路地裏の怪異と、死ななかった俺
その日は、不気味なほどに青白く輝く満月の夜だった。
俺─八重原暁人は、小腹を満たすためコンビニに寄った帰りだった。
スナックと炭酸をお供に、ゲームで楽しい夜を過ごしてやろうという算段だ。
仕事の都合で両親は普段家にいない。
小さい頃は寂しかったが、高校生にもなれば、夜間外出に夜食、スイーツなんかを自由に楽しめる嬉しさが勝る。
(あとは、このポテチとコーラを一緒に楽しめる彼女がいれば最高なんだけどなぁ)
そんなことをぼんやり考えながら帰路につく。
路地の角を曲がった時、ふと違和感を覚えた。
妙に風が冷たい。それと異様に静かだ。
自分の足音が嫌に大きく聞こえるくらい、他の音が"無い"。
それに今は6月だ。夜でも湿気を帯びた生ぬるい風を感じることの方が多い。
なのに、腕や頬に触れるのは、ほのかに刺すような痛みだった。
「梅雨時の風じゃあないな。半年早いぞ」
あと、なんとなく身体が引っ張られるような感覚がある。
まるで「こっちに来い」と言わんばかりに、左肩の辺りが引かれている。
無視できるくらいの違和感だったが、風の異様さも手伝って、今日はこの"引力"に従うことにした。
この直後、その選択を後悔することになるとも知らずに。
"引力"に導かれるまま歩いていると、気がつけば最寄駅の近くまで来ていた。
既に終電間際、人なんてほとんどいない。
改札へ続く階段の前で酔っ払いが一人転がっているくらいだ。
ここまで来ると、もう"引力"は無視できないほど強くなっていた。
裾を引かれるくらいの強さが、腕を思い切り引かれるような感覚に変わっている。
"引力"の発生源は、交差点手前の路地裏のようだ。
歩を進めるごとに、空気が変わる。
肌を刺すような冷たさは、既に痛みに変わっていた。
これは寒さじゃない、実際に切れている。
腕を見ると出血こそ無いが、皮膚が細かく傷ついている。
寒さによるものだと思っていた震えは、恐怖心から来るものだと気付く。
もういい、引き返すべきだ。
頭では分かっているのに、脚は"引力"に従うように、前へ前へと進んでいく。
やがて路地に入って──俺はすぐに後悔した。
いる。
そこに、何かが。
暗くてよくは見えない。
輪郭の定まらない黒いモヤと。
その隣には、宙に浮く何かがある。
その何かが、"人間だったもの"と理解するのに、そう時間はかからなかった。
血の匂いが、風に乗って鼻を突く。
悪寒に震え、汗が吹き出す。
早く逃げろ、と身体が訴えかけてくる。
(──ッ!?なんだよアレ!?)
反射的にゴミ箱の陰に身を隠し、口を押さえる。
目の前にいきなり"死"が現れた。
あまりにも突然で不可解な状況に呼吸が乱れる。
心臓の音がやけにうるさい。
(…いや、待て。落ち着け…!)
恐怖で崩れかけた思考を、なんとか繋ぎ止める。
(まだ、まだ生きてるかもしれないだろ…!)
逃げない言い訳を探すように、きっとまだ生きていると自分に言い聞かせる。
逃げるのは簡単だ。
だが、今ここで逃げる事に強い抵抗があった。
(…やるしか…!)
震える手で、ゆっくりとゴミ箱の蓋を盾代わりに、足元のコーンバーを槍代わりに握る。
あんな正体不明の相手にはどう考えても無駄だろうが、無いよりマシだと自分に強く言い聞かせる。
倒す必要はない。少し気を引いて、隙を見て助ける。それだけだ。
「おいバケモノ…!こっちを見ろ…!」
蓋の盾を叩き、相手の気を引く。
腹から出したつもりの声はとても小さく、掠れていて震えていた。
塊がピクリと反応を示す。
少しだけモヤが晴れ、その奥に顔のようなものが見えた。
形は曖昧だが表情はハッキリと分かる。
笑っている。
ニタリ、という表現がピッタリな歪んだ笑顔。
それがまた不自然で、息が詰まる。
やがて塊がこちらに向かって動きだす。
想像よりもずっと速く、音もなく滑るように距離を縮める。
咄嗟に左手の蓋を前に構える。
棒を握る右手にも力が入る。
──だが。
何も起きなかった。
黒いモヤは、何をするでもなく、俺をすり抜けた。
(今、何が…)
振り返る瞬間、全身に激痛が走った。
「──ッ!?」
声にならない叫びをあげる。
今度は汗ではなく、血が噴き出した。
理解が追いつかない。
何が起きた?何をされた?
痛みに悶えながら身体を見ると、全身に深い切傷が刻まれている。
あの一瞬で、頭から爪先までズタズタに切り刻まれたのだと、嫌でも理解させられた。
視界が揺らぐ、霞む、血が滲む。
瞬きの間に意識が遠のく。
膝から崩れ落ち、地に伏せる。
薄れゆく意識の中で最期に見えたのは。
真っ二つにされた黒いモヤと、その奥にいる燃える刀を持った女の子だった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「っ…間に合わなかった…」
先ほどの怪異─"鎌鼬"を始末した少女、火那森燐は、遺体を前に小さく呟く。
あと少し早ければ間に合っていたかもしれないのにと、悔しさを滲ませた声で。
目の前の彼は、同年代だろうか。
全身に深い裂傷、右腕は完全に切断されている。
うつ伏せで見えないが、おそらく内臓もやられているだろう。
「─ええ、そうね。せめて安らかに、送ってあげましょう。狐火」
刀に再び火を灯し、遺体の前に刃を立てる。
怪異に殺された人間の魂は、悪意に穢されこの世に残る。
やがてその魂も怪異に変化して、また他の人間を命を奪うようになる。
その連鎖を断つために、私の刀─"狐火"の炎で天に還す。
それが、私の役目だ。
遺体の周りを淡い光の線が囲んでいく。
そして円状が繋がる寸前。
──異変が起きた。
「─!?狐火!!」
慌てて遺体から離れ、刀を構える。
遺体の傷口からは無数の糸のような光が現れていた。
それらはまるで意思を持つかのように、傷口を縫い始めていく。
「これは…一体…」
あり得ない光景だった。
みるみると傷が塞がっていく。
気づけば斬り落とされていた右腕も、何事も無かったかのように元通りになっている。
そして傷一つない身体に戻った彼は、まるで昼寝から目覚めるように、ゆっくりと起きあがった。
「あれ…俺、なんで…」
「なんで、生きてるの」
思わず声が漏れる。
死んだはずの彼が、生きている。
いや、違う。
彼は最初から死んでなどいなかった。
あの光の糸が、文字通り命を繋ぎ止めていた。
そうとしか思えない光景だった。
「…あなた、私と同じ"憑き人"みたいね」
「…ツキビト?なんのことだ?」
戸惑う少年に、小さく息を吐く。
「説明は後。ここだと落ち着いて話せないし──ついてきて」
彼の手を取り、足早に場を離れる。
今の現象、間違いない。
ようやく"同族"を見つけたんだ、放すわけにはいかない。
不気味なほどに青白く輝く満月の下、二つの影が、静かな路地から離れていく。
その様子を──
ビルの屋上から、黒い影がじっと見下ろしていた。




