第四十六話 相談しながら休息した
夢を見た。僕がまだ小学校に上がる前の、嫌な記憶だった。
当時僕の家では犬を飼っていた。そんなに大きな犬ではなかったが、今より小さかった僕は散歩のとき、よくそいつに引き摺られたものだ。他にも手を噛まれたり、一歩も進んでくれなくなったり。そういう、わんぱくな犬であった。
けれど、いつしか犬は弱っていった。当時は寿命なのだと母から聞かされたが、おそらくなんらかの病気だったのだろう。あとから生まれた時期と照らし合わせたところ、死ぬにはいささか早過ぎた。
病院へ連れて行ってもらえなかった犬は、日に日に痩せ細り、小さくなっていった。少し前まで昼も夜もけたたましく吠えていたというのに、今では一日中ぐったりと小屋の中で身を横たえている。食べ物も受け付けなくなってしまったが、水だけは飲むので僕は皿に水を溜め、犬に飲ませてやった。
僕が水を持っていくと、犬は頼りない足取りで近づいてきて、皿から懸命に水を飲んでいた。その健気な姿は、あの乱暴者とは似ても似つかないものであった。
飲み終えた犬を撫でると、奴は少し嬉しそうな目で僕を見上げた。悲しい気持ちになりながらも、最期は看取ってやらねばと、幼心に決意したものだ。
けれどある朝、犬は姿を消していた。母に聞くと、死んだので父が既にどこかへ埋めに行ったのだと言う。せめて埋めた場所を教えて欲しいと頼んだものの、教えてはもらえなかった。その理由を、僕は少しあとで知ることとなる。あの朝、犬はまだ死んではいなかった。弱った犬を、父は山へ捨ててきてしまったのだ。
なぜ早く言わなかったのか問うと、母は自分は止めたと言いながらも煩わしそうに顔をしかめて見せた。
「どうせもう長くなかったんだから、仕方ないでしょう。それより、こうやって騒いでることをお父さんに知られたらどうなると思う?」
望むところだと自分から父を糾弾し、敢えなく半殺しの目にあった僕は、他の兄弟たちに犬を探しに行こうと提案した。もう生きてはいなくとも、せめて埋めてやるのが飼っていた者としての務めである。
しかし、他の兄弟たちはあまり乗り気になってはくれなかった。元気だった頃はあんなに可愛がっていたのが、まるで嘘のようだ。すぐ父は新しい犬を飼った。血統書付きの、可愛らしい子犬だ。他の兄弟たちはすぐ夢中になったが、僕はあまりそういう気分にはなれなかった。
「新しい犬をお父さんが買ってきたんだから、いい加減機嫌を直しなさい」
そう言われても、やはり納得はできない。どれだけ可愛かろうが、今の犬と昔の犬は違うのだ。決して、同じではないのだ。けれど僕はあまりに無力で、山へ探しに入って持ち主のお年寄りに叱られただけであった。犬の亡骸も見つけられなかった。
奴がどんな最期を迎えたのかがわからないように、新しい犬が今どうしているのかはわからない。年齢的に死んでいるのだろうが、弱った先に待っていたのは、あの前の犬と同じ露命だったのだろうか。
一つだけ言えるのは、僕は前の犬を探せなかった頃から、あまり変われていない気がするということぐらいだ。
「……じょ、ジョージさん……ジョージさんっ……」
揺すられていることに気がつき、眠いときとは違う重さの瞼を開く。すぐそばに、僕を心配そうに覗き込むオリヴィアさんの顔がある。目が合った瞬間ほっとした表情を浮かべた彼女は、次の瞬間には泣き出していた。
「よかった……目を、覚ましてくれて……」
こういうとき、どうしたらいいのだろう。とりあえず、中三の部活最後の試合後に泣いてくれた後輩へしたよう、頭をそっと撫でてやる。腕が重く、上手く撫でられなかったせいで少し髪を乱してしまった。けれどオリヴィアさんは、僕の手が伸びたときにビクリと身を小さくしたものの、撫でられるとわかってからは黙ってそれを受け入れていた。
