CHAPTER 12
顕彦は暗闇の中に閉じこめられていた。
座敷牢のようでもある。たくさんの自分がいて、どれが本当の自分なのか解らない。記憶も意識も混然と混じり合っていて、確たる自分が掴めない。
絶え間なく体の中を流れていく記憶の奔流、というより印象の断片か。ほとんどが闇に取りこまれて、消え去っていってしまう。やがて気づく。闇が欲しがっているのは生命そのものだ。僕の―――僕たちの。
エネルギーの等価交換? 呪術は贄を必要とする。多大な犠牲の上に術者が願うものはいったい何なのだろう。
永遠の魂? そんなものは存在し得ない。理に適わぬものは形を留めることはできない。失った生命を留めることができないように、躰のない魂 は留めてはおけない。
解りきっている、あまりにも解りきった事だ。なのに術の完成を止められない。最後の贄は誰だ? 僕だ。古えの贖罪のため。僕は―――いったい誰だろう?
穴蔵は暗くて冷たい。
ぼろぼろと崩れかけた躰を黒々とした沼に浸し、胡蝶はじっと痛みに耐えた。
捧げられた贄の血を練りこんだ泥が、胡蝶の躰に再び形を成す力をもたらしてゆく。
この土塊の躰はあと少しだけ持てばいい。七回目で術は完成する。いや、もう完成したも同然だ。既に小四郎の魂は目覚め、胡蝶を見つけ、名を呼んだのだから。『愛しい胡蝶』と。ああ、その瞬間をどれほど待ったことであろうか。
裏切られたと知って絶望したあの時から、取り戻すために総てを捧げた。欲しいのはただ一つ。小四郎の魂のみ。未来は要らない、果てしない刹那が繰り返される無間の中で、共に在ればよい。さすればもう、いつか滅びる躰など無用だ。
もうすぐ。もうすぐ、永い苦しみの時は終わる。
その前にあの女だ。どこまでも邪魔をする、無知で愚かな女―――!
胡蝶は歯がみした。
高次元な精神の結びつきなど欠片も理解できぬくせに、胡蝶と小四郎の間に入りこんできた身の程知らずな女。あの女がこの期に及んでなお邪魔をする。何の力も持たぬ、弱い、哀れな存在。そのはずなのになぜ、拒絶する力を持つ?
髪が逆立つほどの怒りに、血溜まりの泥水がふつふつと沸き立ってくる。
気持を鎮めなければ。無駄な力の放出は控えるべきだ。次こそは一瞬であの女の息の根を止めてやる。そのために力を蓄えなければならない。
胡蝶は目を閉じて小四郎を想った。
出会ったのは流れ着いた隠れ集落でのことだ。
胡蝶の父は陰陽師として宮廷に仕えた人だったが、派閥争いに敗れて落人となった。
流浪すること六年。その間に胡蝶の母を亡くし、自身も病に倒れて居着いたのが異人部落だった。胡蝶はまだ七つだった。
一つ年上の小四郎はその村で若様と呼ばれ、人々にかしずかれていた。
小四郎の母は透き通るような美貌を領主に見初められ、小四郎を生んだ。異人部落と蔑まれていた村の安堵を願うために献上されたという事だったが、深い寵愛を受けて側室の列に加えられ、生まれた小四郎も若君として遇されていた。
ちょうど胡蝶父子が流れ着いた頃、小四郎は里帰りした母に連れられて村に滞在していた。活発な若様は村の子供たちを引き連れては、毎日、野山じゅうを駆け回って遊んだ。
抜きん出た体躯を持つ彼の動きに従いていけるのは胡蝶だけだった。怪しい術師の子供だから妖術でも遣っているのだろう、と他の子供たちに妬まれたが、小四郎はそんな讒言は一笑に付した。
「面白い。妖術でも何でも構わぬ、遣える才は総て遣えばよいのだ。胡蝶は大したものだ。」
ほんの半年足らずの間ではあったが、胡蝶は幼心にしっかりと小四郎の面影を刻みこんでいた。いつかあの方の側近くに仕えたい。役に立つようになりたい。自分とて出自は卑しい身分ではない、お目に留まるような優れた女子になるよう努めよう。
