春
――桜の精が降ってきた
その日、木の上から桜の花びらとともに沖田の胸に飛び込んできたのは、ふんわり柔らかい桜の花の可憐な香り。
「桜の精?」
本気で、そう思った。
◇
沖田はその日、自分だけの秘密の場所へ向かっていた。何にも縛られないために。
東山の寺の裏手からさらに奥。
参道を外れれば空気が変わり、やがて、空が落ちてきそうな場所に辿り着く。
つと沖田の足が止まった。
老いた桜の木。
もうすぐ満開になろうというその木から、調子っぱずれな唄が聞こえてくる。
枝の間からぶらぶらと下駄が揺れているのが見える。
今までここで人に出くわしたことがなかったから、警戒心と、そして興味が湧いた。
息を殺して近づいた次の瞬間、音が消えた。
桜の花びらとともに、沖田の胸に飛び込んできたのは、ふんわり柔らかい桜の花の可憐な香り。
「桜の精……?」
気づけば口から出ていた台詞に、その女ははっと沖田から退いた。
「も、申し訳ございませんでしたっ」
沖田は夢か現か確認するように手で目をこすった。
――人間だ
その女は、桜の精と見紛うだけあり、人を惹きつける容姿をしていた。
絶世の美女かと言われるとそうではない。
だが、儚むような、手を伸ばせば消えそうな透明感がある。
折れそうなか弱さと、野桜の逞しさが備わったような女だった。
「名は……」
「え?」
「名は何というのですか?」
「……香里 桜羅と申します」
沖田は吹き出していた。
「……あの?」
名乗った途端に笑われた桜羅は、頼りなげに沖田を見る。
「すまない。あまりにも予想通りの名でしたので」
ようやく半身を起こし、沖田は頭を下げた。
改めて見れば、桜羅は下駄を履いていたが、身につけている着物は上質なで、帯も錦糸が美しく織られている。
桜羅はふところから懐紙を取り出すと、沖田の泥を拭おうとその手を伸ばした。
しかし沖田はぴくっと眉を上げて身を引く。
「し……失礼しました」
沖田は震える指から懐紙を受け取り、ふっと微笑んだ。
「避けようとしたわけではなく。貴女の手が汚れてはいけないと思っただけですよ」
茂った草の上に腰を下ろす。
袖から取り出した手ぬぐいを隣に敷き、手で彼女へ促す。
「どうして桜の木などに上がっておられたのですか?」
桜羅は脱いだ下駄をきちんとそろえ、遠慮がちに布の上へ正座した。
「少し……一人になりたかったのです」
「一人に、ですか――」
彼女は遠くを見た。
そこには老いた木と、伸び放題の草があるだけで、本当に何もない場所だ。
「私、とんだご無礼を……」
「問題ない。あれしきで怪我をするほどやわには出来ていません」
桜羅が沖田の刀に目を留める。
「お侍さまでしたのね」
沖田は、名乗るか迷って目を伏せる。
人に名を聞いておいて失礼だとは思ったが、ここで『沖田総司』だと知られて、面倒なことになるのは御免だった。
今や京都の町で沖田総司といえば、新選組の一番組組長として有名になりすぎていた。
新選組は京都の治安を守っているが、感謝されることばかりではない。
荒くれ集団として毛嫌いされることもある。
彼はそのことを身を持ってわかっていた。
――それなら、なぜ彼女を引き留めたのだろうか……わざわざ隣になど座らせなければ良かったのではないか。
沖田は、刀を隠そうとしていた手を止めた。
こうしてすぐ人を遠ざけようとするのは自分の悪い癖だ。
「……私は、沖田総司と申します」
名を告げると桜羅は固まってしまった。
名乗ったのは失敗だったか。
怖がらせないように立ち去ろうとしたとき、彼女は手を綺麗に揃え頭を下げた。
「沖田様でいらっしゃいましたか。
以前新選組の皆さまが、取り締まってくださったおかげで、うちの店は大変助かりましたの」
「それが役目ですから」
「いいえ、危険をかえりみずに京都の町を守ってくださっているのですから、ありがたいことです」
桜羅の笑みは、説明がつかないのにやはり桜の精のようで、沖田はまた魅入られてしまっていた。
今まで女に興味を惹かれたことがなかった。どこかくすぐったさを覚え、素早く立ち上がる。
「今日はもう日が暮れます。送っていきましょう。四条河原の辺りですか?」
桜羅が目を見開き、沖田は先に歩き出す。
「初めは気づきませんでしたがね。この辺りで香里といえば、有名な大店だ」
後ろに着いてくる気配を感じながら、沖田は彼女が引っかからないよう、絡むような細枝に折り筋を付けて進む。
(なぜあんなところのお嬢さんが、下駄などつっかけて……)
――一人になりたかったのです
彼女の遠い目が思い出され、沖田は頭を振る。
沖田だって、一人になりたくて彼処へ行ったのだ。
それをなぜなのかと問い詰められたら堪らない。
もう、そうそう逢うこともあるまい。だから聞くこともない。
