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CHAPTER 13

 小四郎は胡蝶が悪霊だという話がどうしても呑みこめないようだった。

 自分の目で確かめるまでは納得できないと言い、寝室に籠もってしまった。世話をする唐沢だけは近づけるが、廣一朗さえ用がなければ言葉を交わそうとしない。まして里桜などそばに寄せつけなかった。

 考える時間が必要なのだろうと廣一朗は言う。それは解るが、こうしている間にも顕彦が消えていくのではと里桜は心配でならない。

 屋敷の北西方向にある黒い雲は消えそうもなかった。気のせいか少しずつ大きくなっているようにも見える。禍々しい感じが濃くなっていく。

 里桜はじっとしていられないので、野依に話を聞きに行くことにした。

 顕彦のそばにいたいと思っても、小四郎が里桜を避けていたし、黒雲はまだ機会を窺っているだけのように感じる。話を聞くなら今のうちだとも考えた。

 だが野依は怯えていた。恐怖以外の明確なイメージが伝わってこない。一所懸命に話しかけてみたが、黒雲が渦巻く北西の森を見遣って、おろおろとするばかりだった。

「どうしよう? この間は記憶みたいなものを見せてくれたのに‥。ねえ、お願い。何があったのか教えて。誰かを必死で守りたかったんでしょ? あたしもそうなの、守りたい人がいるのよ。『お方さま』って人から。」

 野依は泣きそうな顔で、体がほとんど透けてしまっていた。曇っているせいだろうか。

「ほら‥。あなたも『お館さま』を守りたいんじゃない? 多分、あたしの守りたい人と同じ‥‥そうか! 小四郎さんにここに来てもらえばいいかも!」

 そう言えば野依が記憶を見せてくれた時は顕彦と一緒にいたのだった、と里桜は思い出す。

 すると小四郎の名を聞いて野依は明らかに変化した。

 透き通りそうだった姿がしっかりしてきて、足もだんだん見えてくる。里桜を凝視して、切なげな表情に変わっていく。

「やっぱり。あなたの『お館さま』って、小四郎さんなんだ。会いたいよね‥きっと。解るよ、その気持。」

 里桜は涙が滲んできた。

「連れてきてあげる。何があったのか、思い出してくれるかもしれないし。」

 野依は首を振った。そしておずおずと里桜に手を差し出す。

「どうして‥?」

 野依に近づいて手に触れてみる。ふうわりと柔らかな感触があった。

 驚いて里桜はそっと抱きしめてみた。不可思議な感触。ふわふわの羽根枕のようで、薔薇の香りがした。里桜は静かに目を閉じた。


 野依は埃だらけの道をとぼとぼと歩いていた。数えで十六。小柄な少女だった。

 戦で父を亡くし、兄弟も亡くした。母親と二人何とか暮らしてきたけれど、病気の母親を医者に診せるために身売りして村を出たところだった。前を歩く男は人買いだ。

 母が助からないのは解っていた。でも医者の薬を飲めば、あれほど苦しまなくてすむのだ。三月(みつき)か半年か解らないが、せめて残りの日々を安らかに過ごしてくれたら、そう願って野依は母を村の菩提寺に預け、人買いから受け取った金をそっくり渡した。母は泣いて引き留めたけれど、野依の気持は変わらなかった。人買いの男は同情したのか、屋敷奉公だから楽なものだと母を宥めていた。

 とっぷりと日が暮れて着いた屋敷には、どうやら同様に集められたらしい娘たちが十人ほどいた。

 娘たちはみな身をきれいに清められて、すべすべした上等の夜着を着せられ、座敷に押しこめられた。お互いに口を利いてはならぬと言われて、ただ黙っていた。

 ひと晩おきに一人、二人とどこかに連れ去られて、それきり帰ってこない。誰かが恐る恐る監視の者に訊ねると、用が済んで家に帰されたのだと言う。

 三人目に野依は選ばれて、長い廊下を歩いた先の離れ座敷に通された。真っ暗な座敷には夜具が敷き延べてあって、そこに座して待つよう指示された。

 かなり夜が更けた頃、誰かが入ってきた気配がした。大きな男だった。男は吐息をひとつ漏らすと、野依の上にのしかかった。

 何があっても声を出すなと言われた通り、野依は必死に(こら)えた。体が震えそうになるのもじっと我慢した。だがそれは長くはなく、ほんの僅かな間の事だった。男はたまりかねたように、乱暴に野依の体を放り出すと身仕舞いを直して部屋を出た。

