春
――桜の精が降ってきた
その日、木の上から
桜の花びらとともに、沖田の胸に飛び込んできたのは、
ふんわり柔らかく、桜の花の可憐な香り。
「桜の精……」
本気で、そう思った。
「すみません、お怪我は……」
一人になりたかったはずなのに、気づけば沖田は彼女と話し込んでいた。
彼女は名を香里 桜羅といい、四条河原町で有名な大店の一人娘だった。
「お侍さまでしたのね」
「ああ……」
沖田は、さっと刀を隠そうとして手を止めた。
こうしてすぐ人を遠ざけようとするのは自分の悪い癖ではないか。彼女になら名乗ってもいいのではないかと、なぜか思えた。
「……私は、沖田総司と申します」
桜羅は一瞬固まる。
――名乗ったのは失敗だったか……
怖がらせないように立ち去ろうとした。
だが彼女はすぐに頭を下げた。
「沖田様でいらっしゃいましたか。
以前新選組の皆さまが、取り締まってくださったおかげで、うちの店は大変助かりましたの」
「いえ、それが役目ですから……」
「いいえ、危険をかえりみずに京都の町を守ってくださっているのですから、ありがたいことです」
そういってふんわり微笑む。
新選組は、そんなふうに素直に感謝されることが少ないので、沖田はくすぐったかった。
ごまかすように立ち上がる。
「今日はもう日が暮れます。送っていきましょう」
◆
別れ際。
「この辺りでいいですか?」
「はい、ありがとうございました……」
そういうのに、桜羅は立ち去ろうとしない。
着物をきゅっと握りしめている。
理由を聞こうと声をかけた。
「香里さん……」
「どこに行ってたんだ!」
突然男が、ものすごい剣幕で横から桜羅の腕を引っ張る。
「見合いの席をすっぽかすとは……恥をかかせおって!」
沖田は一歩進み出た。
「お待ちください。嫌がっているではありませんか」
男は鼻を白ませる。
「はん。なんですかあなたは。人の家の事情ですよ」
「沖田様……」
桜羅が、迷惑をかけないようにと間に入る。
父親は『沖田』の名を聞き、顔色を変えてぺこぺこと頭を下げた。
「こ、これはっ……あの沖田殿でしたか。そうとは知らずとんだご無礼をっ」
ここまで態度を変えられると白けるが、この際この名を使ってやろうと、
「今日、そちらのお嬢様の危ないところを助けて差し上げたのですよ。
おあ、なんだか腹が空いてきたな」
沖田が善人の顔をして腹の辺りをさすると、父親は顔を白くした。
「よろしければ、晩の御飯をご一緒にいかがですか……」
「かたじけない」
そんなわけで。
普段はこんな図々しいことは大嫌いだが、沖田は彼らについていく。
桜羅は不安げに一番後ろを歩いていた。
途中で父親は高級茶屋に寄る。
見合いを断られたらしい男が、拳を振り上げ飛び出してきた。
「貴様、人の見合い相手を……」
付き人が慌てて止める。
「若旦那、その方は沖田総司殿です!」
「し……新選組の!?」
目を白黒させる男。
沖田はこの人相に見覚えがあった。
金はあるが、花街で大変評判の悪い男で、よく揉め事を起こしているからだ。
男は桜羅をちらっと見ると、
「こんな女はこちらから願い下げだ!!」
捨て台詞を吐いて消え去った。
沖田はくるりと桜羅の父親へ向き直る。
「見合いも結構ですが、相手は選んだほうがよろしい。娘さんのためにも、おたくの屋号を守るためにも」
「へ、へえ……」
「あの男を少しお調べになれば、私の言ったことがおわかりになるでしょう」
十分かとは思ったが、沖田はさらに、わざとらしく桜羅へ近づいた。
「香里さん、またお逢いしましょう」
「……はい」
彼女は沖田の真意を察したようだ。
伏し目がちに頷いた。
父親は何ともいえない顔をしていた。
新選組という、粗野で出自も不明な荒くれ集団に娘が気に入られてしまったという懸念。
片方では、うまく沖田総司の名を利用できれば、権力者と繋がりができ、店に利になるかもしれないという打算。
それらが入り混じった顔だった。
「で、では……茶屋でお料理を……」
まるでそろばんを抱えたたぬきのようなので、沖田は笑いを噛み殺した。
「もう腹がいっぱいになったので帰ります」
「え? まだ何も召し上がっていないじゃないですか、沖田殿!?」
◆
数日後の昼下がり、桜羅は女中と共に、律儀に礼の品を持って屯所を訪ねてきた。
「本当にありがとうございました」
深々と礼をする桜羅に、沖田は手を振る。
「これは受け取れませんよ」
「そんな、父に叱られてしまいますわ」
沖田はそれなら、と悪戯な笑みを浮かべた。
「では代わりに、香里さんに付き合ってもらおうかな」