「ジョージ、話せる?」
気づけば、アリアさんたちみんなも僕の様子をうかがっている。そうだ。僕らは今、レッドベアに襲われていて、それで蔵に立て籠っているのだった。
「ああ。ごめん、どのぐらい寝てた」
「だいたい、三十分ぐらいかしら。今は横になって、少しでも体を回復させて」
その程度なのか。てっきり、四時間前後は経ってしまったと思っていた。
「逃げてる途中で、ジョージがいないことに気づいて……ボクらみんな、心配してたんだよ」
「ご、ごめん……」
せめて一言ぐらいは誰かに言ってからにするべきだった。もし今度があったなら、そうすることにしよう。
「まったく、心配かけるんじゃないわよ」
「ほんとに……ほんとによかったです……」
やや張り詰めていた空気が弛緩していく中、少し離れたところで別の会話がはじまった。質問に答えているのは、ギャヴィン試験官だ。
「ところで、あのあと二人でどうしていたんですか?」
「二人で少しずつ撤退していた」
床にどっかりと腰掛けるその姿からは、色濃い疲労を容易に見て取ることができる。けれどこうして見ている限りは無事のようだ。よかった。
「さっきの衝撃は……? この蔵まで揺れましたけど」
「あれは……ジョージの剣を使った魔力撃だ」
その言葉に、蔵がざわめく。
「え、でもジョージって、剣は普通だったはずじゃ……」
「この猫被りが、火事場のクソ力で思いきりぶっ放しやがったんだよ」
そう言うと、ギャヴィン試験官は忌々しげに僕を睨み据えた。
「まったく、試験のときにナメた真似しやがって」
「い、いや。剣で魔力使ったの、あれが初めてで……ぶっつけ本番でしたし、アンナさんにも禁じられてましたから……」
「アンナだぁ?」
なぜ語尾を上げたのだろう。単に知らない人の名前が出たからという理由ではないのか?
「そ、それにほら、実際使ったあと、貧血で倒れてるじゃないですか」
皆が固唾を飲んで推移を見守る中、睨むのをやめたギャヴィン試験官は、頭を押さえながらため息を吐いた。
「まったく……貧血じゃなくて、魔力切れだ。限界の状態で、あのアダマンタイトすら切り裂くだろう魔力撃を放てばそうもなる」
「あ、アダマンタイトを……!?」
「嘘だろ……付与がなくとも優れた硬度を持つはずなのに……」
アダマンタイトだか○ダイウトンだかわからないけど、今そんなことはどうでもいい。
「それより今、一体どうなってるんですか? なんで街を隔てたこっちにまでレッドベアが」
「……すまんが、わからん」
蔵が元の張り詰めた空気へ戻っていく中、ギャヴィン試験官の答えは芳しくないものだった。
「そもそも、この森自体に魔物が出たことそのものが、完全に想定外の事態なんだ。ましてやレッドベアなんて、これまで聞いたこともない」
「し、試験官は、通信魔法を使えるはずだよな。それで街と連絡をーー」
「駄目だった。既に試したが、繋がらん」
言葉を遮られた受験者の瞳から、淡い期待が消えていく。彼がガッカリと項垂れ、次いで蔵の中を、少しずつ絶望が蔓延しはじめる。
「繋がらないって……」
「まさか、街にまで入り込まれてるなんてことも……」
もし仮にそうなら、大変なことだ。どこかに立て籠るにしたところで全員は無理だろう。間違いなく、住民に相当な被害が出るはずだ。
クエストに行ったアンナさんやエマさんたちは、無事だろうか。最初に出会ったとき、二人は依頼主のハワードさんを逃がすため、躊躇なくレッドベアと対峙することを選んでいた。おそらく今も、どこかでそうしていることだろう。とても楽観的にはなれなかった。
