそのことに感謝している。
帰りの輸送ルートは日によって変えることになっており、それは銀行の担当によって朝になってから指示される。だが、それにも一定のルールが定められており、鯨岡には乱数表から今日がどこのルートを通るよう指示されるかは事前に予想出来ている。
車は白いワゴン車で一見、現金輸送車とはわからないが、きちんと補強がなされ、後部には小型の金庫が置かれている。
鯨岡は助手席でぎゅっと拳を握った。
「どうかしましたか?」
石川は緊張した面持ちの鯨岡に声をかけた。「なんか鯨岡さん、いつもと違いますよ」
「ああ……ちょっと朝から頭痛がするんだ」
「風邪ですか?」
「――かもな」
鯨岡は適当に誤魔化すと、石川に気づかれないよう大きく息を吸って、サイドミラーをちらりと見た。サイドミラーには茶色のワゴン車がすぐ後ろに微妙な距離をあけてついてくるのが見えているが、まだ現金輸送の警備を始めたばかりの石川にはそんなことまで気が回らないだろう。そのワゴン車には山崎が乗っているはずだ。石川は何も気づかないまま、ルート通りに車を銀行に向けて走らせて行く。ほんの3キロ先にある銀行まで、時間にしてみれば10分程度の距離だ。
鯨岡たちが狙っているのは、銀行の駐車場に回る細い路地だ。一方通行で車の通行料もほとんどない。そこに挟み込めば現金輸送車は逃げる事は出来ない。後は警備員の動きを封じてしまえば、襲撃は間違いなく成功するだろう。
やがて、車は銀行の横を一度通りすぎると、隣にある本屋の脇から駐車場へ入る一本道へ入っていった。だが、その一方通行の道路には行く手を阻むかのように一台のミニバンが止められている。今のところ、全ては計画どおりに進んでいる。
「おいおい――」
石川はぼやきながら車を止めた。「まいったなぁ。どうします?」
「よし、俺が見てくるよ」
鯨岡はそう言うとわざとゆっくりとした動作で助手席のドアを開けて車を降りる。ちらりと背後に視線をやると、すでに茶色のワゴン車が後ろを押さえ、そこからフルフェイスのヘルメットを被った山崎が降りてきて、鯨岡を待ち構えている。
すると、前のミニバンからも同じようにフルフェイスのヘルメットで顔を隠した道明が運転席から姿を現した。
その状況に石川がはっと頬をひきつらせる。
「鯨岡さん……」
うろたえた目で鯨岡に視線を向ける。
鯨岡はわざと石川に見えるように両手をあげてみせた。その横から山崎が鯨岡に銃口を向けながら石川の視界に入ってくる。山崎の銃口にはサイレンサーが取り付けられている。
石川はますますうろたえた目になった。
道明が近づいてきて鯨岡に銃口を向けると、山崎は自分の銃を石川へと移した。
「降りろ!」
山崎が石川に命令を発する。だが、石川は混乱してしまっているのか、震えたまま動こうとしない。
「降りろ!」
もう一度山崎が声をかけても、石川は両手をあげたまま動けなくなっている。
「バカ……」ぼそりと山崎がつぶやいた。
次の瞬間、山崎の銃口が火を噴いた。プシュという軽い音とともに銃弾が石川の頭を貫き、運転席の窓に血が吹き飛んだ。ずるりと石川の身体が力なく崩れ落ちる。
その一瞬の光景に鯨岡は思わず目を背けた。
「鍵を寄越せ」
驚いている鯨岡に向けてぶっきらぼうに山崎が言う。
「なぜだ? 殺すなんて計画になかったじゃないか」
「早く鍵を寄越せ」
山崎はもう一度言うと、その銃口を今度は鯨岡に向けた。
(こいつは本気で俺のことまで撃つかもしれない)
恐怖が全身を貫く。ちらりと運転席で倒れる石川の姿を横目で見た。頭から血が滴り落ち、シートをべっとり赤く染めている。
「ま……待て……」
鯨岡は震える手でポケットにいれた金庫の鍵を取り出すと山崎に渡した。
山崎が道明に合図をすると、道明が鯨岡の背後に回りこみ銃口を押し当てた。そして、山崎は素早い動きで車の後ろに回りこむと、車のトランクを開け、中にある小型金庫に鍵を差し込んだ。小型金庫のなかからついさっき鯨岡たちが運び込んだジェラルミンケースが姿を現す。
「すごいな」
そう言って山崎がジェラルミンケースを前に止めてあるミニバンへと運び込む。その間、道明はじっと鯨岡の背中に銃を押し当てている。
「俺のことまで撃たないだろうな」
「まさか」
鯨岡のつぶやきに道明は笑って答えた。
