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CHAPTER 14

 真っ暗な部屋にいきなり灯りがついた。

 無機質な室内に白いシーツを掛けられて何かが横たわっている。そっと触れると冷たい。氷のように底冷えのする冷たさだ。

 見せられた顔は微笑んでいなかった。いつも仄かな薔薇色を浮かべていた頬は、まるで白いプラスティック板みたいに見える。里桜の大好きな花のような笑顔は失われてしまった。多分、永久に。人が死ぬという事はそういう事なのだ、と里桜はつくづく思い知る。

 涙はこぼれなかった。里桜は泣くという行為が苦手なのだ。

 涙は断ちがたい執着とか未練とか、後悔とか自尊心、そういうものから生まれる。

 里桜の中にはそんな感情は初めからない。惜しむべき何かが欠損している。だから里桜は涙が出ない。いや、出なかった。今までは。

 鷹森の屋敷に来てから、些細な事で泣きたくなる里桜が生まれた。欠損していた何かが声を上げようとしているみたいに、時折胸がひどく痛くなる。病気なのか?

 手の中の冷たさが里桜の臆病を嘲笑った。『死』がもたらす白い、固い冷たさ。時間を巻き戻す事はできない、失われたモノは決して戻る事はない。非情な世界の(ことわり)

 冷たさが躰じゅうに浸み通ってきて、いつのまにか里桜は腕に顕彦をかき抱いている。

 氷のように冷たいのは腕の中の顕彦だ。

 里桜は叫んでいる。叫び続けている。だが声にはならない。

 自分の躰が全身を刻まれた野依の姿に重なっていって、顕彦の意識のない真っ白な頬に紅い血をぽたぽたと垂らした。切り刻まれて痛いのは躰なのか、それとも感情なのか。ただ痛い。痛くて痛くてたまらない。

 ふと薔薇の馥郁(ふくいく)とした香りが漂ってきた。

 気がつくと里桜は薔薇園の中にいる。四阿でベンチに腰を下ろし、まだ顕彦を抱えている。里桜がさっきこぼした血の(しずく)が次第に薔薇の花びらに変わっていって、腕の中の躰にいくらか体温が戻ってくる。

 隣に人の立つ気配がして、見上げると、着物を着た女性が立っていた。

 彼女はにこりともせず、唇を堅く引き結んで顕彦を見ている。心配そうに彼の頬に手を当てて、さめざめと涙を流し、微かな声で『にいさま』と呟いた。

 里桜はその女性を葵だと思った。年の頃はそれくらいだ。

 そう言えば顕彦が倒れたことを葵に知らせていなかった、と思い当たる。そんな事はもちろん里桜の手配すべき事じゃないけれど、自分が顕彦を浅ましく独り占めしようとしている気がしてきて、いたたまれなくなる。

 里桜はその女性に顕彦の躰を預けようとした。するとその(ひと)は静かに首を振った。

 ―――生きている人にしか、助けられないのです。

 ―――生きている人?

 ―――お願い。わたくしの大切なお兄さまを助けて下さい。貴女にしかできないのです。同じ想いを持つ、この時代に生きている貴女にしか。

この(ひと)は董子さまだ。真摯な横顔をまじまじと凝視めて、里桜は理解した。

 董子はそっと、庭の隅を指さした。

 そこには真っ黒な薔薇が一輪咲いていた。根元にぽっかりと黒い穴が開いている。

 ―――わたくしはただ、お兄さまに生きていて欲しかった。ごく当たり前に生を全うしていただきたかった。その想いだけを百年の間、この庭で育ててきました。どうかここの花を用いて、あの女の居場所を突きとめてください。

 ―――花を用いるって‥? 

 ―――あのように、あの女の想いは邪な色をしています。

 再び黒薔薇を指さす。

 ―――薔薇が黒くなる場所を探すの‥?