自分を納得させているうちに、賑やかな通りに出ていた。
互いに話すこともなくさらに進み、四条河原町が近づくと、彼女は明らかに歩みがゆっくりになった。
「……この辺りで大丈夫です」
「そうですか」
人通りも増えたし問題ないだろう。
沖田は背を向けた。
数歩行きかけると背後で、
「どこに行ってたんだ!」
振り返れば血相を変えた男が、桜羅の腕を引っ張っている。
「お父様、離してください……」
力ない声に、怒声が被さる。
「見合いの席をすっぽかすとは……恥をかかせおって!」
沖田は一歩進み出た。
「お待ちください。嫌がっているではありませんか」
父親は鼻を白ませる。
「はん。なんですかあなたは。人の家の事情ですよ」
「沖田様……」
桜羅が間に入る。
父親は『沖田』の名を聞き、顔色を変えてぺこぺこと頭を下げた。
「こ、これはっ……あの沖田総司殿でしたか。そうとは知らずとんだご無礼をっ」
ここまであからさまに態度を変えられると白けるが、この際この名を使ってやろうと、
「今日、そちらのお嬢様の危ないところを助けて差し上げたのですよ。
おや、なんだか腹が空いてきたな」
善人の顔をして腹の辺りをさすると、父親は顔を白くした。
「よろしければ、晩の御飯をご一緒にいかがですか……」
「かたじけない」
そんなわけで。
普段はこんな図々しいことは大嫌いだが、沖田は彼らについて行くことにした。
桜羅は不安げに一番後ろを歩いている。
そっと耳打ちした。
「大丈夫、悪いようにはしませんよ」
道中、父親は高級料亭の前で立ち止まった。
「少々お待ちください」
父親が中に入り数分経つと、見合いを断られたらしい男が拳を振り上げ飛び出してきた。
沖田が桜羅を背にして前に出ると、男はますます目を剥き顔を真っ赤にする。
「貴様、人の見合い相手を――」
後を追って出てきた付き人が、慌てて男の袖に縋った。
「若旦那、その方は沖田総司殿ですぞ!」
「沖田……? し……新選組の!?」
男は目を白黒させた。
片手を振り上げたままの珍妙な格好で、銅像のように動きを止めていた。
沖田はこの人相に見覚えがあった。
金はあるが、そのため横柄に振る舞うことで有名で、花街で大変評判の悪い男だった。
よく揉め事を起こしているので、沖田も何度か新選組として仲裁に入ったことがある。
男は桜羅をちらっと見ると、
「こんな女はこちらから願い下げだ!!」
拳をやっと下げ、捨て台詞を吐いて消え去った。
沖田はくるりと桜羅の父親へ向き直る。
「見合いも結構ですが、相手は選んだほうがよろしい。娘さんのためにも、おたくの屋号を守るためにも」
「へ、へえ……」
「あの男を少し調べれば、私の言ったことがおわかりになるでしょう」
十分かとは思ったが、沖田はさらに、わざとらしく桜羅へ近づいた。
「"桜羅"さん、またお逢いしましょう」
「……はい」
彼女は沖田の真意を察したようだ。
伏し目がちに頷いた。
父親は何ともいえない顔をしていた。
新選組という、粗野で出自も不明な荒くれ集団に娘が気に入られてしまったという懸念。
片方では、うまく沖田総司の名を利用できれば、権力者と繋がりができ、店に利になるかもしれないという打算。
それらが入り混じった顔だった。
「で、では沖田殿……茶屋でお料理を……」
まるでそろばんを抱えたたぬきだ。
沖田は笑いを噛み殺した。
「もう腹がいっぱいになったので帰ります」
「え? まだ何も召し上がっていないじゃないですか、沖田殿!?」
◇
数日後の昼下がり。
桜羅は女中と共に屯所を訪ねてきた。
手には律儀に礼の品を提げている。
「先日は、誠にありがとうございました」
深々と頭を下げる彼女に沖田は手を振る。
「大したことはしていませんから、これは受け取れませんよ」
「そんな、父に叱られてしまいますわ」
隣の女中は面倒臭そうに突っ立っている。
大方あの父親に言われて沖田と桜羅を監視しに来たのだろう。
ふと悪戯心が顔を見せた。
「では代わりに、香里さんに付き合ってもらおうかな」
桜羅にだけそう言った。
小首を傾げた彼女の手を勢いのままに取ると、手提げが音もなく地面に落ちた。
それを合図に、沖田は桜羅と共に駆け出す。
風が頬を撫でる。
「お嬢様! お嬢様ーっ!!」
背に受ける女中の声がみるみる遠ざかる。
屯所の前の路地裏を抜け、人混みを縫う。
頃合いを見て足を止めた。
「はあ……っ……こんなに走ったのは久しぶりです……っ」
彼女は膝に片手をつき肩で息をしている。
「そうですか? 木登りが上手でしたのでお転婆かと思いましたが」
桜羅の頬が薄桃色に染まる。
「それは、お忘れになってくださいな……」
「冗談ですよ。さあ、参りましょう」
繋いだままの手は滑らかで、指先に向かって先細り、白魚のようだった。