「こんな馬鹿げた事はもう、今宵で終いじゃ。良いな、否はない。」

 廊下にいた誰かにそう言い捨てて、大股で遠ざかっていく。

 野依は続いて入ってきた女に体を確かめられて、そのまま暗い地下の牢に入れられた。

 そこでふた月ほど過ごしたであろうか。産婆らしき女が来て、身妊ったことを確認すると、陽の当たる狭い座敷に移された。

 身の回りの世話をする年配の女が二人、交代で付いていた。大切にしてもらっているようでもあるし、監視されているようでもあった。

 自分が身妊ったのが誰の子なのかは知らされないままだったが、お腹にいる赤子が大切な子であることはよく解った。だから大事なく産まねばならない、と思った。他の事は何も考えないようにしていた。余計な事は解らない方がいいのだとよく知っていたからだ。

 生まれた赤子は元気な声で泣いていた。

 男児だと誰かが嬉しそうに言うのが聞こえた。

 産婆は産湯をつかわせると、野依には顔を見せてもくれずにさっさとどこか別の場所に連れ去ってしまった。赤子の父親の顔を見てはならぬのと同じ理由で、赤子の顔も見てはならないのだろうか。野依はさすがに悲しかった。

 空ろな気持で横たわっているすぐ隣で、声がした。

「女はこの場にて始末いたしますか。それとも別の場所にて?」

 そうか。もう用は済んだから、自分は殺されるのか。せめて故郷の菩提寺に葬ってほしい。そう頼んだなら聞き入れてもらえるだろうか。

「いや。わしが預かろう。産婆を呼び戻し、産褥の世話をするよう伝えよ。」

 そう命じた声は、さきほど男児だと喜んでいた、年配の男の声だった。思わず振り向いて、野依はその老侍と目が合った。身分の高そうな衣服を着ていた。

「よい、そのままに。そなた、ようやったの。体を労るがよい。」

 そして野依はその老侍の世話で、山奥の尼寺に預けられた。

 外に出ることは許されなかったが、平和で静かな日々だった。顔も見せてもらえなかった我が子の無事だけを祈って、毎日を過ごしていた。

 その子が死んだ、と聞かされたのは一年半余り経ったある日のことだ。

 庵主に呼ばれて奥に行くと、野依を預けた老侍が難しい顔をして座っていた。慌てて、低頭する。庵主は涙を浮かべて、野依に告げた。

「野依。そなたが産んだ若様は亡くなられたそうです。」

「これ、庵主どの。お言葉に気をつけられよ。」

 老侍はいっそう険しい表情になって、押しとどめた。庵主は冷ややかな視線を向けた。

「野依はここに参ってより、自分の境遇をひと言も他言してはおりませぬ。朝夕、子の無事を一心に祈っておるのさえ知るはわたくしのみ。そもそも小野どのは野依にまた、哀れな仕打ちをしに参ったのでありましょう? せめて胸中のみでも誇りに思うことをお許しあるは当然ではありませぬか。」

 野依には二人の会話の意味はさっぱり解らなかったけれども、あの子が死んだのだという事だけは解った。なぜと心中で問うのさえ許されない気がして、ただ涙だけがすうっと一筋こぼれた。その涙はいっそう平伏することで隠した。

 小野と呼ばれた老侍はそれを見て、なぜか驚いたようだった。

「ともかく。この女子は貰い受けますゆえ。よろしゅうございますな?」

 連れていかれたのは山を下りてすぐの麓の寺だった。そこの離れで、野依は二年半前と同じような体験をした。

 違っていたのはいくらか丁寧に扱われたということだろうか。それに今度は地下牢に押しこめられることはなかった。小野という老侍によれば、野依の命を助けたのも今回野依を召し出すよう命じたのも、赤子の父親自身であるそうだった。

「あの時そなた以外の女子(おなご)は誰も身妊らなんだのじゃ。それもそなたにはほんの僅かな間触れたのみ。よほど縁が強いのかもしれぬ、そんな女子を殺めては後生が悪い、と仰せられての。この度はそなたで得られぬなら、子は諦めると申されておる。」

