CHAPTER 18
須藤寧子は電話の前で立ち尽くしていた。
今しがた掛かってきた夫からの電話は、『須藤トラスト』の社長解任が内定したからという連絡だった。
「どういうことなの‥? こんなに突然、何が起きたの。ちゃんと説明してよ!」
「自分の胸に聞いてくれ。廣一朗がこれからそっちへ行って説明するそうだ。」
激高する寧子に対する夫の返事は素っ気ないものだった。
―――ふん。誰のおかげで代議士だなんて大きな顔をしていられるのかしら? 鷹森の後ろ盾があってこそじゃないの。
寧子の怒りはますます膨らんだ。
鷺坂が出るはずの来春の選挙だって、寧子の協力がなければどうするというのだ?
「お母さま、ちょっと来て。ドレスの色見本なんだけど‥。」
「煩いわね‥! 今はそんな気分じゃないの。あっち去ってなさい!」
葵は肩を竦めて、さっさと立ち去った。母親の機嫌が悪い時は近づかないに限るのだ。
その後ろ姿を凶暴な目つきで寧子は見遣った。
まったくあの娘ときたら、どんどん父親そっくりになる。自分中心で、高慢で、品がない。あんな娘はさっさと嫁に出してしまいたいけれど、素行が悪くて貰い手がありやしない。それもろくでなしばっかり引っかけるのだからタチが悪い。
あんなだから顕彦に嫌われて、馬の骨みたいな小娘に鷹森を取られそうになるのだ。寧子が山辺を説得して手を打ったから良かったけれど。
寧子は葵に愛情を感じた事など一度もない。葵の父親に感じないのと同じだ。だいたいが家族なんてものは世間体のために必要なだけで、寧子にとっては家や車と大して変わらない生活必需品だった。
廣一朗が説明に来る、と要は言っていた。
廣一朗。あの子はいつだっていい子。息子には夫や娘に比べたらずっと優しい気持ちを持てる。幼い時から優秀で優しくて、自慢の息子だった。何より鷹森の顔を持っている。そこが一番肝心なところだ。
顕彦はいよいよ危篤状態だと聞いた。
可哀想な、憐れな子。生まれてこなければよかったのだ。鷹森の顔をしているから葵よりはいくらか可愛いが、死ぬ予定だったのだからもっと早く死んでくれていれば、もっと可愛いと思えたのに。
ともかく顕彦さえ死んでしまえば、須藤なんかどうでもいいのだ。
そうだ、離婚して実家に帰ればいい。もう一度鷹森寧子に戻ればいいのだ。そうすれば全部寧子の手に戻る。
寧子は、なぜ今まで思いつかなかったのだろう、と新しいアイデアに夢中になった。
そこへ廣一朗が入ってきた。
にこにこと機嫌良く出迎える。そうだ、この子は連れて帰ろう。鷹森の新しい当主には廣一朗がなるのだ。そう―――それがほんとうなのだから。
廣一朗は母がやけに機嫌が良いのを訝しく思った。
須藤要は電話口で寧子が激高して怒鳴っていたと言っていた。まあそれが当然だ。なのにこの上機嫌ぶりはどうだろう。
「要さんからお聞きになったと思いますけど、『須藤トラスト』は次の取締役会議で副社長の内藤氏を社長に推すことに内定しました。筆頭株主の要さんも承認する意向です。ついては寧子さん、解任されるのを待たずに辞任してもらえませんか?」
寧子は息子の顔をじろりと見た。
「解任の理由は何? 納得できれば辞任してもいいけど。」
廣一朗は溜息をついた。
「まもなく鷹森家から山辺和宏に対して資産横領幇助の訴えが出るでしょう。山辺は寧子さんの指示だと認めています。その上で、寧子さんが顕彦の委任状を提示したと申し立てるつもりですが、その委任状は偽造されたものです。山辺が判らないはずがないので、まあ、認められないでしょうね。寧子さん、あなたは私文書偽造、資産横領の罪を問われることになります。証拠は揃っていますから。」
「ははん‥! ばかばかしいわ。わたしのものを処分するのに、書類を揃えただけじゃないの。」
「いくら育ての親でも甥の財産を勝手に処分する権利はないんですよ。ほんとうは解っているはずでしょう? あなたは須藤に嫁入りする時に、既に相当な額の財産分けをしてもらっているんです。それで『須藤トラスト』を立ち上げたんじゃないですか。鷹森の財産はどうやってもあなたのものじゃない。顕彦が死んでも、寧子さんには相続の権利なんかないんだ。」
寧子のこめかみがひくひくと痙攣する。