その一心で父の施す修行にも耐え、書を読み、知識を身につけた。陰陽術以外に旅の間に父が身につけた修験の技、祈祷術の類。薬草の知識、医療術。日々休むことなく励んだおかげで、十七になる頃には女術師として近隣の村々から慕われるほどになった。
小四郎と再会したのは、ある冬の夕暮れだ。
大きな戦が三月以上も続いていて、国中が荒れ果て、民は離散していた。
鷹森の殿様は戦死なさったらしい、と風聞が流れてきた。一族郎党一人残らず討ち死になされたそうな。お部屋さまも若様もお亡くなりになったようだ。
領民は皆一様に、情け深い領主の無残な敗北に暗い顔をしていた。無慈悲で強欲と評判の隣国の領地に組みこまれては、この先どのような辛酸が待っていることやら。そう嘆く声が溢れていた。
遠い幼い日の思慕に急きたてられるように、毎日毎日胡蝶は戦場址の荒野を彷徨い、怪我人や難民たちの世話に歩いた。
胸の中を寒風が突き抜ける。せめて亡骸だけでも、もう一度会いたい。
しかし日々虚しさばかりが凝り固まっていく。
そんなある日、日が暮れて集落に戻ろうとした時だ。
十数人の武装した集団が慌ただしく走り回っているのに気づいて、手近の藪に身を潜めた。鷹森の落武者がこちらに逃げてきた、と頭目らしい男が叫んでいる。
「あそこだ‥! 独りだぞ、押し包んで討ち取れ‥!」
藪の中から胡蝶は、男たちが指し示す方向を覗き見た。夕日を右手からいっぱいに受けて、抜き身の大刀ひとつを提げた背の高い姿が見えた。
胡蝶は藪から飛び出し、馬で近づいてくる集団の前に立ち塞がった。
「そこの女‥! 退け、退けえ!」
恐らく彼らは何が起きたのか全く解らなかっただろう。
印を結んだ胡蝶の手が一振りすると、風が刃と変じて男たちの間を駆けめぐり、あっという間に馬を残して死骸の山を築いた。
「若様! 鷹森の若様、ご無事で‥‥。」
走り寄った胡蝶の腕の中で、若武者は意識を失った。満身創痍で肩からも脇腹からも大量に出血していた。胡蝶は高鳴る胸を抑えて、血止めを施した。
胡蝶は嬉しさと怖ろしさの入り交じった気持で、必死で小四郎を抱えた。せめてあの藪の中まで連れていって、村から人手を呼んでこよう。
振り向くと、ばらばらに切り刻まれた男たちの死骸に鴉の群れが集まり始めていた。
胡蝶は吐き気を呑みこみ、小四郎に向き直った。
術を遣って人を殺めたのはそれが初めてだった。
それからの三年。何と幸福だったことか。平和で安らかな日々。
胡蝶の真摯な想いに小四郎が応えてくれるようになるのに時間は要らなかった。胡蝶は思い出して、血泥の中で妖艶な微笑を浮かべる。
しかし集落の外では、国はどんどん荒廃していった。
―――鷹森の若様がたった一人生き残っているそうな。それもご兄弟の中で一番の猛将と呼ばれた小四郎景信さまじゃ。
やがてそんな噂が少しずつ広まり、一人二人と生き残った僅かな家臣や不満を持つ民たちが小四郎を慕って集まり始めた。それと同時に多くの討手がかかる。
胡蝶は集落のある森一帯に広大な結界を張った。父は既に他界していたため、たった一人でやらねばならなかった。躰に大きな負担がかかり、胡蝶は人に隠れて血を吐いた。
―――情けない。たかだか結界くらいで。もっと大きな力が欲しい。
父の遺した書を読み漁って、強大な力を得る方法を必死に探し求めた。
辿りついたのは村の北西にある森の奥深くの湖沼だった。そこには山の主とも神とも言われる大蛇が棲んでいるという。その霊力を我がものとすれば、もっと強大な術も遣えるようになるはず。胡蝶はそう考えた。