 胸の奥がほんの少し温まる気がした。野依の身分からしたら過分な思召しだ。亡くなったという赤子が大切に慈しまれていた証だと思った。

 野依は再び身妊り、男の子を産んだ。

 やはり一度目と同様に赤子を腕に抱くことはおろか、顔を見ることも許されなかった。

 人目に隠れてこっそりと、野依は泣いた。せめて一度だけでいい。腕に抱くことができたら。このつんと張って痛い胸に抱えて、乳をふくませることができたら。しかし口には出せなかった。


 里桜は野依の記憶に入りこんで、立ち竦んだまま泣きっ放しに泣いていた。

 彼女の中に入りこんでしまっているせいか、酷いとか理不尽だとか、現代ならばあたりまえの感情が湧いてこなかった。ただ、ただ、切なくて悲しい。

 その時、里桜を探しに来たらしい廣一朗の声がした。

「里桜ちゃん‥。その人は誰‥?」

「廣一朗さん。野依さんが‥視えるの?」

「てことは、もしや、また人じゃない人なのか。」

 廣一朗はやや自棄(やけ)くそ気味に呟いた。もう驚かないようだった。

「この人はね、野依さん。」

 里桜は鼻をすすりながら、彼女が小四郎の時代の人で、その記憶を見せてもらっているのだと説明した。

 近づいてきた廣一朗に野依は手を差し伸べた。彼は恐る恐るその手を取る。野依の回想がまた始まった。


 山寺に返される様子もなく、その寺でふた月余りが過ぎた。

 夏の暑い日のことだ。慌ただしく小野老人がやってきて、涙ながらに次郎丸さまが亡くなられた、と野依に伝えた。次郎丸というのが二人目のあの子であることはすぐ解った。野依は唇を噛みしめて涙を(こら)えようとしたが、堪えきれなかった。

 こんなに早く逝くとは元々身体の弱い子であったのだろうか。それでお咎めのため、野依はここに留め置かれているのか? ならば早く命を断って欲しいと野依は思った。

 だが小野の来訪の理由は、今夜三度目のお渡りがあると告げるためだった。

 前の二回と同じく真っ暗なままで顔を見ることも言葉を交わすことも許されなかったけれど、今度はひと晩ではなく五晩続いた。そして最後に去る前にひと言だけ、頼む、と声がした。

 そのまますぐに立ち去ってしまったので、野依に向けられたものなのかどうかは解らなかった。廊下に控えていた者への言葉だったかもしれない。だが野依はそのお方が自分をただの借り腹ではなく、一人の人間として扱ってくれたような気がして、心の中ではい、と返事をしていた。

 三度目の臨月を迎えたとき、野依は意を決して小野老人にお願いをした。ただ一度でいいから乳を含ませることを許してもらいたい、と。

「どうかお願いいたします。一度だけお許し願えれば、その後はお顔も忘れまする。」

 その時は小野の屋敷の離れに移されていて、小野は孫の顔を楽しみにしている翁のように、三日と開けず野依の身体を気遣いに顔を出していた。

 小野は困った顔をしていたが、ぽつりと気持は解ると言った。

「今まで黙ってよう尽くしてくれたそなたの願いじゃ。何とかしてみよう。」

「有難うございます。決して仇をなすような真似は致しませぬ。」

 やがて三度目も野依は男児を産んだ。体格のいい元気な子だった。

「野依。お館さまの思し召しじゃ。十日の間そなたの手元に置くことを許す、と。」

「まことにござりますか。有難うございます。ご恩は決して忘れませぬ。」

 嬉しかった。何度も何度も礼を言って、頭を下げた。

 野依は産褥中だという事を忘れるほど動いて、まめまめしく赤子の世話をした。

 三郎丸と名づけられた御子は、小さな両手で野依の乳房に縋りついて力強く乳を吸った。愛しくて可愛くて、それだけで幸せだった。与えられた十日間が宝物のように思え、与えてくれた『お館さま』に心の底から感謝した。

 七日目頃だったろうか。野依が赤子に寄り添ってうとうととしていた時のことだ。

 御簾を隔ててひそやかな話し声がした。

 ―――ではやはり、お方さまが。

 ―――間違いあるまい。乳母がなかなか見つからなんだのも、怯えておるせいじゃ。

 ―――お館さまはなんと仰せです?