「わたしが鷹森に戻ればいいのよ。離婚して‥! そうすれば‥。」
「そんなことをしても、甥の財産を相続する権利は法律上認められていません。顕彦が死んでもあなたには一銭も入らないんです。理解して下さい、頼むから‥!」
とうとう寧子は癇癪を爆発させた。
「おまえは誰の味方なの‥! 何のために弁護士にしたのよ! 冗談じゃないわ、あんな端金で破滅してたまるもんですか。わたしに刑務所に入れというの?」
「そうは言いません。ですが‥‥これ以上、顕彦に手出しするなら、僕はあなたを破滅に追いこみますよ。」
廣一朗の妙に静かな口調に、寧子はぎょっとして振り向いた。慌てて微笑を浮かべる。
「嫌だわ‥。ねえ、廣ちゃん。怖い顔しないでよ。ママが顕彦に何をしたと言うのかしら?」
「目の前に並べて欲しいですか? 証拠はあります。警察沙汰にしていないのは、顕彦の温情です。」
「しょ、証拠ですって‥?」
廣一朗は厳しい表情で母を見据えた。
「あんな幼稚な真似をして‥! 万一顕彦が死んでいたら、すぐに逮捕されていましたよ。鷹森家の人たちに感謝するんですね。」
「あの家の者がわたしに忠義を尽くすのは当たり前なの。警察になんか言うわけないのよ。心配性ね、廣ちゃん。」
寧子はふふ、と薄ら笑いを浮かべた。
「あなたって女は‥。端金って言いましたね、その端金のために、本気で顕彦を殺そうとしたんですか? 顕彦はあなたの血を分けた甥でしょう? 子供の頃は可愛がっていたように見えたけど‥。あれは直彦さんへの当てつけですか?」
「そうよ。でも可愛くないこともないわ。当たり前でしょう? もうすぐ顕彦が死んだら、心から悲しいと思ってあげてよ。」
「顕彦は死にませんよ。危篤というのは僕が流した虚偽の情報です。」
「何ですって‥?」
にべもない言葉に寧子はいきり立って、息子に詰め寄った。
廣一朗は更に冷たい眼を向ける。
「それから病気は完全に治癒しました。今後、もう幻覚症状は一切出ないでしょうし、死ぬ気遣いもありません。」
椅子に寧子を無理矢理座らせて、言葉を続ける。
「鷹森は横領ではなく貸付金で処理してもいいと言っています。返済期限は特に設けないそうです。これ以上の譲歩はありません。どうしても納得できないと言うのなら‥」
「何だと言うの?」
「僕は僕の実の父親が誰かを世間に公表します。あなたの大切な鷹森家のスキャンダルをね。‥‥顕彦と一緒に僕のことも殺しますか、お母さん?」
「おまえ‥。何を‥。」
驚愕して見開かれた瞳が、廣一朗へ向けられた。
「どうなんです? 僕なんか産まなければ良かったんですよ、お母さん。だから須藤に金を注ぎこまなければならなくなる。でも、もうお終いにして下さい。」
寧子はがくんと頸を垂れた。
「いつから知っていたの‥。」
「いつから? 物心ついた時には知ってましたよ。」
息子の視線の氷のような冷ややかさに初めて気づいたらしく、寧子は涙を溢れさせた。
「誰が、いったい‥?」
「隠してたつもりですか? あなたも直彦さんも、言えば要さんも‥。あれで解らなきゃ僕はよほどのバカでしょう。それにね。」
廣一朗は対面の椅子に静かに腰を下ろした。
「僕と顕彦は顕彦の両親が亡くなったあの日、鷹森邸にいたんです。口汚い罵り合いなんか聞きたくもなかったのに‥。」
二人を呼んだのは顕彦の母だった。
鷹森直彦と須藤廣一朗が親子であるというDNA鑑定書を提示して、彼女は離婚と約定通りの財産分与を要求した。脅迫したと言った方が的確かもしれない。
直彦は全く動じなかった。蔑みをこめた冷ややかな視線を戸籍上の妻に向けた。
「つくづく愚かな女だ。その書類は、おまえの産んだ顕彦に次期当主の資格がないという証明になるだけだと解らないのか? 下らない。どこへでも出せばいい。離婚は望むところだ、おまえの顔など二度と見たくない。うんざりだ。」
加えて財産は一円たりとも渡さない、と告げた。
「約束は跡取りを産むとの話だったはずだ。どちらにしろ、顕彦には跡取りの資格はない。おまえにももう用はない。慰謝料だと? この十八年間、おまえが湯水のごとく浪費した金がいくらになると思っているんだ? むしろこちらが払って欲しいくらいだ。」
