予定のない朝
目覚ましが鳴る前に起きて、今日持っていくものを確かめようとした。
そこで手が止まった。
持っていくものがなかった。
昨日まで枕元に置いていた黒い鞄は、机の下にあった。最後の打ち合わせから帰って、自分でそこへ押し込んだのだ。日付順に並べた書類も、付箋だらけの手帳も、もう外へ持ち出す必要はない。
スマートフォンを見る。午前6時12分。今日の予定は空欄だった。
昨日の欄には、最終確認、とだけ残っていた。
俺がやったことにされた仕事の不備は、調べ直され、責任を負う人間の名前が変わった。上司は役職を失い、話を合わせていた同僚も会社には残れなくなった。
元婚約者との金の話も終わった。返すもの、返してもらうもの。最後まで自分だけでは決められなかったことを、専門家に間へ入ってもらって片付けた。
これ以上、本人同士で話す必要はない。
昨日届いた最後の連絡には、そう書いてあった。
嬉しかった。
何度見せても取り合われなかった記録が、ようやく記録として扱われた。自分の話したことが、自分の知らないところで違う話に変わるのを、もう見張らなくていい。
帰り道には、コンビニで少し高い缶ビールを買った。家に着いたら飲むつもりだった。
冷蔵庫へ入れたところまでは覚えている。
寝返りを打った。
まだ眠っていてもいいのに、目は閉じなかった。誰かから連絡が来る気がした。俺だけが知らない約束があり、また返事の遅さを責められるような気がした。
画面を一度明るくする。通知はなかった。
伏せて、しばらくして、もう一度見た。
6時40分に布団を出た。
クローゼットから白いシャツを抜き、椅子へ広げる。襟を整えたところで、今日はどこへ着ていくのかと考えた。
仕事を辞めたあとも、打ち合わせにはこのシャツで出かけていた。相手よりだらしなく見られたら損だと、誰に言われたわけでもなく決めていた。
袖へ腕を通しかけて、戻した。
部屋着のままで台所へ行くと、窓のガラスに、伸びかけた髪の男が映った。
食パンが1枚残っていた。
トースターへ入れ、湯を沸かす。手動のミルは、最後の数粒になると急に軽くなった。これを回す音は、朝にはちょうどいい。
仕事を辞めてから始めたことのうち、朝のコーヒーだけは続いている。
粉へ最初の湯を落とすと、表面が丸くふくらんだ。
壁の時計を見る。
あと何分で家を出る、という計算をしかけた。
湯を持った手を下ろし、粉が落ち着くまで待った。
食卓の向かいの椅子は、壁に寄せたままだった。
二人で使っていた頃の癖で、パンの皿を左へ、カップを右へ置く。隣には誰の皿も来ない。
パンが冷める前に食べたほうがいい。分かっているのに、スマートフォンのカレンダーへ指を滑らせていた。
先月。先々月。予定が隙間なく並んでいる。
朝から晩まで働いていた頃にも、休日の欄はあった。そこにも、買い物や、相手の実家へ行く日や、頼まれた用事を書き込んでいた。
画面を今日へ戻した。
白かった。
コーヒーを一口飲んだ。
思ったより苦い。
湯の量は合っている。淹れてから、ずいぶん置いたせいかもしれなかった。
食事のあと、手帳を持ってきた。
今日の日付の下へ、やること、と書く。
ペン先が止まった。
買い物、と書きかけてやめた。何を買うのか決めていない。テレビを見たいのか、本を読みたいのかも分からなかった。
机の上の封筒へ手が伸びた。
中を読めば、昨日の結果をもう一度確かめられる。
開きかけた封を戻し、ペンを置いた。
10時前、外へ出た。
玄関で黒い鞄を持ち上げそうになって、財布と鍵だけをポケットへ入れる。階段を下りながら、忘れ物がないか2回確かめた。
1階で、向かいの部屋の男と会った。