ひっそりと沼に行き、身体を清めて、祭壇を設ける。そして神である大蛇に、その力を分けてくれるよう、一心不乱に願った。七日七晩の行の末にやっと姿を現した蛇神は、胡蝶の願いを聞き入れて、その強大な妖力を分け与えよう、と約定してくれた。
―――ただし。代償としてそなたの魂を求めるが、如何か。
「わたくしの魂は既に捧げると約したお方がございます。それ以外であれば、髪であろうと眼であろうと、命なりともお捧げ致しまする。」
―――では。そなたの代わりにそなたの子孫の魂をもらい受けよう。
「子孫とは‥?」
―――そなたより生まれるはずの子は全て我のもの。ちょうどほれ、今、その腹に一つ。
あ、と思う間もなく、胡蝶の身体に大蛇の舌が伸びた。
喰われる、と咄嗟に感じたが大蛇は胡蝶の全身をぺろりと舐め回しただけだった。胡蝶の腹部から光る玉のようなモノが浮かび上がり、細長い舌に絡め取られていく。大蛇の紅い瞳がにやりと嗤ったように見えた。
―――そなたは二度と人の子を孕むことはできぬ。なれどその代わりに思う通りの妖力を得るであろう。我が与える。
気がつくと胡蝶はぽつんと独り、沼の畔に立ち尽くしていた。
体中に力が漲っていた。後から後から湧き出てくるように、力が満ちていた。これで小四郎を守る事ができる。胡蝶は腹の底からこみあげる喜びに、知らず知らず声を上げて笑っていた。
鷹森家再興の旗揚げの戦に、胡蝶は従軍した。
味方はかき集めても一千足らず。迎え撃つ敵はざっと十倍の兵がいた。勝機は一つ、平原に薄く広く敷いた敵陣の奥、本陣だけを狙い落とす。
胡蝶は風を興し、火を熾し、水を溢れさせて、敵を攪乱し、味方を援護した。大軍は思わぬ妖術に驚き怖れ、散り散りになって敗走した。その隙にまっすぐ本陣まで駆け抜けた小四郎は、自ら敵将の首を上げて大勝利を収めた。
鷹森小四郎景信の名は一躍上がった。それからは一気に敵を蹴散らし、一年足らずで旧領国を奪還することに成功したのである。
他国に流れていた離散民や彼の勇名を慕う流れ者の兵士たちが、ぞくぞくと領内に入りこんできた。
晴れて小四郎の正室となった胡蝶は、青い色の着物をよく身につけたところから、いつしか『瑠璃の方さま』と呼ばれるようになった。
まだ城とも言えぬ粗末な仮の城館で女たちを集めて薬草を育てさせ、怪我人の治療なども率先して行いながら教えた。また戦で家も親も失った孤児の世話や、難民の救済など、持てる知識を総て注ぎこんで、戦いに明け暮れる小四郎を背面から支えた。
胡蝶が術を遣って小四郎の戦を援護していることは、小四郎とほんの一握りの忠臣しか知らないことだった。世間では小四郎の異形とも言える外見から、彼が鬼の力を会得したのだとか鬼の血をひく者だとか噂して、胡蝶の術も彼が遣っているのだと見なした。
時に無慈悲なほど徹底して容赦なく敵兵を殺戮する妖術を、誰もが鬼の技と畏怖し、場合によっては無条件の降伏さえ引き出した。
鷹森小四郎景信の前に立ち塞がる者は、総てが塵と化す。
そんな風聞さえ聞かれるようになった頃には、小四郎は元の領地を含む近隣三領を束ねる大領主となっていた。
旗揚げより七年の歳月が過ぎていた。
瑠璃の方は教養高く慈愛深く、神々しいほど麗しく。まさしく鬼神の妻に相応しきお方と、その頃の胡蝶は領民や家臣たちに絶大な人気を誇っていた。
誓い合ったとおり小四郎の寵愛は変わることはなく、どんな時も他の女を近づけることはなかった。欠けるところのない幸福。しかし家中では跡嗣の問題が囁かれるようになっていた。
「くどい‥! 側室など要らぬ。胡蝶一人でよい。胡蝶はただの女子ではない。どれほど胡蝶に助けられたか、荘助も忘れてはいまい?」
