CHAPTER_END
地球温暖化は真実らしい。そんな事をぼんやりと考えながら歩く里桜の髪を、生温い微風が撫でていく。
十月初旬の午前一時過ぎ。勤め先のファミレスから未紅の部屋に帰る途中だった。
駅前を過ぎて、ひっそりと寝静まった道を心持ちゆっくりと歩く。肩にかけたバッグがずり落ちそうになるのを、しっかりと抱え直した。そして何度目か解らない溜息をつく。
考えているのはお腹の子供のことだ。
十日ほど前に廣一朗に言われた言葉が頭に貼りついていた。生まれてくる子供の幸福を考えてやるべきだ、と彼は言った。
確かにこのままでは自分と同じ境遇にしてしまうのは明らかだった。この子は―――里桜はまだそれほど目立っていない下腹部を愛おしそうに撫でた。この子はほんとうならば鷹森家の長子なのに。父親が誰か解らない里桜とはまったく違うのだ。鷹森の名前をもらって、お金の苦労なんか縁のない環境で大事に育てられるべき子なのに。
でも里桜は、まだ生まれてもいないお腹の中の小さな命がとても愛おしい。手放すなんて考えただけで泣きそうになる。
このまま内緒で産んでこっそり育てたら、彼または彼女は大きくなって里桜を恨むだろうか。貧乏はともかく、父親に存在を知らせなかった事は確実に恨むだろう。
第一里桜が死んでしまったらどうなる? お産で死んだ人のニュースを最近はよく耳にする。子供じみた馬鹿げた感傷より母親としての責任を優先するべきだ。つまり、顕彦に会いに行くべきだ。
溜息は後から後から際限なく湧いてくる。
屋敷を出てきてからもう二ヶ月以上過ぎて、屋敷にいた期間とほぼ同じくらいになった。そろそろ顕彦の事は忘れてもいい頃なのに。
胸に当たる金属の感触を、ブラウスの上から確かめてみる。誕生日にもらったルビーの指輪だ。
指に嵌めていると分不相応で不用心だから、安物の鎖をつけて服の下に隠し持っている。こんな高価なもの、鷹森に置いてくるべきだったのだ。他は皆置いてきた。最初に山辺に貰った支度金の通帳さえも置いてきたのに。でもどうしてもこれだけは、指から外せずに持ってきてしまった。
好きじゃなくなればもっと気楽に会いに行けるだろう。なのに、今頃どうしてるかなとか、元気になっただろうか、なんてつい考えて指輪を眺めてる愚者な里桜。ほんとは忘れたくないのだ。空っぽになってしまうのが怖い。
もう少し後でもいい。里桜は昨日と同じ結論を出して、背中を一所懸命伸ばした。
今は多分マタニティブルーとかいう状況にあるのだ。お腹がもっとせり出してきて、勤め先を辞めなきゃならなくなった頃ならきっと、もっと現実的に考えられるに違いない。
煌々と明るいコンビニの前を通り過ぎて、隣のマンションを過ぎるとその先にはもう明るい場所はない。角を曲がって、薄暗い公園の前を抜けたところにある住宅街の二本目の路地に未紅のアパートはあった。
膝が少し寒い。今日のスカートはちょっと短かったかもしれない。
下半身の冷えは良くないと病院で注意されたのを思い出して、反省する。里桜は悪阻はほとんどなかったが、やや貧血気味と言われていた。
ちょうど公園の前にさしかかった時、背後に誰かが急ぎ近づく足音がした。
最近公園のあたりには痴漢が出没しているらしいから気をつけるように、と今朝未紅に注意されたばかりだ。里桜は気を引き締めた。
足音は近づいてくる。胸の鼓動が早くなり、歩調も早くなる。他には人影もない。
肩に誰かの手が触れた。
「放してよ‥!」
怖さのあまり里桜は振り向きざまに思い切り、背後に立った男を引っぱたいた。そして動顛した。薄暗い灯りに映し出されたのは顕彦だった。
「きゃあ‥! 顕彦さん‥! どうしよう、思い切り叩いちゃった‥。大丈夫、ねえ? ごめんなさい‥。」
頬を押さえて呆然としている顕彦を、とりあえず公園の入口付近のベンチに引っ張っていき、座らせた。急いでハンカチを湿らせ、頬に当てる。暗いので腫れているかどうかは見えないけれど、痛そうだった。
「あのう‥。ご、ごめんなさい。つい、痴漢と間違えちゃって‥。」
隣で身を竦ませながら里桜は言い訳をした。
顕彦はぼんやりと痴漢、と呟く。