頭に血が上って喚き始めた母親を、顕彦は父親と同じくらい冷ややかな瞳で見ていたが、彼女が取り落とした鑑定書をさりげなく拾うと、すっと部屋を出ていった。
ドアの前でちらりと廣一朗を振り返り、手招きする。廣一朗は吐息を呑みこんで、なるべく音を立てずに顕彦の後へ続いた。
部屋の外で鑑定書の封筒を廣一朗の手に押しこみ、顕彦はまっすぐ玄関へ向かった。
「従兄さん。さっさと東京へ帰ろうよ。あんな下らない喧嘩、聞いてやる必要はない。何年続けたら気がすむんだろうね? 虚しくないのかな。」
庭に駐車してある廣一朗の車へ向かって歩きながら、顕彦は溜息混じりに呟いた。
廣一朗は苦笑して、顕彦の頬に軽く触れた。
自分がとっくに知っていた事実を、彼も同様に知っていたのだとあらためて確認していた。腕の中にある封筒に入っている一通の鑑定書。こんな紙切れで証明してもらうまでもなく、言葉にして確かめ合う必要もなく。
顕彦は廣一朗の手に自分の手を重ねて、ふっと微笑した。
「不毛な諍いなんかしていないで、さっさと僕の下に何人でも子供を作ればよかったのに。なぜ解らないんだろう? ‥僕が死んだ後も、あの人たちは同じ主張を今度は過去形でするつもりかな? ばかばかしいね、まったく。」
雪空の下で微笑んだ十七の顕彦の貌は不思議な透明感を漂わせていた。
やりきれなくて正視できなかった。ただ手をぎゅっと握って車に乗りこませ、急いでエンジンをかけた記憶だけが強く残っている。
逃げるように帰り着いた東京の須藤邸で、鷹森直彦夫妻が死亡したと聞いた。二人が出てきた直後の出来事らしかった。
虚ろな貌で黙ったままの顕彦を振り向いて、廣一朗は言った。たった今から鷹森家の当主は顕彦だ、と。
あれからまもなく十年になる。
廣一朗は残像を振り払うように顔を上げて、寧子を見据えた。
「顕彦の母親が残したDNA鑑定書があります。僕が今日の午後五時までに解除しなければ、ネット上に公開される手筈になってる。」
寧子は悲鳴を上げた。
「そんな事をすれば須藤だけじゃないわ、おまえも顕彦だって‥! 鷹森家は‥。」
「要さんは今後、鷹森家と一切の関わりを持たないという条件をのみましたよ。僕と顕彦は家名なんか傷でも泥でも何でもつけばいい、と思ってます。」
「ああ‥。わたしにどうしろと言うの‥?」
両手で顔を覆い、さめざめと泣いている寧子を、廣一朗は見下ろして言い放った。
「先程から言っているでしょう? 『須藤トラスト』も鷹森も諦めて下さい。鷹森家へ今後一切干渉しないという条件付きで、顕彦はあなたの引退後の生活を信託財産の形で保障するそうです。念のために言えば、信託財産は顕彦の生きている間だけですから。どうか承諾して下さい。」
廣一朗は書類を揃えて、署名を求めた。
しぶしぶと持たされたペンで氏名を書き入れながら、寧子はふて腐れた表情で廣一朗を覗き見た。
「冷たい子ね。母親を泣かせてまで、どうしてそんなに顕彦を庇うの?」
「‥‥弟ですから。」
署名を確認して、実印を持たせる。寧子はまたしぶしぶ押した。
署名と捺印を何回か繰り返し、全部終わると廣一朗は二冊のファイルに分けて綴じた。一冊を寧子へ差し出す。
「寧子さんの分です。目を通しておいて下さい。」
「読んだってしょうがないでしょ? もう署名させられちゃったんだもの。」
受け取った寧子はぶつぶつ文句を言って、それでもページを捲った。
「借金は『須藤トラスト』名義ね。まあ当然よ、わたしが使ったわけじゃないものね。‥信託財産は三十億、運用利益が毎年のわたしの取り分。運用実績は年当たり約一億から一億五千万か、まあまあだわね。あら。カンヌやフロリダの別荘の永代優先使用権も付いてる。他にも‥。あの子が生きている限り約束は有効なのね? 途中で気が変わっても取り消されないのよね‥まあ、顕彦は随分気前がいいこと。兄さまほどケチじゃないわ。」
廣一朗はつくづく呆れて、母親に皮肉な目を向けた。
「鷹森との縁を切るのが条件ですから。忘れないで下さい。慶弔に拘わらず、鷹森は親族との関わりを今後一切断つそうです。寧子さんもあの屋敷に二度と入れませんよ。」
「そうなの‥。生まれ育った実家なのにね。ま、でも別にいいわ。あんな陰気なところ、用がないもの。おまえは例外なんでしょう? 用がある時はおまえに‥」
