引き継がない椅子
ノートの最初のページには、布巾の置き場が描いてあった。
カウンター用。食器用。床には別。
働き始めた日、俺は何を拭くにも同じ1枚を持ち出し、そのたびに止められた。豆の産地について書いたページは、ずっと後にある。
午後3時に本を取りに行くと、店主は空いた席へ段ボールを載せた。
「底、持って。重いから」
独立についての本が3冊と、俺のマグカップが一つ。縁に茶色い線のあるカップには、きれいな紙が巻かれていた。
「あの物件、まだ空いてました」
「川の手前?」
「はい」
店主は返事をせず、鳴ったタイマーを止めた。トーストを切り、客へ運んでから戻ってくる。
「もう一回、見せてもらえば」
「俺に、やれると思いますか」
店主は流しの水を止めた。
「この店で8か月働いた人が、別の店で何人さばけるかまでは分からんよ」
「一通りはできるようになったと思ってたんですけど」
「できるよ。一通りは」
それなら、と言いかけたとき、窓際の客が手を上げた。店主は俺へ背を向け、空の水差しを持っていった。
話が途中になったことを、申し訳なさそうにはしなかった。
段ボールを膝へ下ろし、客が通る場所を空けた。
翌日、不動産屋と店の前で待ち合わせた。
扉が開くと、冷えた木の匂いがした。10坪に少し足りない店だ。窓際に2人用のテーブルが2卓、カウンターに4脚の椅子。厨房の隣には小さな物置もある。
前は、どんな店にしたら人が来るか考えた。
今日はトレーを持ってきた。
「少し動いてみてもいいですか」
「どうぞ。水はまだ使えませんが」
カウンターへ入り、カップを取るつもりで棚へ腕を伸ばす。左側の棚は取りやすかったが、利き手で持ったポットを置こうとすると、同じ場所を使った。
トレーを持って客席へ出る。
窓際の椅子の背に、角が触れた。
椅子を少し押し、もう一度歩く。不動産屋は入口で待っていた。
「前のお店は、2人でされていたんですよね」
「ご夫婦で。奥様が主に接客されていました」
下げた食器を置くつもりで、調理台へトレーを戻した。
ここを使えば、次のパンを用意する場所がない。流しの横は狭い。ノートに図を描き、空欄へ、戻ってきた皿、と書く。
窓の留め具を確かめ、物置の扉を開ける。
予備の椅子が4脚、壁へ重ねられていた。その隣に、小さなテーブルと、使われていない棚がある。
「こちらも残して構いません。使わないものがあれば、ご相談ください」
棚を引き出そうとすると、背板の端へ指が引っかかった。不動産屋が反対側へ手を添える。
2人で少しだけ前へ出し、奥を見た。埃が溜まっている。
自分の店になれば、ここも俺が拭く。
トレーを置いて、棚の幅を測った。
新しく買うつもりだった作業台の代わりになるかは、まだ分からない。測った幅をノートへ残した。
家賃と初期費用は、先にもらった資料と変わらなかった。
使わない設備、修理の費用を誰が払うか、出ていくときの条件。疑問は一度持ち帰り、確認してから話すことにした。
「店名は決まっていますか」
「まだです」
「でしたら、今は市ノ枝様の喫茶店として進めますね」
仮の呼び方なのに、書類へ入ると急に具体的だった。
署名欄には、まだ何も書かなかった。
その晩、机へ紙を3枚並べた。
開店までに払う金。毎月払う金。客が来なかった場合、どこで見直すか。
取り戻した金を全部使うつもりはなかった。暮らしへ残す分と、店に使っていい上限を先に分けた。
機材の見積もりを足していくと、思っていたより早く上限へ近づいた。
エスプレッソの機械に線を引く。
型落ちなら買えるかもしれない、と別の画面を開きかけて、戻った。
機械を買えば、それを使うための道具も、置き場所も要る。