 里桜の問いに董子はうなずいた。そして里桜の手に両手を重ねる。温かい手だった。

 ―――わたくしの(こころ)の総てを貴女に託します。どうかお兄さまを助けて。

 木漏れ日が流れるようにすうっと消えていく董子の姿を、里桜はぼんやりと見送った。


 目が覚めた時里桜は、枕をしっとりと濡らしてとめどなく涙を流していた。

 時計を見るとまだ朝の四時少し前だ。空には星が瞬いているが、遠い山の端はうっすらと白くなりつつある。

 頬を拭って、いましがたの夢を反芻してみた。掌にまだ董子の手の温もりがはっきりと残っている。握りしめた指の感触も。

 同じ想い、と董子は言った。

 生きていてさえくれればいい。振り向いてもらえなくても、隣にいるのが別の誰かであっても、普通に生きてくれたらそれだけでいい。

 その叫びは遙か昔の野依にも重なる。

 それだけではなかった。昨日、図書室で感じたたくさんの手。犠牲になった生命の総てに同じ想いの誰かがいたのだろう。

 責任は重大。しかも恐らく今回がラストチャンス。

 そう思うとじっとしてはいられなかった。里桜はベッドを抜け出すと、急いで身支度を済ませ、階下に降りた。しんと静まりかえった廊下を抜けて、テラスから庭へと出る。気のせいだろうか、朝靄が立ち上る早朝の庭園には何かを待っているような気配が漂う。

 里桜は北西の黒い雲をじっと見据えた。思い切り深呼吸をする。それからまっすぐ薔薇園に向かって走り出した。


 小四郎は夢と現実(うつつ)の間を漂っているような感覚の中にいた。

 戦のない平和な世界。違和感があるようで、どこか馴染んでいる。食事も生活様式の何もかもが異なっているのに、躰だけでなく意識の裡でも当然のように受けとめている部分があった。おそらくそれは本来のこの躰の主のものだ。

 華奢な躰。この細い腕では太刀は振るえまい。だがここでは、そんな必要は全くないらしい。なにゆえ我はここに在るのか。確かに胡蝶が呼んだのか。胡蝶が悪霊になって七百年もの間、我が子孫を祟っている―――信じられぬ。

 真実この躰を取り殺しに参るというなら、我が目覚めた理由は胡蝶を救うためではないのか? この時代には我が守らねばならぬものは、我が身ひとつであるらしい。ならば胡蝶を救わねばならぬ。誰よりも愛しい、大切な妻を。

 そこで小四郎は思い至る。この躰の主にも妻と名のる女がいた。童女のような女だった。どう扱って良いか解らず、遠ざけているが、あの女は必死な目をしていた。どこかで見たような気がするのは、この躰の五感が記憶しているためだろう。

 窓の外は白々と明るくなりかけている。どうやら夜が明けるらしい。

 それにしても本来の時代では我はどうなったのか。解らぬ。何も解らぬ。

 やはり胡蝶に会わねば。胡蝶の口から我に何が起きたのか、話を聞くのだ。いやそれだけではない。何より―――逢いたい。

 ―――胡蝶。

 小四郎は心の中で、愛しい面影の名を呼んだ。


 穴蔵の中で胡蝶は小四郎の呼ぶ声を聞いた。

 土塊(つちくれ)の躰はほぼ完全に修復されて、力を(みなぎ)らせ、光り輝いていた。だが里桜に受けた痛みが微かに残っている。

 ―――今少し。今少しでお側に参りまする。

 胡蝶は胸がかき立てられる思いで、力の回復を待った。まだだ。もう少し力を溜めなければ、あの女を殺すことができない。

 しかし再び、胡蝶の脳裏に小四郎の呼ぶ声が響いてきた。

 胡蝶はもう待てなかった。

 すっくと立ち上がり、沼の中から這い出ると、稲妻を呼んだ。

 暁の空に雷鳴が轟き、穴蔵の上部にぱっくりと結界の口が開く。そこから胡蝶は飛んでいった。まっすぐ、恋しい声のもとへと。


 薔薇の花を腕いっぱいに抱えて北西の森をうろついていた里桜は、明るくなってきた空に一条の稲妻が走るのを見た。

 近い。すぐ近くだ。稲妻の切り立った方角へと急いで向かう。かき分けていた木々が途切れて、開けた場所に出た。そこで里桜は思わず悲鳴を上げた。

 落雷の後だろうか。三十メートル四方くらいの焼け焦げた地面があった。

 不気味なほど静かだった。テレビドラマでよくあるような、鴉が上空を飛んでいるとか虫が這い回っているとか、そんな気配は全くない。一種異様な『清浄さ』を感じる。まるで神域のような、畏怖すべき領界。

 里桜ははっと思い当たった。そうか。ここは野依の記憶にあった結界の中なのだ。

 恐る恐る足を踏み出す。びりびりと空気が痛い。そう感じる間もなく、足下に真っ黒な穴が開いた。慌てて、元の場所へと戻る。

 いったん里桜の前に開いた穴は瞬く間に広がった。焼け焦げて何もない土地は今や、真っ黒な深い闇に覆われている。よく見ると、闇は顕彦を襲いに来た影法師たちの集合体のようだ。ゆらゆらと揺れながら、不安定な形を流動的に変化させている。