 ―――三郎丸さまを連れてしばらく行方をくらませとの仰せじゃ。次の戦が片づけば、瑠璃の方さまも落ち着かれよう。さすれば正式に小野家に養育係の命が下る。

 ―――それでは‥。お館さまは瑠璃の方さまの手でのご養育は断念なされたのですね。

 ―――是非もない。お方さまが狂乱なされば‥。国は滅びる。元々は慈悲深いお方ゆえ、目の前に若君のお顔がなければ狂われることはあるまい。

 荘助老人と嫡男の勘助が話しているようだった。瑠璃の方、という名を聞いて、野依は初めて自分の産んだ御子が鷹森の若君であることを知った。

 身分のある人とは思っていたがまさか鷹森のお殿さまであったとは。三領を束ねるご領主さまの後嗣(こうし)を自分は()したのか。野依は庵主の『誇りに思う』という言葉がやっと腑に落ちた。

 つくづくと隣の三郎丸を見る。すやすやと寝入っていた。どうか無事に大きくなりますように。それだけを一心に願った。

 明日は引き渡さねばならぬという晩。野依が乳を含ませているところに、人が入ってくる気配がした。

 几帳の陰で身仕舞いを直そうとすると、そのままでよい、と声がした。

 ―――お館さまだ。

 野依はどきどきした。灯りのついた場所で対面するのは初めてだ。

 乳を飲ませ終えてから、平伏して脇に避ける。小四郎が横を通り過ぎて、三郎丸の傍らに跪き、抱き上げる気配を感じた。

 頭を下げたまま、そっと退がろうとする。するとまた声がした。

「退がらずともよい。(おもて)を上げよ、許す。」

 おずおずと顔を上げる。これが鬼神と噂されるお人か、と野依は眩しく見上げた。

 圧倒されるような猛々しい雰囲気の中で、腕に抱いた赤子に向ける瞳は優しかった。伝え聞く通りの不思議な色の瞳。小四郎は子に注いだまなざしをそのまま野依に向けた。

「野依。よう産んでくれた。礼を言う。」

 野依はもったいないお言葉、ともごもごと返すのが精一杯で、胸を詰まらせた。名を呼んでくれたことが何より嬉しかった。野依にも名があると知っていてくれたことが。

 そっと上目遣いに子をあやす横顔を覗き見る。胸に愛しい想いが広がる。機嫌良く笑う三郎丸はよく父に似ていた。

 恐怖はそれからひと月ほどした夏の初めにやって来た。

 不意に背後から伸びてきた手が、野依の髪を引っ掴んだ。この世のものとは思えぬほど妖艶な美貌の女がすっくと立っていた。怒りと憎しみが陽炎のようにゆらゆらと沸き立っている。野依は怖ろしくて、声も出せずにただ震えていた。


 里桜と廣一朗は顔を見合わせた。瑠璃色の衣を纏ったその姿はまさしく胡蝶だった。野依も『お方さま』と呼んでいる。

 その後のあまりに残酷な仕打ちはとても正視できるものではなかった。

 野依の感情に入りこんでいる里桜は腰を抜かしてしまい、廣一朗に支えてもらわなければならなかった。涙も止まらない。


 野依の恐怖と苦痛の中にはやがて、無念さ、口惜しさが混じってくる。

 ―――解りませぬ。お館さまの寵愛も身分も美しさも総て手中にしてなにゆえ?

 血を吐きながら野依は初めて、自分が心の底で求めていたものを知った。目の前の狂女に対して、やるせないほどの羨望と嫉妬と怒りを覚えた。

 ―――なにゆえ、愛しいお方の幸せを自分の幸せと思えませぬのか。

「面白い。妾に説教するか。ではおまえは自分がどのような目に遭おうと、愛しい子の幸せを願えるのであろうな? 」

 胡蝶の嘲る声が里桜の耳にも響いた。野依の意識が一時遠退(とおの)いた。

 次に野依があまりの苦痛に意識を取り戻した時は、椿の木に縛りつけられていた。体中の無数の傷から血がぽたり、ぽたりと足下に零れ落ちていく。

「おまえはそこで見ているがよい。おまえの血の最後の一滴がこぼれるまで、ずっと。」

 胡蝶は高笑いしていた。

 印を結び、呪文を唱えると、黒い影のようなものが野依の周りを取り囲んだ。くるくると渦を巻いて、足下に真っ黒な穴を作り上げていく。恐怖で野依は叫んだ。

「転生して再び小四郎どのを誑かすことのないよう、おまえの魂はその場所に呪縛する。誰からも見い出されず、孤独に見守るがよい。それでもおまえが愛しい子の幸せを願っていられるか、ほんに見ものじゃ。その心が恨みに染め変えられた時、我が配下の死霊となり、自らの子を食らう曲霊(まがつい)と変ず。ほほ‥。」