「お、お気分は……いかがですか……?」
オリヴィアさんが、不意に僕の顔を覗き込んできた。一瞬動じかけたものの、すぐ何でもなさそうな顔で笑いかける。
「平気平気。少しだけ、ぼーっとするぐらいかな」
本当のことを言うと、あまり良い状態とは言えなかった。元の世界で働いていた頃、ほんの何度かとは言え数時間の仮眠で昼夜急ぎの仕事が続いたことがあったが、そのあとに似ていた。筋肉は炎症を起こし関節や筋も悲鳴を上げ、さっきから嫌な寒気も止まらない。頭も思考がまとまり切らず、何度も同じ疑問や不安がループしている。困ったなあ。このままでは、使い物になれそうもない。
「すいません……私が、至らないせいで……」
「いや、オリヴィアさんが一緒に来てくれたおかげでなんとかなったんだよ。四つ目以降を投げても、怠さがほとんど来なかったんだから」
また悔し泣きしそうなオリヴィアさんに、感謝を伝える。実際、あんなに魔力を込めた投石ができるなんて、この蔵を出たときは思ってもみなかったのだ。他にも索敵や退路の確保、負傷者の治療など、この人の貢献は計り知れない。
「街はまだ城門からの侵入を許してない。それに賭けて、今はこの場を切り抜けることを考えよう」
「どうやって……外にはまだレッドベアがいるんだぜ」
「まずは一つ一つ準備だ。そういえば、薬とか足りてる?」
これにクレアさんが応えてくれた。負けん気の強い彼女らしく、まだ心が折れてはいないようだ。
「ここに私と残していたのなら、もうほとんど空だけど」
「え、エーテルでしたら……こちらを……」
「ん? ああ、ありがとう」
魔力が空なのだとすれば、一応補給しておこう。オリヴィアさんに差し出されたものを、何となく受け取って口を付け、気づく。あれ? これ、半分しか入ってないぞ。
ああ、昼間に渡した分の余りか。疲れてるうえに状況だからか、それともオリヴィアさんがいくら美人でも年下だからか、間接キスだと言うのにあまり感慨がないなあ。
などと、僕は間抜けなことを思いながらもありがたく全て飲み干させてもらった。そのおかげか、多少頭がスッキリした気がする。
「ここに籠って救援を待つにしても、限界がある
わ。水もほとんどないし……」
「水ならあるけど」
「どのくらい?」
理で意志を繋いではいても、やはり憔悴を隠せない彼女は、僕の返答に一転驚きの表情を見せた。
「えっと……少なくとも二百リットルは用意してきた」
「に、二百!?」
「う、うん……正確には、それともう少し……」
試験を受けに行く前、だいたいバスタブ一杯より多いぐらいに汲ませてもらってきたのだ。二百数十リットルほどあって、人間が一日に消費する量が一人あたり二リットルだとすれば、少なくとも一週間は籠城できる。それだけあれば、最悪街が壊滅的な被害を受けていたとしても、他の街からの救援を望めるかも知れない。
大人びた様相を崩し唖然としている彼女へ、フォローのため言葉を続けた。
「あ、あったかいスープもちょっとはあるし、昼の残りもまだ多少はあるからさ、頑張ろうよ。ね?」
「……そ、そうね。実はみんな、喉が渇いているの。水、もらえるかしら」
沈黙を破るアリアさんではあったが、何となく目の焦点が合っていない。他の面々も口を開けたまま一言も発していないけど、大丈夫だろうか……。
「う、うん。みんなで何か飲もう。俺、火と小鍋も持ってるから、ちょっと待ってて」
気まずさから逃れるため、僕は水分の用意をはじめた。みんなだって、何か一杯飲めばいくらかはもとに戻ってくれるだろう。そうなるといいなあ。
最近週二回投稿になってる。なんとかしたい。