小四郎は胡蝶が懐妊できないのは、自分のためであった事を承知していた。だから側室をという声には全く耳を貸そうとしなかった。
否。そうではなく、小四郎自身が胡蝶以外の女になど触れる気がしなかったのだ。
それは真実だったはず、と今でも胡蝶は思う。たとえ『誓い』という言葉で知らず知らずの内に、彼に呪をかけていたのだとしても、小四郎の心は胡蝶一人のものだった。
「鷹森の血族は先の戦で悉く殺されてしまいました。殿お一人しかおられぬのです。どうかお考え下さい。ようやく戦に怯えぬ暮らしを手に入れた民を不憫と思し召さば、何とぞ後嗣を。」
小四郎の幼少時より側に仕えていた小野荘助という老臣が、特に熱心にかき口説いた。
心からの忠義というものはたちが悪い、と胡蝶は思う。私心ではないから余計に人の気持ちを動かしやすいのだ。
荘助は胡蝶をも口説きにかかった。
胡蝶の気持は何より解っている、しかし小四郎のためと思って我慢してもらえないか。側室ではなく婢に借り腹をさせて、生まれた子は胡蝶の実子として養育する。そう計らうのを承知して欲しいと。
「殿は養子でよいと仰せである。荘助、そなたはどうあっても鷹森の血脈に拘るか。」
「お方さま。鷹森の血だけでなく、殿の御子でござる。わしは殿が生まれし時より養育係としてお側に仕えておりまする。我が身より何より、慈しみお育て申した。あれほどのお方はどこにもおわさぬ。その気持ちはお方さまが誰よりお解り下されるはず。お方さまとて、殿によう似た御子を育ててみたいとはお思いなされませぬか?」
荘助は涙ながらに詰め寄った。
「どうぞ平にお願い申しまする。この件はお方さまと荘助のみの秘事として万事取りはからいますゆえ。借り腹は成事の後速やかに始末させます。」
胡蝶の心が動いたのは荘助の言葉のうち、小四郎の子を自分が産んだ子として育ててみないかとの言葉だったかもしれない。失ったモノを天が再び授けてくれるならば幸福が増えるのではないか、と。
一年経って赤子が胡蝶のもとに届けられた。
太郎丸と名づけられたその男の赤ん坊は、瞳の色が小四郎と同じ琥珀色をしていた。その時は心底愛おしいと思ったのだ。乳を含ませる以外はすべて自分で世話をして、可愛がった。大蛇に取られたあの時の子が戻ってきたと思った。
何時のことだろう。不意に太郎丸を憎いと思ったのは。
立って歩くくらいになって、片言の拙い言葉を発するようになって。胡蝶を見るとにっこりと笑って飛びついてくる。そんな幼気な児に、殺意を抱くようになったのは。
恐らくあの瞬間。小四郎が太郎丸を膝に抱いて、胡蝶に礼を言った時だ。
「胡蝶。そなたのおかげで、こうして我が子を抱くことができた。心より礼を言う。」
胡蝶の幸福は増えたのではなかった。太郎丸に奪われたのだ。賤しい女の腹から出た子がそれほど愛おしゅうござりますか、と喉まで出かかったが言えなかった。
それでも偶々あんな機会が来なければ、太郎丸を殺せなかったかもしれない。
偶々? 嘘だ、偶々なんてありえない。胡蝶があの野犬を呼んだのだ。乳母と太郎丸が毎日過ごす裏の林に。乳母は噛み殺されて、太郎丸は怪我をした。胡蝶は手当てをする振りをして見殺しにし、子を亡くした母の愁嘆を周囲に披露した。これで終わった、幸福は取り戻した、と思った。
なのに。また一年余で次郎丸が来た。
今度は何も躊躇わなかった。階段から突き落として乳母ごと殺した。乳母がうっかり抱いたまま落ちたと皆には説明した。
小四郎は太郎丸の時と同様、激しく悲嘆した。昏い、悲愁をおびた瞳を胡蝶に向ける。
胡蝶の幸福は邪魔者を始末したというのに、減ったままだった。何がいけないのか、何が邪魔をしているのか?