 胡蝶の嘲笑は続いた。

 野依は苦痛に呻きながら、一昼夜の後に事切れた。そして魂はすうっと、足下の黒い穴に吸いこまれていった。


「それからずっと‥。ここにいるんですか、野依さん?」

 しゃくりあげていて口が利けない里桜に変わって、廣一朗が訊ねた。里桜を支えてくれる手が微かに震えていた。

 野依は静かにうなずいた。

「じゃあ‥。あなたは誰の事も恨まなかったんだ。気づいてくれた人はいたんですか、この七百年の間に?」

 今度は里桜をじっと見る。微かに頬笑んだ。

「里桜ちゃんが初めて? それでも‥恨めしく思うことはなかったんですか。小四郎さんや三郎丸さんに気づいて欲しいとは思わなかったの?」

 ―――お館さまはわたしの顔など覚えてはおられますまい。それでよいのです。

 声が聞こえたような気がした。

「そんな‥。それでいいの、ほんとに?」

 思わず叫んだ里桜に向き直って、野依はうなずいた。想いが伝わってくる。

 永い間のうちに土や草木の一部になってしまい、何もかも忘れ果てていた事。荒れ野だったこの地に再び館を建て、薔薇を植えてくれた人がいた事。その人たちが鷹森のお殿さまの子孫であると気づいて、やっと自分の名前だけ思い出した事。

 ―――そしてあなたがわたしを見つけてくれたおかげで、わたしは総てをはっきりと思い出すことができました。有難う。どうか、お方さまの呪詛からお館さまの魂をお救い下さい。

 野依の表情が再び恐怖と不安に覆われた。

 そして再び、今度は囚われの魂となった野依の記憶が二人の脳裏に映し出される。


 野依が目を開けると、目の前では大勢の人が血祭りに上げられていた。あまりに惨くて、野依には見ていられない。胡蝶は完全に狂気の虜となっている。

 胡蝶は殺めた人々の血を大量に搾り取ると、大桶に集めた。

 魂だけになった野依が見ていると、積み上げられた屍から次々と囚われた魂魄が舞い上がって大桶に飛びこんでいく。真っ赤な血の色が次第に黒く変わった。

 胡蝶は懐から鷹森家の紋の入った立派な鞘と手鏡を取り出した。血まみれの懐剣で自分の小指を切り落とすと、大桶に放りこむ。更にその血を手鏡にべったりとなすりつけた。

 よく見ると口を動かして何やら呪文を唱え続けている。最後に懐剣を袖で拭い、鞘に収めた。そして愛おしそうに頬ずりしている。

 大桶はゆっくりと地面に沈み始めていた。野依の足下に開いたのと同じ真っ黒い闇が、桶の下に口を開けて呑みこもうとしていた。

 その横では胡蝶が地面に結界を張っていた。縄を張った四隅に塩や榊ではなく血の入った杯を置いている。なにやら呪文を唱えているうちに、結界内に大きく黒い闇の穴ができてくる。

 完全にできあがると、胡蝶は縄と杯を順々にその穴の中へ放りこんでいった。ぶつぶつ更に唱えつつ、念を込めて手鏡と懐剣を投げこんだ。

 再び印を結び、一心不乱に何かを唱え続ける。いつのまにか手に持っていた真っ赤な血の色の珊瑚玉を一つ、二つ、と数えながら全部で七つ、穴に入れた。

 胡蝶は額の汗を拭いながら、ぞっとするような微笑を浮かべた。

「七つの玉が揃う時、妾のもとに小四郎どのの魂が戻る。」

 満足げに独り言を呟きながら、野依を振り返った。

「おまえの賤しい躰に触れる前の殿を取り戻すのじゃ。どれほどの時が費やされようと、妾と殿の十年の絆を永遠に我がものとするために。おまえはそこで空しく見ておるがよい。」