 恐怖が背中を這いずり回って、里桜の躰は(こら)えようがないほどがたがたと震えていた。本能的に感じるのは圧倒的な力の差だ。里桜のような無知な小娘に何ができるというのか。ただ生きているというだけなのに。

 薔薇を抱いた手に、不意に温かみを感じた。

 朝日が山の稜線を際だたせてちょうど顔を出したところだった。光を受けて薔薇は、野依の微笑のように柔らかに輝いた。

 ごくりと唾を飲みこんで、里桜は行動を開始した。

 薔薇の花束を振り回しながら、影法師たちを払いのけ、地面が見えるたびに、そこへと移動して薔薇の花を突き刺してみる。董子が夢で言っていた言葉を頼りに、薔薇が黒く変ずる場所を探した。

 やっと真ん中付近で、その場所を見つけた。

 突き刺した薔薇の枝がみるみる色を変えたのだ。あっという間に花弁も葉も茎もすべてが、胡蝶の髪のような漆黒に染まってしまった。

 声もなく立ち竦んでいる里桜の目の前で、ぽっかりと地面に穴が開く。その下奥には澱んだ沼が見えた。

 立ち昇るのは死臭だろうか。吐き気がしてくる。

 迂闊に近寄ればすぐに呑みこまれてしまいそうな、暗闇の異界。

 表面に紅く光るものが見えた、と思った瞬間、それは覗きこむ里桜の顔をめがけてするするっと伸び上がった。

「きゃあっ。」

 里桜は悲鳴を上げ、咄嗟に残っていた数本の薔薇で襲撃者を打ち払った。

 薔薇は手の中でみるみる朽ちていく。朽ちた薔薇を投げつけると、里桜は一歩下がって、つくづくとその襲撃者を見た。なんとそれは眼を紅く光らせた青い大きな蛇だった。

 蛇は直径三十センチくらいの太さで、沼の表面でとぐろを巻いている尻尾を入れれば約十メートル程度だろうか。確かに大蛇ではあるが、大蛇と聞いて想像していたよりはずっと小さい。

