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兵士は水を入れた桶と血を拭くための布を用意し、青年に渡す。青年は少々放心気味ながらも身体を拭き、血を拭う。残念ながら、すべての血を拭い去るというわけにはいかなかったが、大分綺麗になった。
「さて、話を聞かせてもらおうか」
「……あ……はい」
青年は弱々しくだが兵士に対して返事をする。
「まず、お互いに自己紹介をしようか。俺はバーシュ。この街、マリーグンの門の兵士をやっている」
「マリーグン……」
青年には聞き覚えのない街の名前だ。
「ああ、マリーグンだ。まあ、別に有名でもなんでもない街だからな。聞き覚えはないかもしれん」
「…………」
「俺が自己紹介したんだ。お前も、名前くらいは教えてくれてもいいだろう? なんていうんだ?」
兵士、バーシュに名前を問われる青年。言ってもいいのか、何を言えばいいのか、少しの時間逡巡し、口を開く。
「俺は……優樹……伊角優樹です。ここじゃない場所……誰も知らないような場所から来ました」
「ふむ。イスミユウキか。ああ、もしかしてイスミとユウキで分かれるのか?」
「はい。伊角が名字……家名で、優樹が名前です」
「…………ふむ、ユウキと呼ばせてもらうぞ。誰も知らないような場所から来た……とはどういうことなんだ?」
バーシュは優樹の話を聞き、少し考え込むような表情を見せたが、すぐに元に戻し優樹に質問をする。
「……何故か俺がいきなり草原にいて…………わからないけど、草原に倒れてて……その前は自転車に乗っていて……それで……」
「ああ、無理に言わなくていい。もしかしたら記憶が混乱しているのかもな。少し落ち着くまで待とう。水を持ってきやる」
優樹がおかしな様子になってきたのでバーシュは半ばで優樹が話すのを止め、水を取りに行く。ついでに、と優樹の話を聞いている間は他の門番に仕事を頼んだようだ。流石に優樹に掛かりきりとなると門番としての仕事ができなくなる。
水をコップにもってきて優樹の前に置く。
「ほら、飲め。少しは落ち着くだろう」
「はい……ありがとうございます」
優樹は持ってこられたコップを持ち中身を飲む。
「突然草原にいた……というと、魔術による転移か何かか?」
「……多分違うと思います。俺のいたところに魔術なんてものはなかったし」
「……魔術がない、か。そんなところがあるのか。誰も知らないような場所というのも本当かもしれないな」
バーシュは優樹の話を聞いて呟く。その言葉にはそれが本当ならば、という言葉が隠れていたが、優樹の様子から嘘を言っているとはバーシュには思えなかった。嘘を言うにもこんな荒唐無稽な話よりはもっと説得力のある事を言うはずだ。
「草原にいて、そのあとはどうしたんだ?」
「土の道が見えたから……その道を辿って…………そしたら、途中ででかい牛が……牛が……!」
がくがく、と優樹が震え始める。今更ながら、巨大な牛に追いかけられ、死にかけたそんなことを思い出したからだ。恐怖に体が震え始める。
「おい、大丈夫か!? ここは安全だ! 落ち着け!」
震える様子を見せる優樹をバーシュが宥める。しばらくして、優樹がようやく平静を取り戻す。
「……すみません」
「ああ、気にするな」
「……牛に追いかけられて、全力で逃げて……途中でこけて、潰されそうになったんです」
優樹の話を聞き、バーシュが何やら顎に手を当てながら思い出している。
「牛…………多分グラボスだな。あいつらは普通の動物の牛に似てるが肉食性の魔物だからな」
「……そうなんですか」
「ああ、悪い。変な話をしたな。だが潰されそうになった、ってのによく無事だったな」
バーシュはそう言ってから優樹がこの街の門に来た時に血まみれだったこと思い出す。本人にけがはなかったが、まったく無事ではなかった。
「……何かわからないけど、潰されそうになって目を瞑って……いきなり何か破裂するような、破壊するような、変な音がして……そしたら牛の……グラボスの体の半分だけが残ってて、何かぐちゃってなってて、俺は血まみれで……肉が見えて、赤くて、血まみれで、だから逃げて、よくわかんなくて」
「ああ、落ち着け、落ち着け。急いで話そうとしなくていいし、無理に思い出そうとしなくてもいい。ゆっくりでいいんだ」
また混乱するような、恐怖で震えそうな様子を見せる優樹にバーシュは優しく声をかける。まるで子供のようだ、とバーシュは優樹の様子を見て感じた。暫くして、ある程度落ち着いた優樹は続きを話し始める。
「そこから逃げて、そのあとはよくわからず全力で走って……途中で疲れて、歩き始めて、そのあと……ここの門に着いたんです」
「そうか…………」
バーシュは難しそうな顔をして、優樹の話の内容を考えている。嘘だ、と思えば楽だが、優樹の様子は正直その話が本当だとしか思えないくらい真に迫ったものだ。嘘としても、どう考えても本当とは思えないような嘘だ。そんな嘘をつくことにどれだけ意味があるだろうか。
しかし、真実だとしても厄介だ。もしそれが真実であるなら、門番として優樹に対してどう対応するべきだろうか。この国の人間ではないし、魔術を知らない、もしかしたら生活様式や色々なものが違うかもしれない。それに、見る限りで持ち物を持っている様子は見えない。珍しい服を着てはいるが、血まみれで洗って使うならともかく珍しくても売るのは難しい。お金に困ることになるだろう。
「…………お前はこれからどうするつもりだ?」
「………………」
優樹は無言だ。優樹自身も全く考えなかったわけではない。だが、考えたところでどうしようもないのだ。頼るべき相手も、物もない。着の身着のままで生きていくのも大変なはずだ。いっそのこと、あの牛に潰され死んでいたほうが苦しくはなかっただろうと思ったくらいだ。
「…………」
「…………」
無言が続く。お互いにどう話せばいいのか、何を話せばいいのか困っているのだろう。バーシュは少し目を瞑り、考え、優樹に話し始める。
「行く当ても金も何もないんだな?」
「………………はい」
否定しても何にもならない。優樹ができるのは肯定を返す事だけだった。
「……お前にやろうという気があるのなら、一つ働ける場所を紹介してやろう」
「…………」
その言葉に優樹は俯き気味な顔を上げ、バーシュの顔を見る。
「なんでそんなことを……? 別に門番の役目じゃないですよね……?」
「ここで見捨てるのも気分が悪いからな。まあ、別に必要ないならいい。お前の好きにすればいいさ」
バーシュはそう言って優樹に軽く笑って見せた。優樹はその笑顔を見て少し考えたが、優樹に出せる答えは一つだけだった。
「……お願いします」
そう言って優樹はバーシュに頭を下げた。