胡蝶に仕える女が邪魔をしている存在を教えてくれた。
「小野さまのお屋敷の離れに囲われているとの噂でございます。」
側室? ばかな、小四郎が胡蝶を裏切るはずがない。他の女には心を移さぬと、決して情けをかけたりせぬと。あれほど誓ったではないか。
胡蝶は笑みを湛えて聞き流した。
―――さすがは瑠璃の方さまはお心が広い。御子を二人までも亡くされたばかりで側室などと、殿の仕打ちはあまりな事だのに、頬笑んでお許しになるとは。
そんな声が耳に入る。
あり得ぬ、戯言だ。小四郎が―――側室?
それほどまでに子が欲しいのか。
胡蝶は目の前が真っ暗になった。
あんまりだ。なんという仕打ち、二重の裏切り。いったい誰のために―――誰のために、子を産めない身体になったというのだ?
こっそりと水鏡の術を遣い、邪魔者の姿を映し出した。
どこといって取り柄のない、取るに足りない小娘だった。しかしその女は赤子を抱いて、乳を含ませていた。幸せそうに微笑んでいる。このうえなく、幸せそうに。
胡蝶の幸福を横取りした女。あの女だけは許せぬ。賤しい無知な、身の程知らずの女め。その腹から出てきたあの赤子もろとも、必ずや滅ぼしてやる。
小四郎が戦に出た留守を狙って、胡蝶は女を捉まえた。
蜘蛛の糸に絡め取られた蛾のように無様に、あっさりと女は捕まった。しかし赤子と荘助は胡蝶の手を遁れて、既に行方をくらませていた。怒りと憎しみは女に集中した。
女はただ震えるだけで、声さえもろくに出ないようだった。髪を掴んで引きずり回し、柱に縛りつけると、胡蝶は女に問い質した。
「言ってごらん。いつから殿の寵愛をいただいておる? 妾の眼を盗んで‥この、下賤な女めが!」
女はひいひい泣きながら、答えた。
「‥‥寵愛など。わたしはただ‥‥子を生すために‥。」
「虚言を申すな。借り腹の婢などこのような座敷に住まわせはせぬ。それに子を生んですぐに始末するはずじゃ。」
女にはそんな道理は解らないようであった。無知で物知らずな小娘。しかしどうやら太郎丸も次郎丸も今度の三番目の赤子も、みなこの女の腹から出ているらしい。
「なんと‥‥! では五年以上も前から妾は裏切られていたというのか‥!」
女はがたがた震えながらも、必死で首を振った。
「お、お顔を拝しましたのは‥ひと月ほど前が初めてで‥。た、確かにその一度だけでございます‥。」
「おまえ‥‥! 妾を愚弄する気かえ?」
胡蝶は女の怯えきった目をじっと見据えた。いえ、とか細い声で女は言う。
「ならば言え。おまえの生んだいかがわしき素性の赤子はどこじゃ? 殿を誑かす狐狸の子は‥?」
「お‥お方さま。わたしは‥務めは正しく果たしました。神仏に誓って、御子はお館さまのお胤に相違ございません。」
俯いたまま、それでもはっきりと女は言い返した。胡蝶の怒りはますます膨らむ。
胡蝶は女の顔を張り飛ばし、懐剣を取り出すと、その乳房に斬りつけた。悲鳴と血飛沫が返ってくる。なんと心地良いことだろう。
呻いている女の頬に刃を当てて、耳に囁く。
「どこじゃ、と訊ねておる。言え。」
「‥‥なにゆえ、このような事をなさるのです‥? お館さまのご寵愛を一身に受けておられるお方がなにゆえ、その血をひいた若君さまをそうまで憎まれるのでしょうか‥。」
女は涙をはらはらと零しながら、問い返した。
