第一章 絶望の夜と夜明けの誓い
夜空が、赤く燃えていた。
レイン・クロイツは、母の手を握りしめて走っていた。
背後から、家屋が崩れる音が響く。火の粉が風に舞い、見慣れた家々が炎に呑まれていく。
つい先ほどまで、そこには人々の暮らしがあった。
夕食の匂い。子供たちの笑い声。家々の窓から漏れる、暖かな灯り。
それらが今、目の前で消えていく。
「母さん.....っ、みんなどうなっちゃったの.....?」
「レイン、振り返らないで!走って!」
母の声は震えていた。
女手一つで育ててくれている母。
どんなときでも優しく笑ってくれる人だった。
転んで膝を擦りむいたときも、悪夢にうなされて目を覚ましたときも、母は抱きしめてくれた。
けれど、どうしても振り返らずにはいられなかった。
村の広場に、黒い影が立っていた。
人間よりも大きな身体。歪んだ腕。頭部から伸びる灰色の角。そして、暗闇の中で赤く輝く二つの眼。
魔物だった。
その足元には、倒れた人々が横たわっている。
レインは息を止めた。
(あれは本当に生き物なのだろうか。
どうしてあんなものがこの世界に存在するのだろうか)
「レインお願いだから前を見て!逃げるしかないの.....!」
母が強く手を引いた。
その瞬間、魔物がこちらを向いた。
赤い眼と、目が合った。
身体の奥から、寒気がせり上がってきた。
(逃げなければ)
頭では分かっているが、足が動かなくなった。
魔物が地面を蹴る。
速い。
大人たちが叫ぶ声も、剣を振るう音も、何もかもが遠くなっていく。
母は振り返り、こちらに迫ってくる魔物を見た。
「レイン!」
〈ドン!〉
母が突き飛ばした。
地面に倒れ、顔を上げたとき、母は魔物の前に立っていた。
「.....母さん?」
母はこちらを振り返った。泣きながらもその口元は微笑んでおり、小さな声で言った。
「ごめんね」
ひざまずいたまま呆然と見ることしかできなかった。
母が魔物に襲われる瞬間を。
「母さーーーんッ!」
叫び声が喉を裂いた。涙が溢れた。
(逃げなければ。
悲しんでいる時間なんてない。僕まで殺されてしまう)
けれど、身体は言うことを聞かなかった。
膝が震える。
指先が冷たくなる。
過呼吸になる。
魔物がこちらを見た。歩いて近づいてくる。
そのとき、一人の男が魔物へ斬りかかった。
「うぉーーーーりゃーーーーーー!」
村を守っていた護衛の剣士だ。魔物に傷をつけた。魔物は標的を剣士に変え、腕を振り上げ剣士を襲う。
剣士は額の前で魔物の攻撃を剣で抑える。
「坊主! 立て!」
過呼吸のまま、剣士を見つめた。
剣が弾き飛ばされ、地面を滑る。
レインの目の前で止まる。
「拾え!俺の方に投げてくれ!頼む!」
柄に手を伸ばせば、届く距離だった。
(拾って剣士に渡さなければ、剣士も僕も殺されてしまう)
手を伸ばした。
指先が震えた。
剣の柄に触れた。
その瞬間、魔物が咆哮した。
「ウォォォォォォーーーーーーーーー!!!」
凄まじく響き渡るその声に、手を引っ込めた。
拾えなかった。
そして、逃げた。
剣士の叫び声を背中に聞きながら、暗い路地へと駆け込んだ。
何度も転んで、振り返りそうになった。
それでも、走り続けた。
涙が止まらなかった。
空が白み始めた頃。
ふらつく足で村へ戻った。
魔物の姿はもうない。
燃え尽きた家々からは煙が上がり、かつて道だった場所には瓦礫が散乱している。
母と暮らしていた家の跡へ向かった。
壁は崩れ、屋根は焼け落ちていた。
(何かが残っているかもしれない)
そう思った。
何かひとつでも、母がここにいた証が。
崩れた木材を一本ずつ退かした。
焼けた布。
割れた食器。
黒く焦げた木箱。
そして、瓦礫の隙間に、小さな金属の光が見えた。
「あ.....」
膝をついた。
それは、小さなナイフだった。
母が台所で使っていた、ありふれたナイフ。
刃は煤で黒ずみ、柄にも焼け跡がついていた。
両手でそっと拾い上げた。
母が料理をしていた姿が、脳裏によみがえる。
野菜を刻む音。
食卓に並ぶ温かな料理。
そして、食事のたびに向けられた、あの優しい笑顔。
母の形見を胸元に抱いた。
「.....母さん」
小さな声だった。顔をうつむけ、こらえていた涙が頰を伝った。
(俺.....何もできなかった.....怖くてどうしたらいいのかわからなくて.....)
涙が溢れ出した。
10歳の彼には、あまりにも大きな恐怖だった。
小さなナイフを握りしめた。
涙で滲む視界の向こうに、朝日が昇り始めていた。
涙を拭う。
「.....俺は強くなる!」
声が震えた。ナイフを握る力が強くなる。
「誰にも負けないくらい強くなってやる!」
誰に届くわけでもない。
失った母にも、見捨ててしまった剣士にも。
それでも誓わずにはいられなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
朝日が、焼け跡を照らし始めた。
その光の中にひとりの少年が立っている。
手には、小さなナイフ。
その刃は、何も語らない。
ただ静かに、朝の光を映していた。
少年は歩き出した。
失ったものを胸に抱きながら。
小さな刃とともに。
――第1章 了。