会えば挨拶をするが、名前は知らない。彼は大きなごみ袋を持ち、もう片方の手で鍵を探していた。
「おはようございます。今日はお休みですか」
いつもと違う時間に出てきたからだろう。
俺は口を開き、一度閉じた。
「はい」
「いいですね。雨も降らなそうだし」
彼は袋を持ち直した。俺が扉を押さえると、礼を言って外へ出た。
俺は扉から手を離し、空を見た。
朝から晴れていたのに、天気を考えたのは今が初めてだった。
駅へ向かう角で足を止めた。
右へ行けば、以前の会社へ通う道だった。もう少し先で反対に曲がれば、働かせてもらっていた喫茶店がある。
どちらにも、今すぐ行く用事はない。
信号の向こうに商店街の旗が見えたので、そちらへ渡った。急ぐ人を先へ行かせ、歩道の端を歩く。
窓ガラスに、いつもの白い襟がない自分が映った。
変に見えるほどではない。それでも、上着の前を直した。
ポケットの電話は静かだった。
取り出さずに歩いたのは、家を出てからそのときが初めてだった。
商店街では魚屋の前に箱が積まれ、花屋が店先の鉢に水をやっていた。誰も俺を見ていない。
昨日、何が終わったのかを、この通りの人たちは知らない。
魚屋の男が、箱を抱えた若い店員に声をかけた。
「それ置いたら、飯行ってこい」
「まだ10時ですよ」
「俺は6時に食った」
店員は笑い、箱を抱え直した。
その背中を見ていたら、信号が青になっていた。
川へ抜ける脇道に、空き店舗がある。
元は喫茶店だった小さな店だ。会社を辞めたあと、知り合いの喫茶店で働かせてもらっていた頃、不動産屋に紹介されて一度だけ中を見た。
あの話が終わったら考える。
そう答えてから、しばらく経つ。
ガラスに貼られた募集の紙は、角が浮いていた。
中の椅子はテーブルの上に逆さに載っている。窓の形に床が明るく、奥の厨房は暗かった。
ここでコーヒーを飲めたらいい。
内覧したときには、そう思った。
今は家賃や通行人の数が先に浮かぶ。一人で回せるのか。失敗したとき、あいつらが知ったらどう思うのか。
ガラスから顔を離した。
上着の中で電話が震えた。
以前働かせてもらっていた喫茶店の店主だった。
「今日、時間ある?」
「はい。何時でも」
自分の声が大きくて、少し恥ずかしくなった。
「置いてった本、どうするかと思って。急がないけど」
「取りに伺います」
「昼の忙しいとこだけ避けてくれれば。3時くらいなら座れるよ」
約束をして電話を切った。
頼まれたのは本を引き取ることだけだった。それでも俺はすぐに手帳を出し、午後3時、本、と書いた。
8か月働いたその店で、何杯もコーヒーを淹れた。皿を割り、注文を聞き違え、洗い物を溜めて叱られた。自分の店をやってみたい、と話したこともある。
店主はそのとき、そうか、と答えただけだった。
話の続きは、ずっと俺が止めていた。
空き店舗の窓をもう一度見る。
カウンターの端に、白い輪の跡があった。植木鉢か、カップか。前に見せてもらったとき、不動産屋は削れば消せると言った。
俺は残っていてもいいと答えた。
何かを選んだ覚えが、こんなところにあった。
帰りにパンを買おうか迷ったが、家に米があるのを思い出した。
帰宅して、昼の分を炊いた。誰かが食べる分を考えずに量ると、いつもの容器にずいぶん余白ができた。
炊き上がるまでの間、棚から研修のノートを取り出す。
背には、俺の名前が書いてあった。
市ノ枝誠悟。35歳になっても、持ち主が分かるように名前を書けと言われれば、真面目に書く。
表紙の端は、水を吸って少し波打っていた。
机の封筒を持ち上げ、棚の一段を空けた。
横にして置けば、すぐに出せる。
空いた机へノートを置く。
まだ午後まで時間があった。
台所から、米の炊ける匂いがしてきた。




