第1話:激しい雷雨と、謎のエナドリと、恋の(?)Enterキー
窓の外では、狂ったような雷鳴が轟いていた。
バケツをひっくり返したような豪雨が、東京のど真ん中にあるオフィスビルのガラスを激しく叩きつけている。
築年数や立地の割には異常に賃料が安いこのビルは、事故物件だともっぱらの噂だ。江戸時代の処刑場後だとか、地下の開かずの間に悪霊が封印されていて災いを呼び寄せるだとかいう与田話もあるが、この豪雨がその災いなのかは定かではない。
坂口拓海、二十七歳。絶賛社畜中のシステムエンジニアの俺にとって重要なのは、そんな与太話よりも目の前のノルマだ。
今日の俺の姿勢は、我ながら目を覆いたくなるものだった。猫背というより、もはや直角。ストレートネックを限界まで前に突き出し、曲がった腰を椅子の奥に埋め込んだ、悪魔のデスクワーク姿勢のまま、夜のオフィスでキーボードを叩き続けていた。
「はぁ……首がガチガチだし、腰がL字で固まってる。でも、今日中にこのシステムを立ち上げないと……」
そんな時、少し離れた課長のデスク付近から、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「もう〜、課長ったらお上手なんですからぁ。今度本当に連れていってくださいね?」
声を弾ませていたのは、先月中途入社してきた桜井怜奈さんだった。少しウェーブのかかった髪に、男を惑わすお色気タイプの美人。オフィスの冷房対策だというカーディガンの胸元を深く開かせ、デレデレ顔の課長の肩に甘えるように腕を絡めている。
(……はぁ。社内の男を片っ端から骨抜きにしてるって噂は本当だったんだな。でも、俺みたいな地味なSEなんか、視界にすら入ってないか)
目線を下げ、ディスプレイに映るコードを打ち込むことだけに集中しようとしたその時――
(……あれ、なんか視線を感じる?)
一旦ディスプレイから目を離し、自分に送られる視線の出所を探るようにあたりを見渡していると……
なんと……、桜井さんと目が合った。
少し悲しい目で、自分と課長との絡みに対して反応が薄い俺を見つめている……ような気がした。
(え……?ウソ……、俺のことを気にしている?俺の嫉妬を煽ろうと、課長との絡みを見せつけている……?い、いや……!そんなわけないだろ!!社内のマドンナが俺なんかのこと気にするわけないだろ……!!)
精神を落ち着けようと目を伏せて、ぶつぶつと次のコードを呟いていると、ふわりと甘い香りが近づいてきて、鼻腔をくすぐった。
「坂口くーん、頑張ってるね。これ、差し入れ」
顔を上げると、いつもの魅惑的な笑みを浮かべた桜井さんが立っていた。
「えっ……。あ、桜井さん。ありがとうございます」
本当に俺の席に来た……
差し出されたのは、見たこともない海外製らしきエナジードリンクだった。
どことなく、駅前で、無料で配られているエナジードリンク『パープルエナジー』に似ている……。
添加物やらカフェインやらが死ぬほど入っていて、体に悪いともっぱらの噂だが、デスマーチを乗り切るために、ウチの会社でも結構飲んでいる社員はいるらしい。こんなものが無料で配布されているなんて、地元の鹿児島では考えられないことだ。
でも、缶の裏面を見ると、成分表示のところに見たこともない不気味な漢字がびっしりと並んでいて、『パープルエナジー』にも増して怪しい雰囲気があるような……。
おまけに、冷蔵庫に入れていたわけでもないのに、氷のように冷たい。
「それね、すっごく効くから。はい、飲んでみて?」
「あ、じゃあ、いただきます……」
桜井さんの視線に見守られながら、俺はその謎のエナドリをゴクゴクと一気に飲み干した。喉を焼くような、鉄のような奇妙な後味が残る。
ついでに、手元を戻す時に桜井さんの豊かな胸元をチラ見してしまったのは不可抗力だ。
俺が空き缶を置くのを見届けると、桜井さんは妖艶に微笑んだ。
「うん、良かった。私の仕事はもう終わったから、帰るね」
「えっ? こんな雷雨ですよ? 電車とか止まってるんじゃ……」
「ふふ、大丈夫。じゃあね、坂口くん」
彼女は軽やかな足取りで去っていった。
桜井さん、名残惜しい。
ふと、どこかから冷たい視線を感じて振り返ると、いつの間にか隣に東雲葵さんが立っていた。
彼女は部署の二大美人のうちのもう一人。ショートカットがよく似合う、さわやかカワイイタイプの同僚だ。
「坂口さん、桜井さんと仲良しですねぇ。うらやましい〜」
東雲さんは少し唇を尖らせてみせた。
「あ、いや、エナドリをもらっただけだよ」
「……ふーん。でも、あの人にはちょっと注意した方がいいですよ? じゃ、私も戻りますね」
東雲さんはそれだけ言うと、パタパタと自分の席に戻っていった。
(あれ……? もしかして東雲さん、嫉妬してる? え、俺、これ期待しちゃっていい流れなのか!?)