次は脇腹を浅く抉る。返り血が瑠璃色の衣を点々と染めていく。
「わ、解りませぬ‥。あれほどに想われて‥身分も、美しさも‥総て手中にして‥‥。なにゆえ‥? い、愛しいお方の‥お幸せを、なにゆえ願えませぬか‥。」
ごほっと女は血を吐いた。
「面白い。妾に説教するか。ではおまえは自分がどのような目に遭おうと、愛しい子の幸せを願えるのであろうな? 」
女は声を出そうとする度に血を吐き、返事ができない。胡蝶の手も顔も、女の血が飛散して紅葉のように紅く染まっている。
胡蝶は荘助の屋敷で逃げ遅れて残っている者たちを総て集め、赤子と荘助の行方を訊いた。だが皆、震えるばかりで答えようとはしない。
「なんと忠義なこと。褒めてやらねばならぬ。」
そう言うと、胡蝶は血を流している女を腕に抱え、中空に舞い上がった。
「一瞬じゃ。苦痛は与えぬ。」
印を結び、呪文を唱える。突然火柱が上がり、屋敷は炎に包まれた。
からからと笑いながら胡蝶は城館へと、空を飛んで立ち戻った。
自分の居室前の庭に血まみれの女を放り投げる。女は浅ましく悲鳴を上げた。椿の幹に縛りつけて、体中を薄く切り刻んでやる。
「おまえはそこで見ているがよい。おまえの血の最後の一滴が零れるまで、ずっと。」 女は苦痛に呻いた。なんと小気味よい眺めであろうか。
後ろで悲鳴が上がった。
振り向くと、侍女が腰を抜かしていた。その悲鳴で何人もの家来や女たちが駆けつけてくる。皆、息を呑んで立ち竦んだ。
「お、お方さま‥。ご乱心めされたか‥。」
「ばかな。妾は正気じゃ。不心得者があったゆえ罰した。騒ぐでない。」
誰も言葉を発しなかった。
庭から屋敷内へと上がる。怯え、青ざめた顔が並んでいる。胡蝶は微笑んだ。
―――なんと。ここに妾の力を高めるための贄が山ほどいたではないか。
―――初めから他人の魂を遣えばよかったのだ。さすればあのような女に後れを取ることはなかったものを。
ほほ、ほほ、と胡蝶は嗤い続けた。
二日後、胡蝶乱心の知らせを聞いた小四郎は、戦場からたった一人で馬を飛ばして立ち戻った。
城館には胡蝶以外一人もいなかった。大半は逃げ出したようだった。
「お帰りなさいませ。我が殿。」
小四郎はひと言、胡蝶、と呟いた。胡蝶の瑠璃色の衣は幾多の血で黒々と染まっていた。
「妾はいっそう力を得ました。お家のため、皆、快く命を差し出しましたゆえ、どうぞお褒めの言葉を賜りませ。」
見ると逃げ遅れた者たちの屍の山ができている。血が流れて川を作っていた。
「‥‥何ゆえ、このような惨い所業を為した? 皆、ずっと苦労を共にした者たちではないか。」
「殿が悪いのです。妾が子を生せぬからとお心をお変えになった。総ては殿のため、妾は尽くして参りましたのに‥。未だ不足と仰せならば、もっとお役に立ちましょう。大いなる力を得て、この後殿には誰にも触れさせませぬ。天下をお望みとあれば‥‥。」
「愚かな‥! 我の望みは斯様なおぞましきものではない‥!」
小四郎は叫んで、ふと庭の椿に目を留めた。
「あれは‥‥。」
庭に飛び降り、屍の山を越えて、椿に駈け寄る。しかし女は既に冷たくなっていた。
「何ということを‥。」
小四郎は縄を切って女の遺骸を木から下ろしてやり、そっと抱いて地面に横たえた。
「そんな女が、愛おしゅうございますのか。」
「‥‥胡蝶。哀れなものだ。それほど我が信じられぬか。」