 誰もいなくなった館に、せせら笑う声が狂おしく響いた。

 翌日、小四郎が駆けつけてきた。

 里桜と廣一朗が感じている野依の心がまた、優しい気持ちでいっぱいになる。

 野依の無残な亡骸を小四郎が丁重に地面に下ろして合掌した時には、破裂しそうなほどに感情が溢れていた。

 小四郎は胡蝶を腕に抱いたまま刺し殺し、さめざめと泣いていた。

 野依の目を通して見ている里桜たちには、それが術の仕掛けの完成だと解る。胡蝶が刺し殺された場所は黒い穴の上で、胡蝶の血を吸って闇は紅く輝いた。

 ―――殿が幾たび生まれ変わろうと必ず、お側に参りまする。

 胡蝶のいまわの際のこの言葉こそが呪詛なのだ、と野依は語りかける。

 そして泣いている小四郎を後目に、胡蝶の魂魄はまっすぐ北西の方角へ飛んでいった。七百年後の今、黒雲が渦巻いているまさしくその場所へ。


 涙を拭きながら、里桜は途方に暮れていた。

 『呪い』とは真実、呪術だったなんて。二十一世紀のこの時代にどうすればいいというのか。お祓いは全く効き目がなかったと顕彦は言っていた。

 廣一朗は茫然とした様子で何か考えこんでいた。

「野依さん。七つの玉が揃う時って、七番目の顕彦の命を取った時と考えていいんだろうか。今、顕彦はいなくて小四郎さんの意識が甦っているのに、命を取る必要があるのかな? ‥‥あなたに考えを聞くのは変かな。」

 どうやら考える事はできないようだった。記憶を伝えるので精一杯なのだろう。

「ごめん。記憶を見せてもらっただけで、もの凄く有難いよ。僕等は現在の顕彦の魂を取り戻したいんだけど、まずその前に顕彦の躰を守らなきゃいけないみたいだ。今まで見守ってくれて有難う。子孫を代表して、お礼を言います。」

 野依は嬉しそうに廣一朗を見つめた。廣一朗はふんわりした頼りない手をぎゅっと握りしめて、言葉を継いだ。

「僕には解りません。あなたがなぜたった一度名前を呼んでくれただけの男を、こんなに長く、強く想い続けていられるのか‥。でもあなたの温かい気持ちはよく伝わってきます。あなたの存在すら知らなかった息子を、その子孫たちを、どうしてそんなに優しい気持ちで愛せるのだろう。僕は‥‥」

 俯いている廣一朗の頬をふんわりした羽のようなものが撫でた。彼は目を上げて野依をじっと見ていたが、やがて微笑んだ。

 里桜は廣一朗の横顔から目をそらした。何となく見てはいけない気がしたからだ。あんな寂しげな瞳をする人だとは今まで気づかなかった。

 野依に(いとま)を告げて屋敷へと戻りながら、里桜は野依を見つけた時の事をざっと廣一朗に説明した。

「顕彦さんにも見えなかったのに、どうしてあたしにだけ視えたのか今でも解らないんですけど。ただね、今から思えば顕彦さんと一緒の時はいつも、野依さんは嬉しそうにしてた。小四郎さんの生まれ変わりだって解ってたのかも。」

「そうかもしれないね。昨夜から驚きっ放しで、僕はもう何でもありの気分だよ。でもね、里桜ちゃんにだけ視えたのは何となく解る気がするな。」

 廣一朗はいつもの優しい瞳で里桜を見た。

「二人とも母親孝行だし。想いを返してくれそうもない相手に誠心誠意尽くしてる。多分、子孫の中で一番似てるんだよ。波長が合ったんじゃないかな。」

 里桜は苦笑した。

「あは‥。ちょっときついな。やっぱり‥廣一朗さんもそう思いますよね。あたしの初恋は全然見込みないって。」

「‥あいつにしては気に入ってると思うよ。余計な事言ったね、ごめん。」

 廣一朗はそっと肩を抱いて、励ますようにぽんぽん、と叩いた。

 ううん、と首を振って、また鼻をかんだ。

 泣きすぎて化粧は剥げ、目は腫れぼったいし、鼻の頭は真っ赤だ。

 この体たらくではそもそも恋のヒロインになれるわけがない。でも里桜は何があっても顕彦を助けたい。あらためて強く思った。


 『鷹森小四郎景信伝』によると、野依の産んだ三郎丸は無事に成人して三郎景隆という名で後を嗣いでいる。内政に優れた名君として領民に慕われたという。だが彼の生母は正室瑠璃の方となっていた。

