蜘蛛の怪異と、先輩の声
『……まずいな、暁人くん』
狐火が小さく呟く。
呪詛で黒く染まった部分を、少しずつ元に戻す。
彼を止めるためにも急ぎたいが、下手なことをすると主の身体に影響が残る。
『紫蜘蛛ちゃん。最後の一線は、ちゃんと守って、あげなよ……』
痛みと何もできない歯痒さに悶えつつ、怪異の戦いを見る。
──餓者髑髏の口から、ドス黒い瘴気が放たれる。
見ただけでも侵されそうなほどの呪詛が込められている。
『──ォアァァッ!!』
蜘蛛の怪物が、雄叫びと共に駆ける。
瘴気に触れる直前、糸で軌道を変えつつ空を舞う。
餓者髑髏の腕に糸を絡める。
人間なら失神しているほどの軌道で振り回されながら、それでも腕に糸を張り巡らせていく。
──翼もないのに、まるで飛んでいるようだった。
〈オオォォ──ッ!〉
餓者髑髏も腕を振って抵抗する。
普通なら内臓が潰れているだろう重力にも、怯む様子はない。
それどころか、隙を見てさらに糸を走らせている。
『──ヴアアアァァァァ──ッ!!』
空に舞い上げられた瞬間、一際大きな咆哮と共に、蜘蛛が全身で糸を引き絞る。
──バツンと、巨骨が斬り落とされる。
右腕の肘から下が落ちた。
〈ウオオオォォ──ッ〉
餓者髑髏が痛みに吠える。
蜘蛛は構うことなく右肘に降り立つ。
『──ヴオオア"ア"ア"ア"ッ!!!』
八本の脚を突き刺し、砕きながら腕を駆け上がる。
肩まで駆け上がり、首に狙いを定める。
──だが、骨の隙間から瘴気が吹き出した。
『──ガッ──!?』
不意打ちの瘴気を吸い込み、動きが鈍る。
餓者髑髏が、残った腕で蜘蛛を捉える。
『──ガッアアアアアッ──!!』
メキメキ、と骨を潰す音が響く。
餓者髑髏が、捉えた蜘蛛を地面に叩きつけようと振りかぶる。
『──グオ"ア"ア"ア"ア"ァ"ァ"ァ"──!!!』
咆哮と共に、指を力ずくで押し返す。
開いた掌から、その身体が落ちる。
骨が潰れ、それでもなお拘束を引き剥がした。
いくら身体が怪異化していても、重症は免れない。
力なく落下した身体へ、餓者髑髏が追撃の腕を振るう。
『──ッ!ガァ──ッ!!』
意識を取り戻したように、腕から糸を放つ。
迫る骨の掌に絡めようとするが、避けられる。
『──グアァッ!』
外したと見るや、脚に向けて糸を放つ。
そのままグルリと空を駆け、膝に渾身の蹴りを叩き込む。
餓者髑髏がバランスを崩し、膝をつく。
〈──オオォ──〉
着地し、呻きを無視して今度こそ首に狙いをつける。
身を沈め、八本脚で踏ん張る。
駆け出す直前──
斬り落とした腕が、無数の人骨兵士となって立ちはだかる。
『──ッ!オオアァァ──ッ!』
構わず人骨の群れに突っ込む。
貫き、引き裂き、砕く。
目につく先から破壊する。
だが、いくら壊しても数は減らない。
やがて人骨の兵士に囲まれる。
組みつかれ、殴られる。
噛みつかれ、蹴られる。
『──グッガァッアァァァ──ッ!』
膝から崩れ落ちる。
上からさらに人骨が覆い被さっていく。
蜘蛛が、骨の山に埋もれた。
声が、消える。
──炎が、山を焼いた。
「八重原くん!紫蜘蛛ちゃん!」
火那森先輩が、帰ってきた。
《主、無理するな!》
「ここで無理しないで、どうするの……っ!」
よろめく身体の一部は、まだ黒く侵されている。
左目は光を失っている。
だが、残った右目は煌々と生気を湛えている。
『──グゥァァァァ──ッ』
赤い目が火那森を睨む。
そこに宿るのは、それだけで人を殺せそうな敵意だった。
「八重原くん!聞こえてる!?」
「私よ!火那森燐!」
声を張り上げる。
──正直、怖い。
あの叫び、あの戦い。
今まで倒してきた怪異と同じか、それ以上の気迫。
それでも。
まだ、彼が"彼"であることを信じて。
「まだ戻れる!それ以上戦ったら、もう人間に戻れなくなる!」
「私は平気だから!だから止まって!」
『──ガアアァァ──ッ!!』
蜘蛛が、火那森に向けて駆け出す。
「私と一緒に!彼女達を止めて!」
『────ッ』
「……」
──蜘蛛の動きが、止まる。
突き出した腕が火那森の頬を掠めていた。
直前で、逸らした。
《──今》
紫蜘蛛の声が響く。
瞬間、四つの赤目が輝きを失う。
──顔を覆う糸が、背中の腕が、ほどけるように消えていく。
ぐらりと揺れ、糸が切れたように倒れる。
蜘蛛の怪異が、止まった。