振り向いた小四郎の瞳は金色に光っていた。鬼神と呼ばれる男の躰じゅうから、炎のような光がそそり立つのを胡蝶は見た。
小四郎は戦の時に使う両刃の大刀ではなく、鷹森家伝来の刀を抜いた。
「妾をお切りめされるか、小四郎どの。」
胡蝶はすっくと立ったまま、一歩も退かぬ構えで対峙した。小四郎は悲しげにじっと見つめながら、ゆっくりと近づいてくる。
「我ゆえに迷うたかと‥哀れを覚えたが間違いであった。そなたが太郎丸を殺めた時に、この手で命を断ってやるべきであった。」
「‥‥ご存じであったか。」
胡蝶は薄ら笑いを浮かべた。
「いや。そうではない。もっと前だ。いかに戦とはいえ、人を殺めるに躊躇なく、あまりに惨い死に至らしめるそなたのやり方を目にして、何度も思った。人の所業ではない、と。そなたは己が子と引き換えに大蛇の妖力を手にした時、人ではなくなったのだ。」
「総て、小四郎どののため。殿を想うがゆえではありませぬか‥!」
目の前に小四郎がいた。胡蝶は両手を差し伸べた。小四郎は胡蝶を左腕で抱えこんで、抱擁した。
「解っておる。我が弱かったためにそなたを斯様にしたのだ。赦せ、胡蝶。」
「小四郎どの‥。」
「そなた以外を愛おしいと想ったことはない。この先も決してない。‥‥さらばだ。愛しい胡蝶。」
右手で小四郎は剣をかざし、胡蝶の胸を貫いた。胡蝶は微笑んだ。
「‥‥もとより命など‥要りませぬ。妾の魂は永遠に小四郎どののもの。殿が幾たび生まれ変わろうと必ず、お側に参りまする‥。」
胡蝶の躰は小四郎の腕の中で息を引き取った。
小四郎は骸をかき抱いて、激しく泣いた。
その様子を見下ろしながら、胡蝶の魂魄は大蛇の沼へと飛んでいった。既に術は施してあった。願いを叶えるために、再び幸福の瞬間を取り戻すために。
そして間もなく術は完成する。
最後の贄の生命を手に入れたなら、願いは叶う。胡蝶の幸福の日々―――再会の夕暮れから十年の月日。誰よりも深く結びついていた魂を取り戻すのだ。永遠に終わることのない時間に閉じこめて。
何者にも邪魔などさせぬ。この身が回復したならば、まずは―――あの女からだ。
顕彦は小四郎の記憶の中に取りこまれつつあった。
生の営みの重さが圧倒的に違っている。初めから勝負になどなるはずがなかった。
父母の多大な愛情。周囲の期待と信頼。それに見合うだけの強靱な心と躰。幾度となく陥る挫折や危機を乗り越えて、信念を貫いていく、生死の狭間での戦い。
支えているのは何だ? 想いだ。自分へ希望を託す人々への想い。悲憤のうちに命を落とした家族や臣下への想い。そして胡蝶への想い。小四郎の記憶には、熱く激しい想いが詰まっている。
顕彦には想いなどない。空っぽだ。ただ生命を繋いできただけの日々。存在するのは憐憫と同情と嫌悪または憎悪。他人を愛したことがない日々。
同じ二十六年余の時を経たとはとても思えない、この圧倒的な差。僕は誰だと問うのも虚しい。生きてきた方が僕だ。僕は―――小四郎景信なのか。
名前さえ思い出せない顕彦の意識は、そこでふと気づいた。
泳いでいる記憶の海の中に、なぜ二十六年の記憶しかないのだろう?
僕が二十六才だからだ、未来はまだない。疑問に感じる僕の意識が『なぜ』なんだ。未来を知っていると思うのはなぜだ。
解らない。何をしたいのかも、何をしてきたのかも。総て曖昧で、混沌としている。