今日はそこで調べるのを止めた。
店主へ電話し、最初はハンドドリップだけにすると話した。
「それ、俺への相談?」
相談だと言えば、もう少し意見をもらえる。
俺は机の上の紙を見た。
「いえ。報告です」
「じゃ、了解。悪い、今ちょっと手が離せない」
「はい。ありがとうございました」
通話は短く終わった。
引いた線の横へ、今は買わない、と書き足す。
残りの欄へ、細かい買い物を入れた。
ごみ袋。釣り銭のケース。荷物を置く籠。飾り棚を諦めても、必要なものは残る。
気づくたびに調べ、書き足した。全部を今夜中に終えようとしていたが、午前0時を回ったところで、明日聞くことだけを別の紙へ移した。
その紙は、思ったほど長くなかった。
翌日、中古の食器を扱う店へ行った。
揃ったカップを探していたのに、最初に手を止めたのは、色の濃い大皿だった。黒に近い青で、上へパンを置いたらよく映りそうだった。
棚の前で持ち上げる。
思ったより重い。
隣の皿と重ねてみたところで、店員が、同じものはその2枚だけです、と声をかけた。
「お店で使われますか」
「はい。まだ準備中ですが」
「揃えるなら、こっちの棚にもありますよ」
指された先には、白い皿が積まれていた。
どこにでもある形だった。1枚持ち、もう1枚を重ねる。青い皿より指が縁へ掛かりやすい。
近くの台へ置き、カップを横へ並べていいか尋ねた。
店員は空いている場所を示し、ほかの客のところへ行った。
白い皿なら、どんなパンでも載るだろう。青い皿を使った写真は、頭の中ではずっときれいだった。
トレーを借り、皿とカップを載せる。
両方を持つと、普段カウンターから運んでいた重さに近くなった。
棚へ戻す前に、白い皿の縁をもう一度触った。
結局、必要な分だけ白い皿を買った。
帰りの袋は重かった。家まで持ち歩く間に、何度か手を替えた。
食卓へ並べると、想像していたほど地味ではなかった。窓から入る光で、縁の細い段差に影ができる。
そこへ自分のカップを置いた。
包み紙を畳み、買い物の記録へ金額を書いた。
次の面談で、不動産屋は開始日を遅らせる相談もできると言った。
俺は予定表を見た。設備を確認する日、前の店へ挨拶に行く日、店に入って作業できる日。
「今の予定でお願いします。ただ、ここの条件だけ、もう一度説明してもらえますか」
指したところを、不動産屋は急がず説明した。
聞いた内容を自分の言葉で言い直し、違っていないことを確かめる。分かったつもりで頷くより時間がかかったが、話は最後まで進んだ。
火曜日、契約書へ名前を書いた。
鍵を受け取り、一人で店へ行く。最後の角を曲がると、足が少し速くなった。
鍵は一度では回らなかった。扉を手前へ軽く引くと、するりと開く。
その癖を覚えてから中へ入った。
壁の時計は止まっていた。
誰もいないカウンターから外を見ると、自転車を押す人の肩だけが、窓を横切った。
ここが満席になるところを想像した。忙しく立ち働く自分も浮かんだ。
その姿を誰に見せたいのか考えかけ、鞄を開けた。
縁に茶色い線のあるカップを出す。
白い輪の跡へ置くと、底のほうが一回り小さかった。
ここで自分が飲む一杯なら、どう淹れたいか分かった。
ノートへ開店予定日を書いた。
5週間先の火曜日。準備が整わなければ延ばす、と下へ添える。
その前にすることを並べた。設備の確認、必要な手続きの相談、掃除、道具の配置。窓を拭く、が先頭になった。
帰るとき、カップは店へ置いていった。
扉を引きながら鍵を回す。
ちゃんと閉まったか確かめ、2歩進んでから窓を見た。
カウンターの端に、小さな白いカップがあった。
明日はあれを使おうと思った。




