第四十四話 蔵まであと少しのところまで来た
たしかに、ここはおおよそではあるが、さっきオリヴィアさんと森へ戻る際に駆け抜けた場所とそう離れてはいない。
けれど、開けた場所にレッドベアがいたなら、森からの群れと挟まれてしまうし、遮蔽物がないぶん速く動けるとは言え、それは奴らにとっても同じこと。賭けと呼ぶには、あまりに分が悪いと言わざるを得ない。
当てずっぽう。運に味方して貰わなければとても成功しない、杜撰な計画。しかし、次にギャヴィン試験官が呟いた言葉で、僕も覚悟を決めた。
「ここまで来たんだ。なんとしてでも生き延びてやるぞ……ッ」
顔色こそ悪くとも、その目にはまだ、強い生命力が満ちていた。さっき見た仏のような無私とは違い、今相手取っているレッドベアに比肩しうるほど、貪欲に生きることを渇望していた。
けれど、理屈ではなくとも、諦め足を止めてしまうぐらいなら、それでいいのだと思う。
「……はい」
覚悟を決めよう。別に諦めていたわけではないけれど、生きて帰って、アンナさんとエマさんに冒険者試験の合格を報告することだけを考えよう。
「先に行け!」
言われるがまま、蔵があったはずの方向へ一目散に駆け出す。後ろからギャヴィン試験官の、なけなしの魔力を最後の足止めとして使う様子が気迫と音で伝わってきた。
置いていくのではない。僕は辿り着き、そして彼は戻ってくる。そのためにも、ギャヴィン試験官がスムーズに蔵へ入れるよう準備してやらなくてはならない。
体は重く、スピードは出ない。無理にピッチを上げようとすれば、すぐに足が縺れて転んでしまうだろう。今の体の状態でできるうち、もっともマシなフォームで木々の間を抜ける。
背後から、あの衝撃波の音が聞こえなくなった。ギャヴィン試験官も、撤退をはじめたのだ。まだ食われてはいない。
そう自分に言い聞かせながら、僕はなんとか開けたところへ出ることができた。蔵までの距離は、そう離れてはいない。が、やはりと言うべきかーーその間には、レッドベアが待ち構えるよう佇んでいた。
数は、今のところ一頭。嘆いている暇などない。むしろ、一人でここに来るまでの間に遭遇しなかっただけでも、幸運だったのだと感謝するべきだろう。
進むペースをやや落とし、石を握りながら向かってきたレッドベアを待つ。現在、僕の投石の精度はボロボロもいいところ。なるべく引き付けたうえで、なおかつその巨体をかわさなければならない。
思えば不思議なものだ。解体工の下っぱをしていた僕が、気づけばこうして熊の魔物と殺し合いをしているのだから。
レッドベアの、まるでブレーキを踏まない車のような突進。心を落ち着け、奴の胴体をイメージの中で箱状のものに置き換える。
熊に限らず人間以外、それもネコ科の動物は体の使い方が上手い。
足だけで地面を蹴って走るとかジャンプするなんて愚は決して犯さず、胴を安定させる。そしてその体幹の強さと軸の入れ替えによる位置エネルギーの利用により、力むことなくスムーズかつ滑らかな加速や減速を為す。
悪路にも足を取られず、空中でもバランスを失うことはない。それを鍛練も無しに、単なる成長の中で大半を得てしまうのだ。
そういう化け物じみた動きを実現する体幹部。強大な力を下から上へと連結し伝える要の胴を狙い、僕は石を投げつけた。
大まかにそこへ飛んだという実感はあったが、見届けることなく僕は左側へ逸れた。最初から右へ流れることを意識しては、ただでさえ動きの悪くなっている体が開き過ぎ、すっぽ抜けてしまう可能性が上がってしまう。それなら、左のほうが多少はマシというものだ。
駆け抜けた斜め後ろからレッドベアの絶叫が聴こえたが、振り返らず進む。まともに動けず、あとから来たギャヴィン試験官が斬り殺せるレベルの重傷を負ったと願うしかない。もしそうでなかったら、僕は後ろから追ってきた奴に食い殺されるだけだ。
再び蔵へ向かい出したとき、また新たなレッドベアが出てきた。今度は二頭。状況は、刻々と悪化の一途を辿っていく。
そいつらは、我先にと僕へ飛びかかりに来るのではなく、なるべく歩調を合わせ、互いに離れ過ぎないようにしながらこちらへ向かってきた。挟撃をしかけるつもりなのだ。
残念ながら、奴らとの間に遮蔽物はない。回り込むようにして、二頭同時に投石できないかとも思ったが、読まれていたらしくレッドベアはすぐに僕から見て重ならないよう位置を変える。そうこうするうち、奴らとの距離はますます詰まってしまった。