 とはいえ、あれに締めつけられたら確実に死ぬな、と里桜は思った。


 小四郎のいる寝室は再び、夜よりも濃い漆黒の闇に包まれた。

 ―――胡蝶か。

 部屋の中央で小さな紅い光が一閃し、胡蝶が姿を現した。音もなくすべるように移動して、小四郎に近づいてくる。

「殿‥我が殿。お会いしとうございました‥。」

「胡蝶‥!」

 胡蝶はまっすぐに小四郎の胸に飛びこんできた。彼の頬に白い指を滑らせながら、黒い瞳いっぱいに涙を溜めて小四郎を―――顕彦を見つめる。

「胡蝶。そなた‥‥何をした? なにゆえ我はここにおるのか。」

 胸にかき抱きながら、震える声で小四郎は問う。

「約束を果たすためでございます、殿。」

「約束‥‥?」

「はい‥。あの春の日を思い出して下されませ。菜の花が咲いておりました‥。」

「菜の花‥。」

 脳裏に菜の花の草原が甦ってくる。あの時もこうして胡蝶を腕に抱いて、そして。

 小四郎は―――顕彦はそのまま胡蝶を抱えてベッドに倒れこんだ。

 艶やかな髪に、真珠のような頬に、濃い睫にキスを繰り返す。恋しくて胸が痛い。こんな気持は初めてだ、と思いつつ、既視感のループに嵌りこんでいるようでもある。

 胡蝶は嬉しそうに微笑みながら、縋りついてきた。

 柔らかな白い躰が波打つように絡まってくる。遁れられないほど、きつく。そして小四郎は―――顕彦は、胡蝶の腕から遁れる気になどなれない。

「殿‥。愛しいお方‥。決して離れぬとのお約束を思い出して下されましたか‥。」

「覚えておる‥。」

 ―――修羅の道も共に行こう。地獄であろうと共に。未来永劫離れはせぬ。

 確かにそう誓った。

「‥‥我は果たせなんだのか、胡蝶。ゆえにそなたを斯様(かよう)彷徨(さまよ)わせたか‥。」

「ああ‥殿! こうして再び殿とめぐり逢えましたからは、彷徨うた年月など如何(いか)ほどのことがございましょう? 誰よりも、何よりも‥。」

 胡蝶の双眸(そうぼう)から涙がほろほろと溢れ出た。胸に顔を埋めて、(むせ)び泣く。

「お慕い申しておりまする‥。」

 この世のものではない、と解っている。夜は明けたはずなのに二人を取りまくこの闇の深さはどうだ? しかし―――我ゆえに迷うたならば。

「我が願い、お聞き届け下さいませ‥。どうか、殿‥。」

「そなたの望みとは‥? この躰の生命か。」

「古えの誓いを果たして下さること。殿のお(こころ)を妾に‥‥。」

 言いかけて胡蝶はぐっと反り返った。そのまま硬直している。

「胡蝶‥。如何(いかが)した?」

「殿‥。誰かが‥邪魔を‥‥。苦しいっ‥! うう‥ぎゃあああっ‥!」

 胡蝶は凄い力で跳ね上がり、胸をかきむしりながら空中でのたうち回っている。

 小四郎は留めようと手を伸ばし、立ち上がった。

「胡蝶!」

 夢中で、胡蝶へ向かって手を差し出した。

「ああ‥殿、殿‥。」

 胡蝶は涙を溢れさせながら手を伸ばしているが、その姿は次第に闇に紛れていく。そして啜り泣くような悲鳴を遺して、消えた。

「‥‥胡蝶。」

 やっとの思いで捉まえた暗闇の欠片は、小四郎の―――顕彦の腕の中で虚しく消えていってしまった。

 ―――邪魔? 誰がいったい我と胡蝶の間を割いたのか。許せぬ。我は‥‥。

 ふと気づいた。我は―――僕は。何を欲している?


 里桜は瑠璃色の蛇を見上げた。

 恐怖が限界を超えて、頭の中は訳の解らない状態になっている。そんなはずじゃなかったのに、睨み合ってしまって動けない。

 すると蛇が嘲るようににんまり嗤った。というか、嗤ったように見えた。

 ―――もう遅い。おまえがどう足掻こうと負けじゃ。今頃胡蝶が七つめの玉を手に入れておる。我らの勝ちじゃ。

「我らって‥。あんた、胡蝶さんじゃないの? 別モノ?」

 驚いて、思わず問い返した。しかし蛇は不気味に嗤っただけだ。

 とにかくこんな所をうろついている場合じゃない。顕彦が危ない、すぐ戻らなければ。

 静かに後ずさりしてみる。蛇は襲ってくる様子はない。油断しないよう心に言い聞かせながら、一歩、また一歩と後ろに下がる。

 ふと蛇の紅い眼の横に擦り傷があるのに気づいた。

 先刻、薔薇で叩いた時についた傷だ。薔薇が効いたのか? それならばこれも効くかもしれない―――里桜は懐からひと包みの塩を取りだした。

 厄払いと言って由美が撒いていたのを思い出して、とりあえず持って来たものだ。

 大きく息を吐いて震える体を落ち着かせる。

 ―――一、二、三、えいっ‥!

 里桜は蛇の、紅い嫌らしい眼に向かって塩を投げつけた。そしてくるりと背を向けて一目散に走った。

 何が起こったか確かめる余裕はなかったが、蛇が苦しんでばしゃばしゃと暴れている音がした。追いかけてきちゃったらどうしよう、と思いながらとにかく夢中で走る。

 屋敷森を抜けて庭園の隅に辿りついた時には、足も心臓もどうにかなりそうだった。

 やっと後ろを振り返った。黒い雲は遠くで渦巻いていて近づく気配はない。屋敷の方角にも影の気配はなかった。

 けれど蛇の言葉が気になって、再び里桜は走り出した。

 嫌だ、絶対嫌だ。あんな蛇なんかに喰われてたまるものか。お願い、間に合って。無事でいて。また頬を涙が伝っている。里桜の情緒は不安定なままで、全く収拾がつかない。

 テラスから飛びこんで、まっすぐに顕彦の部屋へ向かう。

 寝室のドアは開いていて、唐沢が心配そうに覗きこんでいた。

「唐沢さん‥あの‥。顕彦さんは‥無事‥?」

 息を切らしてちゃんと喋れない。

「里桜さま‥? どうなされました、その格好は。どちらへいらしてたのですか?」

「ちょっと‥森へ‥。」

 散歩用のスウェットはあちこちかぎ裂きができていた。髪にまで葉や小枝をつけ、全身が露で湿っている。

「坊ちゃまはご無事です。つい先程、また暗闇に覆われてしまって‥。入ろうとしたのですがわたしには入れませんでした。それが突然、悲鳴が上がって、暗闇が消えまして‥。」

 唐沢は説明しながら、ハンカチを取り出して里桜の頬を拭いてくれた。涙を流しっ放しだった事に、今更ながら気づく。そして二人で、そっとドアの陰から寝室を覗いた。

 顕彦の躰はベッドの上で放心していた。

 とりあえず、生命を取られてはいない、と里桜は安堵の吐息をつく。

 その吐息が聞こえたのか、彼は顔を上げ、里桜を見留めた。

「里桜‥?」

 里桜はびっくりして心臓が止まるかと思った。顕彦が戻ってきたのだろうか―――ほんとうに?