我慢できずに廣一朗は立ち上がった。
「僕も須藤の家を出て、縁を切ります。要さんも了承しました。事務所も辞めますし、あなたを含めて須藤の後始末をするのはこれきりですから。」
「何‥言ってるの‥? 解らないわ‥。」
寧子は急に慌てて、廣一朗に追い縋った。また涙を浮かべている。
「ちょっと、廣ちゃん‥。ママを見捨てるんじゃないでしょう? 困るわ、廣ちゃんがいなくちゃ、ママはこれから誰に頼ればいいの?」
「僕以外の誰かでしょう。もう、うんざりなんです。母親だと思うから、今までわがままを聞いてきましたけど‥。あなたは僕の弟を殺そうとした。直彦さんの事も僕の事も全部、鷹森の財産が欲しかっただけなんだ。そうでしょう?」
「どうして‥そんな、酷い言い方をするの‥。」
廣一朗は腕に絡んでいる寧子の手を、思い切り振り払った。
「酷い? 僕は全部許すと言っているんですよ。そんな事も解りませんか、お母さん?」
最後に書類をもう一度確認すると、廣一朗は黙ったまま部屋を出た。
背後で寧子のおろおろした声が呼んでいたが、不思議なほど心に動揺はなかった。
自分のマンションに戻った時はもう四時を過ぎていた。
パソコンに電源を入れて、起動を待つ間に顕彦に携帯でメールを送る。明日、契約書その他を携えて鷹森邸を訪ねるつもりだった。山辺をどうするかは顕彦次第だ。
起動したパソコンの前に腰を下ろすと、複数の会員制コミュニティサイトとマスコミ宛に送信する手筈にしていたタイマーを解除した。次に送信予定だったファイルをフォルダごと完全消去する。
DNA鑑定書のPDF付きの、第三者による告発文を装った須藤廣一朗の出生の秘密。これが暴露されたら須藤要の政治家生命は終わりだろう。後継者としての鷺坂の前途も危ない。しかし長年この秘密を懐に抱えこむ事で、須藤は鷹森から潤沢な資金を引き出してきたのだ。毒食わば皿まで、というところか。
須藤要はまさか廣一朗本人から脅しを受けるとは思っていなかったらしく、酷く驚いていた。寧子の暴走についてもうすうす知っていたのは確実だが、鷹森一族からは顕彦の死に方などに異論が出るはずもなく、山辺さえ手の内に収めておけば問題ないと考えていた節がある。その点についても廣一朗が顕彦を守護する側に回った事が意外であったようで、やはり驚きを隠していなかった。
「廣一朗。おまえは母親を殺人未遂で告発できるのか?」
「できます。僕自身の出自を公表する準備もできています。あなたはどうしますか?」
要は肩を竦めただけだった。
「寧子の説得はおまえがするのだろうな? わたしには無理だぞ。」
戸籍上の父との会談はごく短時間で結着した。元々鷹森の提示は須藤を生かすためのものだから、否応もない。
要も寧子と同じ質問を、もっとドライに訊いてきた。なぜ家族を裏切ってまで顕彦の味方をするのか、と。
廣一朗は同じように、弟だから、とひと言だけ答えた。
要は納得したようにも見えなかったが、それ以上質問もしなかった。お互いに解り合うほど言葉を交わした覚えがない事に気づいたのかもしれない。
家族? 家族は顕彦だけだ。廣一朗の中ではとっくの昔に結論が出ていた。
自分がこの世に在ったばかりに『呪い』の瞳を持って生まれた弟。不要だと疎まれて、大人の都合に翻弄されるだけの存在。初めてあの琥珀色の瞳が廣一朗を見て『従兄さん』と呼んだ時から、何があっても守ってやりたいと思ってきた。
けれどもう守ってやる必要はないのだ。明日で最後だ。
廣一朗は顕彦の瞳を思い浮かべて、スコッチをグラスに注いだ。氷を落とすと、ゆらゆらと揺れて金色に光る。
思わず微笑を浮かべた。そう。明日、『呪い』は解ける。
翌日の午後、廣一朗は鷹森邸に到着した。
二週間ほど前、意識が戻った事を確認しに来た時には、顕彦はまだ体力が回復していない様子で、真っ白な窶れた貌が酷く痛々しかった。
けれど気力の方は頭も気持もしっかりしていて、横領や殺人未遂に関する調査結果を目の前に並べられても特に動揺する気配もなく、須藤に大甘な提示をしたのは顕彦自身だ。
怒る様子もないというのは、須藤に対してとっくに見切りをつけていたからだろうか。何にせよ、おかげで廣一朗の仕事が楽になったのは確かだった。