 瑠璃の方は賢く慈悲深く、天女のごとき女性であったと記述にはあった。戦で焼け出された領民を保護し、荒れた土地に合う作物を工夫したり水の確保に努めたりとその深い知識で人々を導いただけでなく、病人や孤児たちの世話に奔走したという。小四郎の武勇だけでなく、彼女の徳を慕って集まった人々も多かったらしい。

 伝記では瑠璃の方は三郎丸を産んでまもなく、館の焼失によって死亡したことになっている。小四郎は胡蝶乱心の痕跡を、総て燃やしてしまうことで隠蔽(いんぺい)したようだった。そしてその場所に供養のための寺を建立(こんりゆう)し、館は別の場所に移して再建していた。

 ちなみにその寺は長い年月のうちにとっくに(すた)れてなくなってしまったらしく、明治になって鷹森家がこの地を買い戻した時は一面の荒野だったという。

「野依さんが今いる場所が、椿の木があったところでしょ? あの黒い穴があったのはちょうど四阿のあたりかなって思うんだけど‥。嫌な感じはしないんですよね。あの穴、どこにいったのかな?」

「きっとあの黒雲の真下に繋がってたんじゃないかな。僕もオカルト系なんて小説やコミックでしか知らないから、あの儀式の意味はさっぱり解らないけど。野依さんも意味するところは解らなかったんだろうね。解った事は結構はっきり伝えてくれてたから。」

 二人は図書室にいた。

 廣一朗はレポート用紙に図を書いて考えこみ、里桜は溜息をつく。

「とにかく整理してみようか。まず、あの大桶ね。あそこに捕まえられてたのが多分、昨日ここに現れた影みたいな死霊たちだと思うんだ。」

「じゃあ‥。七百年もあの人たち、成仏できずにああやって使われているの?」

 腰から背中にぞわぞわっと悪寒が走る。

「多分そうなんだろうね、あまり考えたくないけど‥。それと、あの黒い穴。僕は張ってあった縄が気になるんだ。あれが結界だとすると、あの穴を守ってるって事じゃない? だからあの穴がきっと彼女の術の中心なんだろう。」

 ああ、とうなずいて、黒い穴とそこに投げこまれた物を一つ一つ思い起こしてみた。懐剣に頬ずりしていた胡蝶の、凄艶な姿が目に浮かぶ。

「‥そう言えば、紋のついた小刀みたいなの入れてましたね。あれって‥小四郎さんの持ち物だったのかな‥。」

「そうだね。確かにあの紋は鷹森の家紋だった。‥だとすると小さい鏡があったね、自分の血をなすってたやつ。あれが胡蝶の依代なんだろう。」

 思い出して気分が悪かったらしく、廣一朗は思い切り顔をしかめた。

「ヨリシロ? ヨリシロって何ですか?」

「ええと。魂を入れておく容れ物、てとこかな。死者が生前大事にしていた人形とか櫛とかに霊が移ってる、なんて話が、よく心霊番組でやってるだろう? あの場合の人形とかに当たる物だよ。つまり悪霊の本体ってこと。」

 つまり懐剣が小四郎で手鏡が胡蝶自身、て意味なのか。では後から入れていた赤い玉は何を表すのだろう?