次第に腹が立ってきたらしく、横顔に怒りが漂う。今の言い訳がかえってプライドを逆撫でしたらしい。里桜はますます小さくなる。
深呼吸を一つして、顕彦は静かに口を開いた。
「君は‥。つくづく酷い人だよね。僕が熱を出して意識を失くしている間にさっさと出ていってしまうし‥。やっと思い立って訪ねてきたら、いきなり殴るなんて‥。痴漢と間違えたって? 僕はちゃんと名前を呼んだはずだよ。君は痴漢に名前を教えてあるのか?」
「だって‥。怖かったから、名前呼ばれたのなんか気づかなかったもの。だいたい、顕彦さんはなんでこんな所にいるの‥こんな時間に?」
「訪ねてきたと言っただろう? こんな時間になったのは君が遅いからじゃないか。そこの角のコンビニで時間を潰していたら目の前を君が通って、それで後を追いかけてきたのに‥。まさかいきなり殴られるとはね‥!」
里桜はしゅんとうなだれた。最悪の再会。こんなのは全くの予想外だ。心の準備が全然できていないままだと言うのに。
ちらっと覗き見ると、彼はまだハンカチで頬を押さえたまま、横を向いている。
最後に会った時は小四郎だった。今はどちらだろう。声や口調は顕彦のように思える。董子さまの言葉通り、囚われていた部分はどうやら無事に彼の中に戻ったのか? 確かめたいけれど、訊くことはためらわれた。
外灯が鈍い光を瞬かせた。連動して金茶色の瞳が揺らめいた。懐かしい、綺麗な色。
里桜は何とか声を出した。
「ごめんなさい‥。今の事もだけど‥あの、その他にもいろいろと‥。黙って出てきちゃった事とか‥。」
顕彦はやっと里桜を向いた。
里桜は俯いて、彼の視線を避けた。とても見返す勇気はない。怒っているから尚更だ。
溜息混じりの声が聞こえる。
「鷹森の屋敷では君が出ていったのは僕が殴ったせいだと言われてる。そうなの?」
「え‥?」
「殴ったのは記憶にあるけど‥。あの時の僕の状態は君がいちばん良く解ってたはずだと思うのは僕が甘いのかな? だから僕には何も教えてくれないの‥‥そのお腹の子の事とか?」
里桜は胸がどきんとした。知っているのか。まさかそれで―――?
「誰から聞いたの‥?」
「誰から? 君から聞きたかったよ。僕にも‥権利はあると思うけどね。」
膝の上で手が震えた。無意識のうちにお腹を撫でる。思わず叫んだ。
「あたしからこの子を取り上げないで、お願い‥! 他は何でも言うことを聞くから。ね、いくら何でもそんな意地悪、するつもりじゃないよね?」
顕彦は一瞬絶句して、まじまじと里桜を見た。
「ねえ‥。顕彦さんは何でも持ってるじゃない? 呪いはもうなくなったんだから、誰でもこれからほんとに好きな人と結婚して‥子供だってたくさん持てるでしょ。だからこの子はあたしにくれてもいいじゃない‥? お願い‥。取らないで‥。」
必死で訴える里桜を見ている彼の表情がだんだん強ばって、冷たく固まった。
「他にいればその子は要らないなんて理屈があるのか? その子はその子で代わりなんてないだろう。それに同じ事は君にも言えるじゃないか。‥‥僕は生憎と諦める気はない。君が私生児を産みたくないって言っていたのと同じ理由で、僕も自分の子供を見捨てるような真似はしたくないんだ。その子は鷹森の子として、僕の手元で育てる。」
「ど‥どうして、そんな酷い事言うの‥?」
「酷いのは君の方だ。」
愕然として唇を噛みしめた里桜に、顕彦は更に冷ややかに言葉を続けた。
「籍の事だけど。入籍されていなかったのは単なる手違いだ。瞞していたわけじゃないよ。僕は君と正式に結婚したつもりでいたし‥今はもう、ちゃんと入籍しているから。だから君のお腹にいるのは法律上も明確に僕の子供だからね。」
里桜は強く首を振った。
「嫌‥! あたし、渡さない。どこか、遠くへ行っちゃえばいいんだわ‥。」
「話にならないな。」
冷たく言い放つと、顕彦はすっと立ち上がった。
「後は弁護士に任せる事にするよ。冷静に話ができる状況じゃないようだ。」
「待って‥。お願いだから‥。あたしと顕彦さんじゃ、初めから勝負になんかならないのは解ってるけど‥。やっと授かった家族なんだもん。お願いだから、あたしから引き離さないで。」
慌てて立ち上がり、顕彦の腕に縋りつく。
その手を冷たく振り払い、顕彦は里桜に向き直った。