今日の顕彦はサンルームテラスで、文庫本を片手に紅茶を飲んでいた。
初秋の柔らかな木漏れ日がさざめいて、ほんのりと血の色の増した頬を映し出している。どうやら着実に回復しているようだ。
顕彦は廣一朗に気づくと顔を上げて、本を閉じた。
「寧子叔母さんは落ち着いたの‥?」
隣に腰を下ろして、廣一朗は肯いた。
「しぶしぶね。自分が何をしたのかまだ解ってないみたいだけど、君の提示には至極満足してたよ。顕彦は直彦さんほどケチじゃないってさ。呆れ返って言葉もないね。でも、須藤といつでも縁を切れる状況になって、それが顕彦の命があってこそだという点はしっかり呑みこめたようだし。この屋敷に出入り禁止になった事にも大した感傷はなさそうだったから、この先は騒がせることもないと思うよ。」
唐沢からコーヒーを受け取り、手振りで唐沢にも座るよう示す。
「この度は鷹森家には多大な迷惑をかけた。僕からあらためてお詫びを言うよ。大変申し訳なかった。唐沢には特に世話をかけたね。有難う。でも‥須藤のために僕が頭を下げるのはこれきりだ。今後もしも何かあれば、遠慮は要らないから、警察でも何でも突き出してくれ。」
顕彦は紅茶を啜りながら、ちらりと一瞬視線を向けたが、何も言わなかった。
鞄からフォルダを二つ取り出すと、一つを顕彦に渡す。
「これ。書類一式が入っている。目を通してくれ。今後一切、須藤家は鷹森家とは直接関わらない。親戚付き合いからビジネスまでの一切だ。申し入れがあれば総て、指定された代理人を通すことになっている。代理人を誰にするかは君が決める事だ。山辺を告訴するかどうかも。」
「須藤家と言っても廣従兄さんと葵は別だ。兄妹のようなものだから。‥山辺とは契約解除するつもりだけど、告訴はできないだろうね。追い詰めすぎて、せっかく落ち着いた寧子叔母さんを焚きつけられても困る。早急に新しい顧問弁護士を見つけきゃならないな。腕が良くて信用できる人。渥美さんは引き受けてくれないかな?」
フォルダの中の書類を捲りながら、顕彦は淡々と喋った。醒めた瞳は相変わらずで、他人事のようだった。
廣一朗はコーヒーカップの中に視線を落としながら、答えた。
「渥美くんは明日の三十日いっぱいで事務所を辞めるんだ。須藤も鷹森もうんざりだと言っていたから、無理だろうね。」
「うんざり?」
「うん。愛想がつきたって。半分は君のせいだよ。」
「僕の‥? 渥美さんに何かしたかな。覚えがないけど。」
廣一朗はカップを置いた。
もう一つのフォルダから紙を一枚抜き取り、顕彦に手渡す。
「これだよ。君が署名したんだろ? 実印が押されてる。」
「委任状‥? 何だっけ‥日付は四月か。四月は年度代わりでやたら委任状に署名してたから、そのうちの一つかな? ‥‥『婚姻に関して山辺和宏に一任する』ああ‥。役所に届出するために必要だって言われたヤツだ。思い出した。これがどうしたの?」
怪訝な表情の顕彦に、廣一朗は更に二枚引っぱり出して見せた。
「これは何だか解るだろう? これも君が書いたものだ。」
「ん‥。婚姻届? なぜこれがここに?」
「で、こっちが里桜が署名した念書。『吉野里桜は鷹森顕彦との婚姻に同意する。なお婚姻届の提出時期は、鷹森顕彦に一任するものとする』ってあるだろ? なんでここに婚姻届があるかと言うと、山辺が出さなかったからだ。山辺は君の指示だと言ってる。里桜は君の意志に従う事に同意しているから、法律上は問題ない。でも渥美くんはこれは結婚詐欺だ、と主張しているわけだ。」
順々に手渡しながら、廣一朗は丁寧に説明した。
顕彦は明らかに動揺していた。少しほっとする。
「ちょっと待って‥。僕には何が何だか‥。」
「渥美くんはめちゃめちゃ怒ってた。後ろ盾のない未成年の女性を瞞す片棒を担がされるなんて屈辱だって。僕もそう思うよ、最低だね。」
唐沢も目に見えておろおろしていた。何か言おうとして、逡巡している。
廣一朗は続けた。
「おまけに勝手に出ていったからと言って、探しもしないし。あの子が一文無しなのはよく知っているだろうに、慰謝料の提示もしないのか? ほんとに君は酷い男だよね。」
「慰謝料なら提示しているはずだ‥。」