昔読んだマタギの本に、銃の射程を理解しているうえ、山小屋の食糧を駄目にすることで人間を森から撤退させたという、恐ろしく賢い熊の話があった。こいつらはきっと、その類いのレッドベアたちなのだろう。
一頭であれば、なんとか弱らせられるかも知れない。けど、それをした瞬間確実に、奴らはもう片方が無防備な状態の僕へと襲いかかる手順なのだ。そして僕は、それに抗う有効な手段を持ち合わせているとは言えないのであった。
果たして今の僕に、こいつらを殴り殺したりドロップキックであの世逝きにしてやるなんて可能だろうか? それができたとして、その後蔵まで辿り着けるか? ーー不可能だ。正直に言えばお手上げ。独力での打開策など、僕の頭には浮かんでこない。
僕は石を握って牽制するそぶりを見せながら、自らの歩みを止め、なるべく奴らとぶつかる時間を開けることを考えた。焼け石に水だが、しないよりはマシだろう。
もし粘りに粘りきったなら、樊城を守りきった曹仁と満寵のように生還できるかも知れない。そう、自分自身に言い聞かせ、吹いたら消えてしまいそうな希望の火を守る。
とは言え、増える猶予など雀の涙程度のもの。最悪、あとから来るギャヴィン試験官のために、こいつらをなるべく戦えない状態にしたうえで死ななければならないかも知れない。さっき僕を先に逃がしてくれた彼のためなら、仕方がない。
でもそれは、世話になっているあの二人に申し訳ないなあ。とくにエマさんは泣きそうだし、アンナさんだって悲しんでしまうんだろう。なんとなく、オリヴィアさんも引き摺ってしまう気がする。
別に全員、出会って何日も経っていないというのに。自分が死んで誰かが落ち込むかもしれないなんて、変な気持ちである。考えてみれば、元の世界での僕の扱いって、どうなっているのだろう。事故の多い現場だったしなあ。まあ、ドカタというのは「事故った奴は間抜け」と笑う人が半分以上なので、僕もそうなっているのかも知れない。
それでもーーいよいよやってきた時に、体は自然と動いたーー例え生きたまま臓物を食われるはめに陥ろうが、こっちのほうが死ぬ理由としては納得できる。同時に襲いかかってきた、その片方へ意地を込めて投げつけた石は、なんとか奴の胸に当たり、その後ろへ血や肉片とともに抜けていった。これでこいつに関しては、遠からず死に至ることだろう。
けれど、これで終わりだ。もう一頭のレッドベアは、今やられた同胞に構うことなく、予定通り隙だらけとなった僕へ襲いかかってくる。投げつける時間的猶予は、最初からない。
元の世界で重機が迫ってきた瞬間や、こっちで初めてレッドベアに遭遇したとき。そして盗人の男にナイフで刺されかけた際にも感じた、死の予感が僕を包む。
それはまるで、僕の五感全てに向かい囁きかけているかのようだった。さながら慈悲深い死神が、僕へこの世へ別れを告げる時間を与えてくれている。そう錯覚してしまいそうなほど、確実かつ避け得ぬ運命。定め。
少し、悲しい気持ちにならないでもない。せっかくさっき、あれほど全員で生きて帰ると胸に決めていたのに。けど、仕方がない。自分なりに与えられた条件の中精一杯やったつもりだったが、ここまでのようだ。むしろこれだけコンディションが悪い中、レッドベアを二頭も重傷に追いやったのだから、自分で自分を褒めてもいいかも知れない。
振り上げられたレッドベアの、その屈強な腕がスローモーションで僕へ振り下ろされていくーーそのとき、遠くからレッドベアのそれとは違う、けれどこの恐ろしい獣に負けないほどの絶叫が聴こえ、次の瞬間には、目の前のレッドベアが風に煽られたように体勢を崩していた。
「やれぇ!」
力強いその声で現実に引き戻された僕の体は、考えるより早くレッドベアへ投石を繰り出していた。これだけ肉薄しているうえ、衝撃波に耐えるため奴の体は立ち気味の体勢なのだ。精度が悪くたって、嫌でも当たる。腹を貫かれたレッドベアは盛大に悶え苦しみ出したが、それを間一髪避け、僕は後ろを振り返った。
「言っただろ! 諦めるな!」
そう言いながら彼は、僕が倒し損ねたまま放置していたレッドベアへ体ごと剣を突き立て、それへもたれるようにしながらも僕へ檄を飛ばしてくる。ギャヴィン試験官のその生命力が、呆気に取られるばかりだった僕の中へと、再び伝播してくるのが伝わってきた。凄いなあ、冒険者というのは。
次回、石を投げてばかりだった主人公が、いよいよ剣を使います。