運良く、通行人は現れなかった。ケースをすべてミニバンに運び込むと、山崎が近づいてきた。入れ替わるように道明がミニバンに乗り込みエンジンをかける。
「じゃ、俺たちは約束のところに金をしまっておく」
そう言いながら山崎はサイレンサーを取り外した。
「なぜ殺したんだ?」
石川を殺したことが許せなかった。本来ならば、道明が自分と石川の二人に銃を向け、威嚇するだけの予定だったはずだ。
「言うことをきかなかったからさ。だが、気にするな」
「気にするなってことないだろ。一人だけ殺されて、俺が無事なんてことになったら俺が疑われることになる」
「大丈夫。おまえは疑われないよ」
そう言うと突然、山崎は鯨岡に銃を向けた。
「おい――」
避ける間もなかった。
パン――パン――と、軽い銃声が辺りに響いた。
一発は左肩に、そしてもう一発は右の太股に打ち込まれ、その衝撃で鯨岡はその場にひっくり返った。
「あぁぁ……」
全身に痺れるような激痛が走る。その痛みに鯨岡は思わず声をあげた。
「じゃあな」
山崎の声に続き、ミニバンの走り去るエンジン音が聞こえてくるのを鯨岡はその痛みに耐えながら聞いていた。
事件後、一週間が過ぎても警察は犯人の行方を見つけられなかった。
警察は幾度となく鯨岡の入院している病院に事情聴取に訪れた。おそらく自分が容疑者になっているだろうということは想像がついた。もし、このケガがなければ、穏やかな事情聴取ではなく、重要参考人として取り調べを受けていたかもしれない。そういう意味では山崎の判断は正しかったと言えるだろう。
やがて、警察は鯨岡が犯人ではないと諦めたらしく、一ヶ月もすると病院に現れることもなくなった。そして、それから3週間後に鯨岡は退院した。まだ足は自由に動かなかったが、それでも弾が貫通したこともあって治りは比較的早かった。これも山崎に感謝すべきなのだろうか。
会社からは特別に有給休暇をもらった。会社は傷が完治してから再び出社してくれればいいと言ってくれた。事件はメディアに取り上げられたため、会社は警備員の鯨岡の扱いにも気を使っているらしかった。もちろん、全てが終わった後で再び会社に戻りたいとは考えていなかった。少なくともあのケースのなかには6千万が入っていたはずだ。3人で分けても2千万。そのうち一千万をエリカの手術に当てたとしても、一千万は手元に残る計算になる。今更、警備員をやるつもりにはとてもなれない。
鯨岡はアパートに戻り、ゆっくりと時が来るのを待った。
――事件後、三ヶ月は我慢するんだ。
山崎からはそう言われていた。
ショッピングセンターの売上金という、ナンバーなど控えてあるはずもない足がつきにくい金だけに三ヶ月も待たなければいけないというのはもどかしい気もしたが、それでも鯨岡はじっと耐えた。いくら警察からの目が自分から離れたとはいっても、完全に警察からのマークが外れたわけではないだろう。
今は山崎の言うとおりに我慢したほうがいい。
金がどこに隠されているかは鯨岡も知っている。まだ手元に金は入っていなかったが、鯨岡たちはどこか心が豊かになったような気がしていた。
そして、三ヶ月後。
だいぶ傷も癒えた頃、山崎から連絡が入った。
――そろそろいいでしょう。
その山崎の言葉にさすがに鯨岡は身震いした。ついにこの手にあの金が入ってくる。
山崎はすぐに道明に連絡を取ると、隠し場所へと車を走らせた。
もともと金の隠し場所を提案したのは鯨岡だった。山崎は地元の人間ではないのか、この辺の地理にはあまり詳しくはない。
前橋から富士見村に入り、そのまま4号線を北上する。30分も走ると右手に今は閉鎖となったごみ処理施設が見えてくる。そこから左に脇道へ車を滑りこませる。この辺りには民家はなくほとんど人通りもない。
戦前、ある一部の金持ちが避暑地として利用した別荘が数件残っているだけで他には何もない。その一番奥にある別荘こそが鯨岡たちの目指す場所だった。
道明のワゴンがゆらゆらと左右に揺れながら、舗装もされていない坂道を登っていく。4WDだからこそ入っていけるような道で、とても鯨岡の軽自動車では途中、動けなくなってしまうことだろう。
そんな道を10分も走ると右手に大きな屋敷が見え始めた。月の光に照らされ、荒れ果てた屋敷は一層不気味に見える。鯨岡たちは車を屋敷の庭に止めると、裏手に回った。裏には戦時に掘られたと思われる防空壕が残されていた。
鯨岡も道明も一言も喋ろうとしなかった。