「だったら君が戻ってくればいいじゃないか。離婚する手間が省ける。鷹森や僕にどれほど愛想をつかしていたとしても、子供のためだと思えば我慢できるだろう?」
里桜は呆然とした。
鷹森邸に戻る? それはまた別の意味で辛い。だって里桜は逃げてきたのだから。これ以上一緒にいる辛さから、たまらず逃げ出したのだ。
足の力が抜けてベンチにずるずると腰を下ろした。肩から落ちそうになったバッグを両手で抱えこんで俯く頬から、涙が一粒滴り落ちる。
見下ろした顕彦は、苛立たしげに溜息をついた。
ほんの束の間切なそうな眼を里桜の上に向けて、すぐに冷ややかな表情に戻すと、くるりと背を向け、歩き出す。
だが彼は結局、公園の入口で足を止め、しばらく夜天を見上げて逡巡した後に、里桜の前に戻ってきた。
おもむろに上着を脱ぐと、顕彦は里桜の短すぎるスカートから覗く膝から上を覆った。
びっくりして里桜は顔を上げた。醒めた表情のまま、金色の瞳がじっと見ている。
見返していたらたまらなくなって、涙がどっと溢れだした。
「戻れるわけないよ‥。だってまだ‥好きなんだもの。あたし‥カボチャになるのは耐えられないの。だから顔合わさないうちに黙って出てきたのに。少しは解ってくれてもいいじゃない‥。」
「カボチャ? 何、それ?」
顕彦は微かに眉をひそめた。
里桜は両手で顔を覆って、本格的に泣き始めた。
「パーティで言ってたじゃない、みんなカボチャだって。あの女の人たちって以前つき合ってた人たちなんでしょう? あたしだって同じだもん。呪いが解けてしまえば役に立てる事は何にもないし、お芝居続ける理由もなくなっちゃったわけだし‥。きっともっと悪いよ、そもそも鷹森の家の人になれるような、上品な育ちじゃないんだから。」
「‥‥。」
「考えれば考えるほど、ただ邪魔なだけじゃない。そりゃね。いくら顕彦さんでも面と向かって邪魔だなんて言わないかもしれないけど‥。きっとあの時のあの人たちに向けたみたいな、冷たい眼であたしを見るんだろうなって思ったら、もう一日も留まっていられない気がしたの‥。」
泣くのは得意じゃない。泣くと空っぽな自分が剥きだしになってしまうから。なのに顕彦といるとなぜかすぐに泣きたくなる。こんな想いはもう嫌だ―――辛すぎて。
「‥‥そんな下らない理由で、君は出ていったの?」
頭の上に、嘲るような調子の冷たい声が降ってきた。
俯いたまま言い返す。
「あたしには‥‥下らなくないもん。」
「呆れた。何てバカなんだろう。バカ、バカ里桜‥!」
吐き捨てるような口調にさすがにムッとして、里桜は顔を上げた。
「どうせ、バカ‥」
言葉は途中で途切れた。顕彦が里桜の頭を自分の胸に抱えこんだからだ。
「‥‥君に出ていかれて、僕がどんな想いをしたと思ってる?」
知らない。そんな事は解らない。
でも涙に濡れた頬に、彼の胸から体温が伝わってくる。里桜が命がけで守った体温と鼓動が、じんわりと躰に沁みこんでくる。
言葉の出ない里桜に、顕彦は静かに言った。
「あのさ。僕は多分、僕の両親よりはましな父親になれると思うし‥。世間一般並み程度の夫になら、なれる自信があるよ。」
里桜の背中に回された腕にぎゅっと力が籠もった。
「だからね。戻っておいで、里桜。君がいないと‥‥寂しいよ。」
膝からずり落ちかけた顕彦の上着を、しっかりと掴み直した。代わりにバッグが滑り落ちていく。聞き間違いでも夢でもないとすれば―――里桜はカボチャではないのか?
涙を止められなくてひく、ひくっとしゃくりあげながら、訊ねたいたくさんの言葉が頭の中を駆けめぐっていった。
消えそうなほどごく微かな声がやっと出た。
「それなら‥。や、屋台のラーメン、一緒に、食べて‥くれますか‥?」
違う。こんな事が訊きたいのではない。そうじゃなくて。
「いいよ。これから行こうか。」
くすくす微笑う声がすぐ耳元で響いた。
見なくても解る。笑っている時の顕彦の顔はとても―――綺麗なはず。
切なさがぐっと胸にこみあげ、里桜は再び言葉を失った。彼の背中にそうっと両手を回し、シャツをしっかり掴む。
肩ごしに広がる暗碧の空に、星明かりが仄かに瞬くのが見えた。