二十七歳の独身男の脳内に淡い期待が走る。
そんな妄想を振り払うように、俺は再びパソコンに向かった。ストレートネックをさらに突き出し、腰をくの字に曲げて、タイピングに没頭する。
――ズズズン……。
その時、これまでで一番大きな地響きがした。
ドガァァァァァァァンッッッ!!!!
凄まじい爆音とともに、落雷がこのオフィスビルを直撃した。
オフィスの明かりがすべて消え、完全な暗闇が訪れる。
「うわっ、停電か!?」
叫ぼうとした瞬間、俺の体内で異変が起きた。
パキパキパキパキッ!!!
聞いたこともないような関節の破裂音が響き、脳内に強烈な電気ショックのような衝撃が走る。
(な、なんだこれ……!? 体が、勝手に……!?)
自分の意志とは無関係に、俺の体は動き出した。
首を異様な角度で前に突き出し、腰を『く』の字に曲げたまま、両手を「手の甲を上にした幽霊のポーズ」で固定する。
そして、暗闇の中を爆速で滑るように移動し始めたのだ。
「シャァァァァァァァ(カチカチカチカチカチカチカチッ!!!)」
俺の指先が、虚空を恐ろしい速度で連打し、空気を引き裂く怪音を立てる。
自分の体が制御できない。俺の体はそのままエレベーターホールを通り抜け、一階のエントランス付近へと猛スピードで突き進んでいく。
そこには、雷雨で足止めを食らっていた部署の新入社員の女の子がいた。
「きゃっ!? な、何ですか、その姿勢――ひっ、来ないで!!」
(逃げてくれ! 俺じゃないんだ、体が勝手に動くんだ!!)
心の中で叫ぶが、声が出ない。俺は直角に曲がった腰のまま、新入社員の女の子をロックオンし、ブラインドタッチの姿勢のまま爆速で襲いかかろうと距離を詰める。
「カチカチカチカチ! 見ぃ〜つっけたぁ〜(Enterキーを強打するポーズ)」
「嫌ぁぁぁぁぁぁ!!」
女の子が恐怖で目を瞑った、その時だった。
パシィィィィィィンッッッ!!!
暗闇を切り裂くような、鮮やかな平手打ちが俺の頬に炸裂した。
「目を覚ましてください、坂口さん!!」
凛とした声とともに、懐中電灯の光が俺を照らす。そこにいたのは、息を切らせた東雲さんだった。
平手打ちの衝撃で、俺の体の自由がスッと戻る。ガクンと膝をつき、激しい息の後に自分の意志で声が出た。
「し、東雲さん……? 俺、今、一体……」
東雲さんは、俺の突き出た首と曲がった腰を険しい表情で見つめ、ポツリと呟いた。
「この姿勢の歪み……。もしかして、あの江戸時代の刀工の霊を呼び寄せてしまった……?」
「刀工? 刀鍛冶ってことですか……?」
「……坂口さん、明日すぐここに行ってください。腕のいい整体師がいます。彼ならば、今の坂口さんの状態もなんとかしてくれるでしょう。早急になんとかしなければ、坂口さんの魂は……。」
手渡された古びた紙には、薄暗い文字で「寿々木治療院」と書かれていた。
訳が分からない。
伝説の刀工?
霊?
そして整体師?
霊媒師じゃなくて?
いや、そもそも俺は霊なんて信じてねーんだよ!
……って言いたいところだけど、もし、さっきみたいなことが俺の身にもう一回起こって、新入社員の子を襲ったりしたらクビになるかも……。いや、クビどころか、このご時世だと社会的に完全に死ぬかも。
そんなことを考えている俺の頭の中に、東雲さんの言葉が降ってきた。
「さっきの落雷、あれは普通の自然現象じゃないわ。多分、坂口さんを狙っていたと思います」
なに!?なんで俺を!?
「坂口さん、もしかしたら、これから邪な者があの手この手で妨害工作をしてくるかもしれません。でも今は、とにかく誘いに飲まれず、明日すぐに寿々木治療院に行くことに集中してください」
邪な者…、妨害工作…。急展開過ぎて訳が分からないよ。
「坂口さんの仕事は、私がやっておきますから。この件が無事に落ち着いたら、一緒にご飯でも行きましょう」
そして、美女同期からの、まさかのデート(?)のお誘い。
二十七歳独身社畜の脳内にでは、邪な者という不吉なワードは一瞬にして端に寄せられ、薔薇色の未来が広がった。
よし、明日何が何でもその整体院に行ってやる!
俺は心の中で固く誓い、東雲さんに向かって力強く頷いた。