女中が止めるのも聞かず、沖田は桜羅の手を取って駆け出していた。
「はあ……っ……こんなに走ったのは久しぶりです……っ」
女中を巻ききり、桜羅は肩で息をする。
「そうですか? 木登りが上手でしたのでお転婆かと思いましたが」
「それは、お忘れになってくださいな……」
頬を染めて小さくなる彼女に、胸の奥がくすぐったくなった。
「冗談ですよ。さあ、参りましょう」
手を繋いだままなのに気づいたが、そのままにした。
柔らかい手が、自分の硬い手と全然違っていたから。
だから離せなかったのだろうか。
沖田が、団子と白玉を両手に抱えて戻ると、桜羅は頭上の桜を見ていた。
陽の光に柔らかく包まれるさくらに、沖田は目を細める。
さらさらと流れる、鴨川のほとりに腰を下ろした。
「どうぞ」
「まあ、申し訳ありません」
桜羅は周囲をちらちらと見る。
皆、人目など気にせず思い思いに過ごしている。
沖田は草へごろんと寝転んだ。
「大きな口で団子をかじったとしても、ここには香里さんを叱る者はいませんよ」
「そう……そうですね」
安心したように甘味を口へ入れ、
「おいしい……こんなにおいしいものは初めて食べました」
と、感動するので沖田はふっと微笑んだ。
「大げさですよ。普段のほうがよほど良いものを食べているでしょう」
実際、安物の屋台の甘味だ。
「いいえ、本当においしいです」
嬉しそうな桜羅の手を掴むと、残った最後の団子を、じかに口でもぐ。
「あ、あの……沖田様……」
彼女は目を見開いて、動揺のあまり、団子を持つ手をふるふる震わせる。
それがぜんまいが切れた人形のようでおかしくて、沖田は声を立てて笑った。
「すみません、行儀が悪くて。しかし、私は本来こういう人間です。様などつけられては蕁麻疹が出ます」
「……そんなことを仰らないでください。沖田様は立派な方ですわ」
京で、新選組を悪くいうもののことは桜羅も知っているのだろう。
懸命に首を振っている。
「ははっ、まだ言いますか。様は、本当にやめてくださいよ」
「それでは……沖田さん……」
うん、と頷くと、桜羅は恥ずかしそうに笑った。
「その後お父上はどうですか」
「ええ、お相手は、沖田さんの言う通りの方でしたわ。父も思い直してくれて……」
「そうですか」
ではまた逢えますか。と言おうとして沖田は、手のなかでぽきっと団子の串を折っていた。
まさか緊張しているのだろうか。
そのまさかだった。
断られたくないというちんけな自尊心もあるが、それ以上に、
――自分は、もう永くないかもしれない
長引く咳に、いつまでも下がらない熱。
もう風邪だという言い訳は効かなくなってきている。
無理に想いを胸のそこにしまい込もうとすると、反発するように肺が息を押し出してくる。
沖田が乾いた咳を二、三すると、桜羅は心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、少し……失礼……」
横を向きごほごほと、止まらぬ咳を吐く。
――嫌になるな。
桜羅は沖田の背中を撫でる。
「ご無理をなさらないでください……」
「心配は無用です。もう良くなりました」
「……医者へはかかられていますか?」
いつものようにはぐらかそうと思ったのに、言葉が喉に張り付き出てこない。
それは、桜羅が真剣に自分を案じていたから。
桜羅は目を逸らして水面を見た。
「私には、想い人がいました」
沖田は黙っていた。
慎重な彼女が、沖田が咳をした途端背中に触れてきたこと、台詞が過去形であることが腑に落ちた。
――香里さんの想い人も、労咳病みだったのか……
「沖田さん……差し出がましいようですが、どうかお医者さまに……お邪魔でなければ付き添いますから」
「子どもではないんですから、一人で行きますよ」
だが、どこか世を儚むような沖田の様子に、桜羅は声を詰まらせて食い下がった。
「お願いですから……」
――弱ったな……
普段医者に行かないでいると、土方に凄まれるのだが、こんな風に女に泣き落としされるのは初めてだった。
どうやら、行くというまで終わりそうもない。
「……わかりました。行きますから」
「本当ですよ?」
「ええ」
桜羅はぱっと顔を明るくした。
そして思いもしないことをいう。
「またお逢いしましょう。そのとき、お身体の様子を教えてくださいな」
さて、これで適当にごまかすこともできなくなってしまった。
なぜなら沖田は、彼女にまた逢いたいと思ってしまっていたのだ。
こうして、たまに逢っては病の報告をするという、二人の妙な関係が始まった。