「ここを出てから、鷹森が吉野里桜に連絡を取ったことはないよ。」
「そんなばかな‥!」
叫んでから顕彦ははっと気づいた表情をした。
「山辺か‥。これも‥そうなのか‥。」
顕彦はぐっと唇を噛みしめた。怒りをこらえているらしい。
唐沢がおずおずと言った。
「あのう‥。四月の時点ではまだ届出は早いと、旦那さまが仰ったのではなかったのですか? 里桜さまのお人柄を確かめてからお出しになると、そうご指示なさったのでは? わたしは寧子さまからそう伺いました。もちろん、その後お出しになったものと思っておりましたが‥。」
「そんな指示は一切出してない‥! あの時にはもう誰でも良かったんだよ、今までのしがらみのない相手なら誰でも。里桜が‥金目当ての偽者だったとしても構わなかった。早くしなければ‥僕が保たないと思っていたから‥。」
顕彦が大声を出すなんて、いつ以来だろう。すごく不思議な感じがした。
「全部言い訳にしか聞こえないよ。現に書類は揃ってる。君の署名入りでね。」
テーブルの上にフォルダを放り出すと、廣一朗は足を組み直して、コーヒーのお代わりを頼んだ。
唐沢は心配そうに顕彦を見ていたが、すぐに立ち上がってキッチンの方へ向かった。
黙りこくった顕彦をちらりと見て、廣一朗は続けた。
「鷺坂が途中から里桜に纏わりつくのを止めたのは、てっきり脈がないと判断したからだと思っていたけど‥。今から思えば葵が急に上機嫌になって君を放り出したのと同じ時期だったよね。多分あの頃、山辺は様子見から須藤に乗る方へはっきり転換したんだな。‥ああ、ありがとう。」
唐沢から熱いコーヒーを受け取る。
唐沢は顕彦の冷めた紅茶も熱いのと取り替えて、不安げな表情のまま、下げたカップを持って再び部屋を出ていった。
「山辺は君の病気について詳しい事は一切里桜に教えなかったけど、あれは君の指示なのか? 彼女、君の事をやや病弱程度にしか認識していなかっただろう?」
「‥‥廣従兄さんの知らない指示なんか出してない。」
「そうか。山辺は君を徹底的に裏切ったわけだ。それはともかくとして‥。吉野里桜は結婚詐欺で君を訴える気は毛頭ないので安心してくれ、と渥美くんからの伝言だ。」
「里桜は‥入籍してないって知っているの?」
「もちろん。いつもみたいに笑ってたよ。」
顕彦は頭を抱えて、うなだれた。
「まあ‥結局のところ君が彼女にした事はね。世間知らずにつけこんで結婚するって瞞して、さんざん利用して、弄んだあげくに、出ていくよう仕向けてそれきり知らんぷりを決めこんでる、という話になるんだよ。」
「出ていけなんて言ってない‥。仕向けてなんて‥。」
「彼女はどう思ってるかな? 勘がいいから全部解ってるって、君自身の言葉だよ。」
「‥‥。」
「何もかも他人任せにしているからいけないんだ。それに里桜を散々弄んだのは事実だろう。『呪い』が解けてしまえばもう用済みというわけ? あんなにつくしてくれたのに、少しくらいは心配にならないのか?」
言葉にしているうちに、だんだん本気で腹が立ってくる。
「とにかくもう、君には里桜は必要ないわけだ。僕が貰っても文句はないね?」
顔を上げた顕彦をまっすぐに見据えた。
「彼女、妊娠してるんだ。一度も入籍してないから、このままじゃお腹の子は私生児になる。父親が必要なんだよ。きっと僕の申し出を受けてくれるだろう。」
「待って、従兄さん。それは僕の‥」
「安心していいよ。大切にするつもりだからね。経緯はちょっと違ったけど、君の当初の目論見と同じになるわけだし。」
廣一朗はコーヒーを飲み干すと、時計を見た。
「じゃ。失礼するよ。鷹森の新しい顧問弁護士は自分で探してくれ。役に立てなくて悪いけど。」
顕彦は青ざめた顔で俯いたまま、ひと言も返事を返さなかった。
甘やかすのはこれで最後だ。廣一朗は胸の中で呟いて、微笑をかみ殺した。
十月初めの日曜日。朝の八時に廣一朗のマンションのチャイムが鳴った。
朝に弱い廣一朗はなかなかベッドから抜けられず、せっかちに鳴り続けるチャイムの七回目でやっとインターフォンに出た。来客は渥美邑子だった。
自動ロックを解除しておいて、とりあえず顔だけ洗いに洗面所へと向かう。髭を剃る暇もないまま、パジャマでぼんやりとキッチンに行くと、邑子がテイクアウトの熱いコーヒーをカップに注いでくれているところだった。