 里桜が疑問を口にすると、廣一朗はすぐに顔を上げて答えた。

「『七つの玉が揃う時、妾のもとに小四郎どのの魂が戻る。』」

「‥?」

「胡蝶が野依さんに、自慢げにそう言ってたじゃない。今までの『呪い』の犠牲者は六人、顕彦は七人目。七人の中で、顕彦だけ生まれつきあの瞳を持っていたんだ。そう聞いてない?」

 大きくうなずいて、次の言葉を待つ。

「ここからは僕の想像だけど‥。胡蝶は小四郎さんの生まれ変わりの人間を自分のものにしたかったわけじゃなくて、魂の小四郎さんの部分だけ取り戻したかったんだ。それも多分、期間限定で。」

「期間限定? あの十年の絆とか言ってた‥?」

「そう。顕彦からこれも聞いてないかな。『呪い』は満で十七才から発動するんだ。そして最長で十年しか生きられない。」

「あ! 一番長く生きた新之助さんは、満で言えば二十七才で亡くなったって‥。」

「どういう仕組みかはさっぱり解らないけどね、十七から二十七までの十年の間に取り殺す必要があったんだよ。その前でも後でも駄目なんだ。取り殺した数が珊瑚玉の数とすると、玉は今六つまで揃ってるはずだ。で、今回顕彦は初めから小四郎さんの瞳を持って生まれた。そしていよいよ胡蝶は自分で動き出せるほど復活して、小四郎さんの意識も顕彦の中で目覚めた。術は完成間近なんだ。最後は顕彦の命で七つめの玉が揃うんだろう。」

 里桜のあげた声は悲鳴に近かった。

「しっかり、里桜ちゃん、里桜。思い出してごらんよ。一昨日の夜、胡蝶は君に突き飛ばされて簡単に影に戻っちゃったじゃないか。何とかできるよ、方法があるはずだ。」

 廣一朗は震えている里桜の手を片手でぎゅっと握り、もう一方の手で軽く撫でた。

「里桜のその力がどこから来るのか解らないけど、胡蝶にとっては予想外の力みたいだった。だけど、小四郎さんがなぁ‥。近づけようとしないから厄介だよね。」

 溜息をついて、里桜の手を静かに放す。里桜は俯いた。

「今度胡蝶が態勢を立て直してやってきたら‥。小四郎さんは自分でも知らないうちに協力しちゃうかもしれないな。あの人、顕彦と同じ二十六才までの記憶しか持っていないんだ。乱心した胡蝶なんて、とても信じられないんだろうね。」

「熱烈に愛してたみたいだものね‥。」

 再び昨夜の顕彦の(とろ)けるような微笑が、里桜の脳裏に浮かぶ。

 あれは小四郎で顕彦じゃないと解っていても、顕彦の顔に浮かんだものなのだ。忘れられなかった。一生かかってもあんな微笑を自分に向けてくれることはないのだろうと思うと、胸にナイフが突きささっているみたいに痛い。

 それでも生きていて欲しい。こんな理不尽な呪いなんかで振り回されてきた人生を、もう一度やり直して欲しい。初めて会った時の空っぽな瞳。あんな切ない(かお)は消してしまいたい。たとえその後の彼の瞳に里桜が映ることはなくても。

 里桜は唇をぎゅっと、血がにじむほど噛みしめた。

「ねえ、廣一朗さん。あの黒雲の下に胡蝶の眠る穴蔵があるとしたら‥。あそこに出向いて何とかできないかな? どう思いますか。」

「何とかするって‥。どうするつもり? かなり危険だよ。」

 顔を上げた廣一朗に、里桜は身を乗りだして言った。

「さっき言ってた、ええと‥依代? 本体なんでしょ? それを見つけて壊したらどうでしょうね。さもなければ珊瑚玉を。」

「結界張って隠してる場所が、僕等みたいな一般人に解るかな? それに簡単に壊せるとも思えないし。武器になるものでもあればいいけど。」

「武器の一つや二つ、ここのうちにありませんか? 鷹森家は旧家なんでしょ、蔵に先祖伝来の武器とかって残ってないんですか。子孫を守ってくれるようなのが。」

「‥‥顕彦なら全部知ってると思うけど。それも小四郎さんに訊いてみるしかないね。小四郎さんの中に顕彦が残っていれば、答えてくれるだろう。」

 残っていれば? 里桜はその言葉に愕然とした。

 では残っていなければ、どこにいると言うのか。

 もしやいなくなってしまったのか―――いや、そんなはずはない。まだ呪いは完成していない、という事はつまり顕彦は消えていないはずだ。どこかで眠っているだけ、そうに決まっている。

 不安で破裂しそうな心に、里桜は必死に言い聞かせた。

 指に嵌めたままのルビーが目に入った。あの幸せだった瞬間はつい昨日の朝のことなのに。また泣きそうになって、里桜はぐっとこらえた。


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