別れと、決断
「なんだか、長い夢を見ていた気がします」
「墨香と白來が、私のために龍になってしまう。そんな悪い夢を」
目を半分開いたいぶきさんが、眠たげに呟く。
『……夢は夢ですよ、いぶきさん』
『いぶきさんのために戦うことはあっても、見境なく暴れるような真似はしないでしょ』
なるべく周りを見せないように、いぶきさんの目を見て話す。
いぶきさんも、納得したような顔を見せた。
「そうですわね。あの二人に限って、そんなことするはずがありません」
「──ところで、唇に柔らかな感触が触れた気がしたのですが、あれは──」
『──っ!?』
唐突にキスのことを言及されてついむせ返る。
いぶきさんはキョトンとしていた。
「大丈夫ですか?八重原様」
『──ちょっと、咽せただけです』
『多分、気のせいじゃないですか?』
慌てて取り繕うように言葉を繋ぐ。
いや、別に隠す必要もない気はするのだが。
『……そう、ですか』
『そういうことに、しておきましょう』
いぶきさんが目を閉じると、身体が少しずつ透けていった。
火那森先輩と同じく、時間がきたようだ。
『そろそろ起きる時間みたいですよ、いぶきさん』
「──ええ。なんだか、気持ちよく起きられそうな気がします」
「八重原様も、寝坊はいけませんよ?」
いぶきさんが口に手を当てて、軽く微笑む。
俺も、笑顔を返した。
『はい。でも、俺はもう少しだけ寝ます。夜更かししたので』
いぶきさんは微笑んだまま、消えた。
ようやく、終わった。
静寂が妙に心地いい。
いぶきさんを見送った余韻に浸ろうと考えていた。
直後。
視界が歪み、膝から力が抜ける。
受け身を取る間もなく、地面に倒れ伏す。
『ガッ、はぁ──っぐぁ"ぁ"──ッ!』
全身に走る堪え難い激痛。
込み上げる吐き気。
抑えきれず吐き出した吐瀉物には、赤黒い血が大量に混ざっていた。
八重蜘蛛の鎧が霧となって霧散する。
呼吸が浅く、荒くなる。
身体を小刻みに震わせることしかできない。
折れた脚を無理やり動かして、海月の毒を麻酔代わりに流し続けた。
それに八重蜘蛛の力で暴れたおかげで、骨も筋肉も悲鳴をあげている。
身体は、もうとっくに限界を超えていた。
《暁人!》
《ああ、いけない──!まずは解毒を──!》
海月の触手が全身を覆う。
あちこちに針を刺されて、色々な液体を流し込まれては抜かれていく。
寄せては返す激痛の波に、意識が一気にさらわれた。
『──情けねェ格好だな』
「──八重蜘蛛」
暗闇の中、八重蜘蛛の声が響く。
起きているのか、眠っているのか分からない。
ここがどこなのかも定かではない。
『ったく、テメェの身体の具合くらい自覚しやがれ』
『オマエ、もう死ぬぞ』
「……まだ、やることが残ってる」
「紫蜘蛛に謝らなきゃいけない。それまでは死ねない」
死にかけているとは思えない程、強い声。
自分で自分に驚く。
『──なら、交換条件だ』
八重蜘蛛が姿を現す。
以前の蜘蛛の怪人ではなく、鎧を纏った姿。
『俺がテメェの傷を肩代わりしてやる』
『その代わり、これが終わったら俺の願いを一つ聞け』
「……致命傷だぞ。肩代わりしたらお前が死ぬんじゃ」
『テメェと一緒にすんなよ』
『それにテメェが生きてる限り、俺は死なねェ』
『さあ、どうする?』
迷うことなどなかった。
八重蜘蛛を見据え、即答する。
「わかった。ただし、内容次第じゃ紫蜘蛛にも立ち会ってもらうぞ」
『信用してねェのか?まあ良いけどよ』
鎧に手を伸ばし、触れる。
瞬間、鎧に無数の亀裂が入った。
『──俺はしばらく眠る』
『糸とある程度の身体強化くらいは使わせてやるが、それ以上は望むな』
『そら、とっとと起きろ』
八重蜘蛛に促され、目を閉じる。
『──ああ、暁人。良かった、目が覚めて』
目を開けると、海月の膝枕の上だった。
身体の痛みがない。
脚に力が入る。
『解毒はどうにか間に合ったけど──急に身体の傷が消えたから驚いたわ』
『あなたの中の蜘蛛が、何かしたのかしら?』
自分の胸元に目をやり、手を添える。
心の中で八重蜘蛛の名を呼ぶが、反応がない。
「──ああ。ちょっとした取引をした」
起きあがろうとして、違和感を覚える。
唇の辺りから、何かが垂れた。
拭ってみると、俺の血だった。
海月の顔を見ると、少しだけ血が唇についている。
「……また飲んだな?」