「どうしたの‥? 早いね。」
「うん‥。ごめんなさい、朝、苦手だったわね。」
邑子は見慣れたスーツ姿ではなくて、薄手の黒いニットにジーンズを身につけていた。いつもはアップにまとめている長い髪も結んでいなかった。学生時代みたいだな、と懐かしい気分になる。
湯気の立っているカップを受け取って啜りながら、リビングに移動してソファに落ち着く。向かいに腰を下ろす気配を感じたけれど、顔は上げなかった。
「一昨日、顕彦さんから電話をいただいたの。」
「顕彦が君に? 何だって‥?」
邑子は肩を竦めた。
「‥‥鷹森の顧問弁護士にならないかって。明日、上京してくるそうよ。」
「ふうん。で、君は? 何て答えたの?」
「考えとくって答えたわ。引き受けたら、里桜ちゃんとお腹の子供の件をわたしに全権委任すると言うので。」
「はは。顕彦らしいやり方だな。まあ自分も出てくる気になっただけ、まだましか。」
廣一朗は苦笑する。
「山辺が契約解除でごねてるらしいわ。あれだけの事をしておいて、いけ図々しいと言うか‥。鷹森家はかなり秘密を握られてるらしいわね。詳細は明日、話してくれると言っていたけれど、顕彦さんは別に一切合財公表されても構わないそうよ。困るのは山辺事務所の方だろうって。ただ穏便にできればそれにこしたことはないから、その交渉をわたしにして欲しいって言うの。」
「そうか。山辺はやっぱり開き直ったんだ。ま、予想していた通りだけどね。‥君は随分、顕彦の話を聞いてやったんだね。そっちは予想してなかったな。」
邑子は照れくさそうに微笑った。
「初めは切り口上で切ろうとしたんだけど。いきなり謝られて、驚いてるうちに顕彦さんのペースに填っちゃったみたい。育ちか血なのか解らないけど、人を従わせる雰囲気があるわね、あの人には。」
「君を自分のペースに巻きこむなんて、普通の人間にはなかなかできない事だからね。さすがに当主だな、鷹森の傲慢さが色濃く表れてる。」
「茶化さないでよ。里桜ちゃんとは直接会って話し合うとも言ってたから、わたしも検討してもいいと思ったのよ。‥それからもう今は、入籍してるって。」
「へえ‥。脅かした甲斐があったな、行動が早い。」
邑子は顔を上げて、廣一朗を見た。
「やっぱり。廣くんが説得したのね? ‥まあ、仮にすぐに離婚てことになっても、出産前に入籍してあれば認知に関しては手間が省けるわね。養育料も貰いやすいし。責任を取らせるって前に言ってたのはそういうこと?」
廣一朗はくすくす笑った。
「いや。脅かしただけだよ。要らないなら里桜も子供も僕が貰うって。」
「本気なの? 里桜ちゃんが承知するとは思えないけど‥?」
怪訝な顔の邑子に、廣一朗は首を振って、微笑を返した。
「僕が里桜に申し出たのは出産費用と生活費の援助だけ。あの娘は‥何て言うか、ほんとの妹みたいなものだから。葵や顕彦よりよほど可愛いよ。」
そう。可愛い妹だ。共に鷹森の『呪い』と闘った戦友でもある。
「だけど忠告はした。気持は解るけど、子供のためを考えたら、このまま顕彦に知らせないわけにはいかないって。」
「里桜ちゃんは鷹森に子供を取られるんじゃないかと怯えているのよ。」
そう言って邑子は少し俯いた。
「わたし、つい、産むつもりなのって訊いちゃったの。里桜ちゃんは傷ついたみたい。『ママはあたしを産んでくれたから』って言われちゃった。まったくバカよね。考えればすぐ気がつく事なのに‥。顕彦さんにしっかり責任取らせるべきだって言った時も、里桜ちゃんは笑ってただけだけど、後で未紅ちゃんに言われたの。」
未紅は邑子に、渥美さんの言うのが正しいとあたしも思うけど、と前置きしてこう言ったそうだった。
「里桜は里桜の、『好き』って気持を全うしたいだけなんだよ。初めから片想いだと解ってたからもう何も要らないんだってさ。幸せになってくれたらそれでいいんだって。」
話しながら邑子は溜息をついた。
「十も年下の子たちに教えられちゃって‥ほんと、やんなっちゃう。自信失くすわ。」
それならば里桜はまだ、顕彦を好きなのか。その気持を思うと胸が痛い。
顕彦は里桜に会って何と告げるつもりだろう?