「顕彦さん‥。顕彦さんなの? あたしが解るの?」

「坊ちゃま‥!」

 里桜は恐る恐る、自分を凝視している顕彦に近づいた。視線がやけにきつい感じがする。射すくめられているみたいな感覚。金色の瞳は怒っている。多分、もの凄く。

 いきなり頬を張り飛ばされて、里桜は床に吹っ飛んだ。

「胡蝶に‥何をした‥?」

 じんじん痛む頬を押さえて床に蹲りながら、里桜はその声が泣いていることに気づいた。震えていて弱々しく響くから、小四郎の声なのか顕彦の声なのか判別できない。

「消えてしまった‥。悲鳴を上げて。この手にせっかく抱いたものを‥。」

 唇をぐっと噛みしめる。

 もう同化が始まっているのだろうか。小四郎に引きずられて、顕彦は消えかけているのか。そんな事は嫌だ。認められない、絶対。そんなのは、あんまり、酷すぎる。

 顔を見返す勇気は出てこない。けれど俯いたままで里桜は精一杯言い返した。

「あ、あなたの気持は解るけど‥。でも、死んじゃうのよ。あの人が欲しがってるのは、顕彦さんの生命なんだもの。」

 氷のように冷たい声が答える。

「それがどうしたというのだ? 我が魂一つで済むのならくれてやってもよいのだ。躰の主も我に同意しておる。」

「そんなはずない‥!」

 思わず叫び返した里桜の上に、もう一度平手が飛んできた。

「おやめ下さい、坊ちゃま!」

 唐沢が身を挺して里桜を庇った。小四郎は―――顕彦は里桜に背を向ける。

「そなたの顔など、二度と見たくない。どこぞへ()ね。」

「坊ちゃま‥。いえ、小四郎さま。それは言い過ぎでは‥。」

 蹲ったまま、里桜は呼吸を整えて静かに言った。

「顔を見せるなというならもう来ません。でもお願いだから、よく考えてみて。その躰は顕彦さんのものなんです。この時代に生まれた、顕彦さんのものなの。」

 ゆっくりと立ち上がる。

「お願いします‥。あなたの時代であなたはちゃんと人生を全うしたんです。胡蝶さんの事もあなたなりに決着をつけたはずなんです。ねえ、お願い。顕彦さんは‥‥まだ、自分の人生を生きていないの。生まれた時からこの、『呪い』っていうか宿命? みたいなものに振り回されちゃってて、ちゃんと自分を生きた事がないの。死んでいいなんて思うはずない、生きたくて今までずっと闘ってきたんだから。お願い、もう一人のあなたを探して、声を聞いて。どうか‥お願いします。」