防空壕の扉を開き、中に入った。20段ほどの階段を降りると5メートルほどの通路があり、その奥が居住場所になっている。懐中電気の灯りで中を照らしながら、奥へと進んでいく。中は以外に広く、数日ならばそのなかで住めるように作られていた。
「いよいよだな」道明の声に鯨岡も緊張する。
「どこに隠したんだ?」
「この一番奥に埋めたんだ。警察だってこんなところに隠されてるとは思わないだろう」
道明は懐中電灯でその部分を指した。
「あ!」
道明が驚きの声をあげる。鯨岡もその意味がすぐにわかった。
土が掘り起こされている。慌てて二人は駆け寄った。
「バカな……俺は確かにここに埋めたんだ」
「どういうことなんだ?」
「誰かが先に掘り起こしたんだ?」
「誰が――」
答は決まっている。
ここに埋めたことを知っているのは、鯨岡と道明、そして、もう一人――
「あいつが?」
道明は戸惑っていた。「なぜだ? あいつ……なぜ?」
「抜け駆けしたんだ」
「だったらなぜ今になって取り出そうなんて言ってきたんだ?」
そう、わざわざ鯨岡たちに自分が抜け駆けしたことを教えるようなものだ。
(まさか)
一瞬、嫌な考えが頭を過ぎる。その時――
「待ちくたびれましたよ」
背後から声をかけられ、二人ははっとして懐中電灯の光を声のしたほうへ向けた。
「山崎さん!」
そこには山崎克己の姿があった。そして、そのすぐ横には妹のエリカが山崎に腕を掴まれて立っている。
「エリカ! ……なぜ? なぜエリカを連れてきたんだ?」
「お兄さんに会わせてあげようと思ってね。一人じゃ寂しいでしょうから」
そう言うと山崎はエリカを突き飛ばした。支えを失ったエリカはそのままよろよろと二人の前に膝をついた。
「お兄ちゃん……」
「エリカさん!」道明が慌ててエリカの身体を抱き起こす。
「何をするんだ! あんたは何を考えてるんだ!」
怒鳴った道明の顔が強張った。
鯨岡の持つ懐中電灯に照らされた山崎の手には黒く光る拳銃が握られている。一瞬、事件の犠牲となった石川の死んだ姿を思い出した。
「山崎さん……あんた……裏切るのか」
「いや。これは予定通り。これが計画の終幕だよ。あんたたちには教えてなかったけどね」
薄暗い光のなかで山崎が笑っているのが見える。
「ふざけるな!」
立ち上がった道明の足に向け、銃口が火を噴く。狭い防空壕のなかで銃声が爆音のように響く。「うぁ!」
道明は足を押さえて蹲った。
「道明さん!」エリカが道明にすがりついた。
「そんな焦るなよ。おまえたちは皆仲良くあの世に送ってやるから」
「いったい何のために?」鯨岡は訊いた。
「おまえたちを放っておけば、あの事件のことも明るみに出るかもしれないだろ。そうすれば俺にも被害が及ぶことになる」
「そんな……山崎さん……頼む……せめてエリカは助けてやってくれ。エリカは目が悪いんだ……あんたの顔は知らないじゃないか」
「優しい兄貴だな。けど、今更そんなこと出来るわけないだろ。俺のことを知っている限り、生かしておくわけにはいかないんだよ」
鯨岡は怒りに拳を握った。だが、どうすることも出来ない。
(くそ……くそ……くそ)
今更ながらに山崎という男を信じたことを悔やんだ。やはり、この男と初めて会ったときに感じたあの嫌な予感は当たっていたのだ。
一瞬、その場に重苦しい空気が流れる。その沈黙を破ったのはエリカだった。
「許さない」
見えないはずの目を山崎に向けてエリカは言った。「絶対許さないから!」
そのエリカの言葉に山崎は顔をしかめた。
「気味の悪い女だな」
吐き捨てるように山崎は言った。それでもエリカはなおも山崎に叫んだ。
「どこまでも追いかけて……絶対、復讐してやる!」
「やれるもんならやってみろ! おまえたちはここで死ぬんだ。まっさきにおまえが死にたいか?」
拳銃をゆっくりとエリカに向ける。
「うあぁぁぁ!」
最後の力を振り絞るように道明が飛びついた。だが、山崎の動きは素早かった。怯みもせず、慌てることもなく、冷静に銃口を道明に向け直すとその身体に銃弾を撃ちこんだ。
バンという音が狭い防空壕のなかに響き渡る。その音と共に道明の身体は弾むように地面に叩き付けられた。
「道明!」
近寄ろうとする鯨岡に対して、山崎が銃を構える。
「せっかく傷が癒えたんだろ? 無理するなよ」
「おまえ……」