多分自分でも自信がないのだ。それで邑子を取りこみたいのだろう。邑子なら里桜に誠意ある対応をしてくれるから、最悪でも泥沼的事態は免れて顕彦の良心は軽くなる。
―――バカだな、あいつは。
苦笑がこぼれた。里桜は自分が欲しいモノを示されない限り、鷹森には戻らないだろう。里桜の欲しいモノが少しでも顕彦の中にある事を信じたい。廣一朗は心からそう願った。
「里桜は顕彦の子供を自分の手で育てたいわけだ。全うしたいってきっと、そういう意味だよね? 里桜がそこまで想い入れるほど、価値のある男じゃないのにな。」
自嘲を含んだ呟きに、邑子は少し驚いたような目をして彼を見た。
「ちょっとびっくり。廣くんから身内をけなす言葉が出るなんて‥。」
ふふっと微笑って、廣一朗は肩を竦めた。
「‥‥それで、鷹森の顧問弁護士、引き受けてくれるの?」
「里桜ちゃんのためにそうしようかと思ってる。傷つけたお詫びにってのも変だけどね。山辺を苛めてやりたいのもちょっとあるかな。」
邑子はあはは、と笑った。
「くされ縁を長引かせちゃったね。結局また君に面倒を押しつけて‥。申し訳ない。」
「いいのよ。」
頭を下げた廣一朗に向かって、邑子はにっこりと優しく微笑した。
不意に立ち上がって、キッチンからコーヒーの入ったサーモスボトルを持ってきた。お代わりを自分のカップに注ぎ、廣一朗の空のカップにも注ぐ。
「昨日の夜、廣くんからも書類が届いたわ。」
とくとくとく。
コーヒーを注ぐ音が心なしか大きく響いた。胸の鼓動も連動する。
「手紙にはわたしに保管しておいて欲しいって書いてあったわね。中、見ちゃったけど良かった?」
「うん‥。見て欲しかったんだ。で? 感想はどう? ますます愛想がつきたかな。」
邑子は目を伏せた。言葉を探しているみたいに見える。彼女が言葉を見つけられないなんて、滅多にあることではなかった。
書類とは、先日消去したフォルダの内容をプリントアウトしたものとDNA鑑定書の原本だった。廃棄するつもりだったけれども考えた末、邑子に送った。
理由は自分でもよく解らなかった。十二年間の答を出したかったのか、あるいは自分の存在が何なのかを確認するためか。どちらにせよ、邑子に決めて欲しいのかもしれない。
コーヒーを飲むふりをして、そっと顔を伏せる。
カップをテーブルに置き、邑子は廣一朗の隣に来てすとんと座った。
「ばかね。愛想がつきたのは須藤のやり方によ。あなたに愛想がつきたなんて言ってないでしょ。わたしはずっと‥待ってたの。あなたがわたしを必要としてくれる事を。」
廣一朗は顔を上げてじっと邑子を見つめた。
「気づいてなかったとは言わせないわよ。昨夜、手紙と書類を見て‥‥これは返事だと思ったの。だから今朝、来たのよ。もう少しも待てなかったから。」
邑子の瞳に涙が滲んだ。
初めて見る表情にどきどきする。遠い昔の、ほろ酔いの眼に映った凛と綺麗な横顔にイメージが重なる。
「じゃあ‥。今度こそ僕は努力を認めてもらえるのかな?」
邑子はうなずくと、廣一朗の唇に軽くキスした。
ほっそりした白い手を掴んで引き寄せ、宝物みたいに胸に強く抱いた。十二年間お預けをくらっていたというのに中学生みたいなキスで終われない。そう囁いたら、邑子は頬笑んで抱きしめ返してきた。
ちょっとびくつきながら、恐る恐る唇を捉える。柔らかい感触。柔らかくて―――すごく温かい。
たった今、生まれ直した。そんな気がした。