 里桜は縋るように背中を見た。しかし返事は返ってこなかった。

「さようなら‥。顔はもう出しませんから安心して。」

「里桜さま、お待ち下さい‥! 里桜さま。」

 唐沢の引き留めようとした手をやんわりとどけて、大丈夫、と里桜は笑って見せた。

「平気、平気。あたし、殴られるのは上手なんだ。怪我とかは心配ないから。唐沢さんはここについていてあげてね。」

 小走りに廊下へ出ると、いつのまに来たのか廣一朗が部屋の前に立っていた。

 里桜は笑みを繕って通り過ぎようとしたが、廣一朗は黙って腕を掴んで顔を向けさせた。里桜の前髪をかきあげ、赤く腫れた頬を確かめる。彼の表情が険しくなった。

「顕彦が殴ったの?」

「いえ。これは小四郎さんが‥。」

 そう答えたものの、顕彦だったかもという実感が消せなくて俯いた。

「あのバカ‥! すっかりひきずられちゃってるんだな。」

 廣一朗は小声で呟いた。

 急に涙がこぼれそうになった。話さなければいけない事があるのに、声を出そうとするとこらえている涙が邪魔して言葉にならない。

 察したらしく彼はダイニングルームで待ってる、と言った。

「シャワーを浴びてすっきりしたら、朝食にしよう。鈴木さんに里桜ちゃんの好きなものを並べてくれるよう、頼んでおくからね。僕がコーヒーを淹れてあげるよ。」

 うん。里桜はかろうじて肯いた。


 里桜の話を聞いた廣一朗と唐沢は、まず里桜の無謀を(いさ)めた。

 廣一朗は二度と一人で行くな、と厳しい口調で告げ、唐沢は酷く心配そうに里桜の体を気遣った。

「ごめんなさい。あたしもまさか蛇が出てくるとは予想してなくて‥。」

 素直に頭を下げる里桜にやや頬を緩めた廣一朗は、腕組みして考えこんだ。

「しかし‥。ほんとに蛇なんかいたとはね。」

「疑うわけではありませんが‥。幽霊までは何とか許容できますが、蛇の妖怪とはなんとも‥。どう考えたらよろしいやら。」

 戸惑いを隠せずに唐沢は深い吐息を漏らす。

「君の気持ちはよく解るよ。僕だって長い悪夢を見てると信じたいところだ。だがね、あの向こうの黒雲が消えるまでは、生憎と悪夢は覚めないらしい。」

 廣一朗はそう言うと、立ち上がった。

「廣一朗さん?」

 見上げた里桜の髪に手を置き、くしゃくしゃとかきまぜて彼は頬笑んだ。

「小四郎さんと話をしてくる。中世の妖怪なんか退治できるとしたら、鬼神と恐れられた英雄しかいないだろう? そうは思わないか。彼はきっと理解してくれるよ。」

 顕彦の寝室へと向かう二人の背中を見送りながら、里桜は複雑な気分だった。

 確かに蛇を倒す方法を知っているのは小四郎しかいないかもしれない。でも胡蝶を小四郎にもう一度殺せと言うのか? 野依の記憶の中で小四郎は酷く泣いていた。あれは辛い。今は顕彦の姿なのだ、あんなふうに嘆く顕彦を見るのはいたたまれない。

 里桜はのろのろと二階の自分の部屋へと向かった。

 部屋に辿りついて、ソファにどさっと腰を下ろす。なんだかどっと疲れが出て、クッションを枕に横になった。うとうととしてくる。寝てる場合じゃない、と気持は焦るけれど、目蓋が重くてたまらなくなってくる。

 口を引き結んだ董子さまや、心配そうな野依、啜り泣いている胡蝶の顔が、映画のプロモーション映像みたいに出たり入ったり、浮かんではまた消えていく。

 みんな囚われている。後悔に、運命に、暗闇に―――全て愛から始まったというのに。では里桜の想いはどこへ辿りつくのだろう? 

 ―――里桜。

 顕彦の声が聞こえた。

 姿も見える。ほんの数日前、木漏れ日の中に立っていた顕彦が見える。綺麗な瞳、綺麗な貌。仄かな、蝋燭の灯りみたいな微笑。

 ―――どこにいるの? みんな待ってるのに。

 ―――里桜。(いれもの)のない(おもい) は留めてはおけないんだ。躰のない心は消えるしかない。

 ―――え‥?

 ―――君はなぜ闘うの。僕は君に縋りついていいの‥?

 ―――だって‥好きだから。生きていて欲しい。他には何も要らないの‥。

 顕彦はふふっと曖昧な微笑を浮かべた。そして里桜を抱き寄せてキスした。胸が痛い。切なくて悲しくてたまらない。幸せなはずなのに、胸がじんじんするほど悲しい――

 いつのまにか里桜はソファで寝入っていたようだった。

 唇にまだ温かな感触が残っている。

 そっと指で確かめて、一人で赤面した。

 何とも欲求不満な夢を見たものだ。ちょっと心が弱ってたのかも。だから幸せだった瞬間を集めて自分に都合のいい夢を見たのだろう。

 都合のいい夢? 胡蝶が望んでいるのも同じ事だろうか。幸せな十年の過去を集めて永遠に夢を見るつもりなのか。何か変だ、と里桜の直感がひくひくする。

 (いれもの)のない(おもい) は留めてはおけない。

 顕彦の躰を殺してしまって、胡蝶はどこで永遠の夢を見るつもりなのだろう?

 もしや蛇の腹の中か。胡蝶のいる穴蔵は―――蛇の腹?

 里桜はすっくと立ち上がった。

 誰も彼も囚われている。解放してあげなければ、一刻も早く。

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