「――とはいえ、大人しくしてもらっておいたほうがいいな」
山崎は銃口を下げると鯨岡の右膝に撃ち込んだ。その痛みに鯨岡は前のめりに倒れた。
「お兄ちゃん!」
涙声になったエリカの声が防空壕のなかに響く。
「ここにはね。いろんな人たちの骨が埋まっているって話ですよ。以前、この屋敷に住んでいた男は気が狂って使用人たちを次々と猟銃で撃ち殺したんだそうです」
山崎は愉快そうに笑った。「さて、それじゃそろそろ俺はサヨナラさせてもらうよ」
「俺たちを……このままにしていくのか?」痛みに耐えながら、鯨岡は顔をあげた。
「まさか生き延びられるなんて思ってるのか? 甘いなぁ。おまえたちにはとっておきの地獄を見せてあげるよ」
「何をするつもりだ?」
その鯨岡の問いかけに山崎は答えようとしないまま、背を向けて防空壕から飛び出して行った。ズシンと重い扉が閉まる音がする。
「道明さん、しっかりして!」
苦しそうにうめく道明の声が暗闇に響き、その身体にすがりつくエリカの姿が転がった懐中電灯の明かりでうっすらと見ることが出来る。
鯨岡は足を引き摺りながらエリカのもとに近づいた。
「大丈夫か?」
「道明さん……道明さんが……」
道明は答えることも出来ず、ハァハァという苦しそうな息遣いで鯨岡を見上げた。胸の辺りが血で赤く染まっている。このまま放っておけば道明の命が尽きるのは時間の問題だろう。
「ちくしょう!」
再び鯨岡は歯を食いしばって立ち上がると、左足に体重をかけながら扉に向かって近づいていった。きっと簡単に逃げられぬようにしていったに違いない。だが、このまま死ぬわけにはいかない。エリカだけでも何としても助けてやりたい。
しかし、扉に辿り着く前に鯨岡ははっとして足を止めた。
(火薬の匂いがする)
それはさっきの拳銃の匂いではない。これは――
(あいつは俺たちを生き埋めにする気だ)
そのことに気づいた瞬間、大きな爆音が鯨岡の意識を奪っていった。
* * *
自分の生きてきた世界。
それがいかに狭いものか、エリカは自覚している。
子供の頃には、まだその世界も広かった。普通、大人になるにつれ世界というのは広くなっていくものだが、エリカの場合はまったく逆だった。
大人になるにつれ、その見える世界は狭くなっていった。それでも、それが自分の持つ運命であるならば、と自分に言い聞かせてきた。自分には自分を大切に護ってくれる兄がいる。そして、こんな自分でも愛してくれる恋人がいる。きっと、他人にはない幸せを持っているはずだ。そう自分を騙して生きてきた。
それなのに――なぜ、こんな目にあわなければいけないのだろう。
(ヤマザキカツミ)
そうだ、それがあの男の名前だ。
エリカは闇のなかでその名前を思った。防空壕の半分はすでに土で覆われている。エリカだけが土のなかから這い出ることが出来たことは奇跡と言えよう。だからといって助かったわけじゃない。このわずかに出来た空間から外に逃れられない限り、ほんの一時、命が永らえたに過ぎないことはエリカにもわかっている。『死』は確実に近づいてきている。
「お兄ちゃん! 道明さん!」
呼んでみても反応はまったくない。自分の声だけがその狭い暗闇のなかに響き渡る。
「うぅぅぅ……」
エリカは涙を零しながら、その土を掻き出しはじめた。自分が生きるためではない。死んだ二人をこの土のなかから救い出すために。
細く弱々しい腕で土を掻き、二人の姿を探しはじめる。一分もしないうちに指先が痛みはじめ、5分後には神経が麻痺しはじめていた。指先は切れ、血が滲んでいる。だが、その痛みよりもあの男に対する憎しみと、兄や愛する男のためエリカは手を休めようとはしなかった。この土のなかに二人は埋まっているはずだ。
これまでの経緯はここに連れてこられる途中に、山崎が陽気に喋っていた。
――おまえの兄貴たちはお人好しだ。
兄たちが山崎に騙され、犯罪に手を出したのは自分の目が原因なのだろう。もし、自分の目が見えていれば、決してこんなことにはならなかったはずだ。
(ヤマザキカツミ……ヤマザキカツミ)
頭のなかで何度もその名前を繰り返す。
本能的に『死』が近いことは理解している。きっと兄も道明も生きてはいないだろう。それでもエリカは必死に土のなかを探し続ける。
(許さない……ぜったいに許さない)
血に染まった拳を握り締め、エリカはあの男のことを憎んだ。