『ええ。私も消耗してたし、少しね』
ペロリと残った血を舐め取りながら答える。
「それだけじゃないだろ。いぶきさんとのキスを見て嫉妬したとか」
『あら。私のこと、分かってきたのね』
『嬉しいわ、とても』
クスクスと、海月が笑う。
……まあ、血ぐらいは良いか。
海月の力は必要だし、こうして笑ってくれるなら。
『さあ、行きましょうか』
『次は──あの子のところよ』
「──ああ」
俺も海月も、目が真剣になる。
次に向かうのは、紫蜘蛛のところだ。
二人で並んで歩き出す。
目指すのは、巨大な城。
城の周りだけ、不自然に雲がない。
青空を衝かんと伸びる真紅の尖塔。
太陽の光を跳ね返す白亜の壁。
今まで見えなかったのが不思議なほどの存在感を放っている。
「あんな城、今まであったか?」
『──無かったわね』
『もしかしたら、ハミィが次の舞台として今作ったのかも』
「……そんなのありかよ」
思わずため息が出る。
もうなんでもありだ。
『あの子、夢の中なら何にでもなれるし無敵だもの』
『薬を作るのも、呪いをかけるのも、思いついた建物を作るのも』
『あの子が“したい”と思えば、なんでもできるわ』
「……なるほど。さすがは獏ってことか」
夢を食べる怪異。
なら、夢を弄るくらい朝飯前なんだろう。
『──怖くなった?』
「いや、怖くはないが……厄介だな」
「向こうがその気になれば、指一本で俺を殺せるわけだろ」
火那森先輩といぶきさんと戦わせたのは、多分ハミィが俺たちの同士討ちを見たかったからだ。
紫蜘蛛とも同じことをさせられるだろうが、痺れを切らして自ら殺しにかかる可能性もゼロじゃない。
考えれば考えるほど、色んな可能性が浮かんでくる。
全ての可能性に対応するには──
『──考えすぎよ』
「っ!?」
海月の触手が首筋をくすぐる。
突然襲ってきた感触に肩が跳ねる。
『ハミィはもっと単純よ』
『あの子はね、悲劇が好きなの。それも飛びきり後味の悪いね』
『そう考えると、何をしてくるか想像できないかしら?』
──なるほど。
頭の中がスッキリしていく。
余計な可能性が消えていく。
「……良いのかよ。友達が不利になるようなことして」
首筋をくすぐる触手を指に絡めて止める。
海月は真剣な眼差しを向けたまま、口を開く。
『──そうねぇ』
『あの子は、これくらいじゃ不利にならないわ』
海月はそれ以上、何も言わなかった。
「──着いたな」
城の前に、海月と二人で並び立つ。
近くで見ると本当に大きい。
距離感がおかしくなりそうだ。
『──暁人』
『そろそろ、決まったかしら?』
海月が俺の前に立ち、目を見て口を開く。
「決める?何を」
『──私とあの子、どっちが良いか』
『ここで、聞いておきたいの』
『これ以上は、行けないかもしれないから』
触手が小さく蠢く。
目は真剣そのものだった。
いつか来ると思っていた瞬間が、来てしまった。
「……それは──」
正直なことを言えば、悩んでいる。
海月の好意は本物だ。
本気で俺のことが好きで、自分が死にかけてもなお俺と共にここまで来てくれた。
それは本当に感謝している。
──だからこそ、中途半端な気持ちでは応えられない。
だから──
「──すまない、海月」
「やっぱり、俺には紫蜘蛛が必要なんだ」
海月の顔は、変わらなかった。
『──そう』
『良いわ、あなたの口から答えが聞けただけでも、満足よ』
少し悲しげに微笑んで、右手のシュシュを見せる。
『──なら』
『この関係は、ここまでね』
言葉の直後、シュシュが泡となって消えた。
俺の右手のシュシュも、消えていった。
ゆっくりと、海月が俺に歩み寄る。
俺もつられるように、歩み寄る。
『楽しかったわ、暁人』
『夢を見させてくれて、ありがとう』
身体が触れ合いそうなほど近づき、海月の手が俺の顔に触れる。
──そのまま、唇が触れ合った。
血を吸うためでもない。
純粋な、愛を伝えるためのキス。
長く、永く。
別れを惜しむように。
やがて唇が離れ、水の雫が糸を引く。
『──忘れられない思い出に、なったかしら?』
「──忘れるわけ、ないだろ」
海月が一歩、離れる。
『ここからは、あなた一人よ』
『でも、あなたならきっと、あの子を助けられる』
『──頑張ってね、暁人』
美しい笑顔を浮かべて、海月は泡となって消えた。