きっと水仕事などすることもないのだろう。
そう思ったら、自分の手がいつもより武骨に感じられた。
◇
沖田が団子を手に戻ると、桜羅は川のほとりに腰を下ろし、頭上の桜を見ていた。
眩しそうに目を細めている横顔は桜さながらで、
沖田は花びらを揺らさないように静かに肩を並べた。
「どうぞ」
「まあ、申し訳ありません」
差し出された串団子を握ったまま、桜羅は首をすくめて周囲を窺う。
沖田は草へごろんと寝転んだ。
「大きな口で団子をかじったとしても、ここには香里さんを叱る者はいませんよ」
「そう……そうですわね」
彼女は焦げ目とタレがついた団子をまじまじ見た。ごくりと決心したように喉を鳴らし、団子を口へ入れる。
「こんなにおいしいものは初めて食べました」
ほうっと息を漏らし大仰に感動してくれるので、沖田は微笑った。
「普段のほうがよほど良いものを食べているでしょう」
実際、安物の屋台の甘味だ。
「いいえ、本当のことでございます」
沖田は桜羅の手をぐっと引き寄せ、残った最後の団子をじかに口でもいだ。
「お……沖田様……」
彼女は目を見開いて、動揺のあまり串を持つ手をふるふる震わせている。
それがぜんまいが切れた人形のようでおかしくて、沖田は笑い声を立てた。
「すみません、行儀が悪くて。
しかし、私は本来こういう人間です。様などつけられては蕁麻疹が出ます」
京で、新選組を悪く言う者のことは桜羅も知っているのだろう。
懸命に首を振っている。
「……沖田様は立派な方ですわ」
「ははっ、まだ言いますか。様は、本当にやめてくださいよ」
「それでは、沖田さん……」
うん、と頷くと、桜羅は笑った。
奥ゆかしい笑みは、満開よりも八分咲きの桜を思わせた。
「その後お父上はどうですか」
「ええ、お相手は沖田さんの言う通りの方でしたわ。父もひとまずは思い直してくれて」
「そうですか」
ではまた逢えますか。
と言おうとして沖田は、手の中で団子の串を折っていた。
(まさか緊張しているのか……)
いや。
――自分は、もう永くないかもしれない
長引く咳に、いつまでも下がらない熱。
もう風邪だという言い訳は効かなくなってきている。
無理に想いを胸の底にしまい込もうとした。反発するように、肺が息を押し出す。
沖田が乾いた咳を二、三すると、桜羅は眉を寄せた。
「大丈夫ですか?」
「ええ……失礼……」
横を向き、ごほごほと止まらぬ咳を吐く。
(嫌になるな)
桜羅は躊躇いなく沖田の背中を擦った。
「ご無理をなさらないでください……」
「心配は無用です。もう良くなりました」
「……お医者様へは、かかられていますか?」
いつものようにはぐらかそうとしたのに、桜羅の真剣な視線に晒され言葉が喉に張り付く。
不意に桜羅は目を逸らした。
「私には、想い人がいました」
過去形であることから別れたのだろうと察しはついたが、
桜羅の震える声はまるで、罪を告白する罪人だった。
――想い人は名を太助といった。
太助は商家の次男であり、桜羅の父は婿候補として目をつけた。
「年頃になれば祝言を」と家同士で取り決められ、二人は約束された仲になった。
「激しい情愛はありませんでした。だけど、大店の娘というだけの私を、彼は大切にしてくれました……なのに――」
祝言も目前という頃、太助は病に倒れた。
「私は父に言われるまま彼に逢わなくなり、そのまま最期を看ることもしませんでした」
何の病か桜羅は言わなかったが、十分だった。
(ああ、香里さんの想い人も労咳病みか……)
彼女にかけてやる言葉も持ち合わせずに、ひたすら川を見た。
桜羅も同じく川を眺めていたが、小魚がぴちりと跳ねると顔を上げた。
「沖田さん差し出がましいようですが、どうかお医者様に。お邪魔でなければ付き添いますから」
「子どもではないんですから、一人で行きますよ」
桜羅は声を詰まらせ、沖田の袖を引いて「お願いですから」と食い下がった。
(弱ったな……)
普段医者に行かないでいると、土方に鬼の形相で凄まれるのだが、こんな風に女に泣き落としされるのは初めてだった。
「……わかりました。医者へかかりますから」
「お約束してくださいますか?」
「ええ」
桜羅はぱっと顔を明るくした。
そして思いもしないことを言う。
「またお逢いしましょう。そのときお身体の様子を教えてくださいな」
さて、これで適当にごまかすことも出来なくなってしまった。
太助と同じ労咳病みの沖田を、彼女は放って置くことはできないのだろう。
そう思ったら胸の奥が痛んだ。
痛みの理由は「医者に行ったところで結末は同じだ」という諦念か、
桜羅の心に未だ居座る太助への嫉妬か。
どちらかはわからないから、知りたいと思った。
こうして、たまに逢っては病の状況を報告するという、二人の妙な関係が始まった。




