3. 迷子コウモリと建国間もない帝国I
権力の影の下では、富はとかく“原罪”の副産物になる。世の顕貴の金銀の多くは、人には言えない灰色の闇と汚濁に染まりきっている。富の裏側にあるのは、ただ――暴かれたか、まだ見つかっていないか、その違いにすぎない。
しかし、至善を崇めるこの世界で、貴族の称号は財貨の山と同義ではない。彼らは魂の潔白を頑なに守り、権力を私欲に両替することを拒む。ましてや搾取と圧榨で体裁を飾り立てるなど、願い下げだった。
国の隅々まで鏡のように清廉で、国境も波風立たず、平和が二百年も続いたせいで、多くの貴族には封邑としての領地すらない。この極端なまでの平穏と純粋の中で、彼らの尊さは広大な版図ではなく、清貧を貫くその風骨にこそ宿っていた。
王国首都「ナカリムブ」の、ひどく目立たない薄暗い路地裏。煉瓦の壁は骨の髄まで沁みるような冷たさを滲ませていた。性質としては、暴力と悲劇を呼び寄せる磁石みたいなもので――物語の事件を始めるのに都合が良すぎる、作者のための万能鍵だ。
夕焼けみたいに暖かな橙色の髪の女がフードを深く落とし、埃をかぶったような瞳を半分だけ開けたまま、気だるそうに壁にもたれている。魂はもう、先の見えない昏い未来へと散ってしまったかのようで、そこに残っているのは空っぽの器だけだった。
――そこへ、視界をかすめた茶色の髪が、ひとすじ風を連れていく。湿った空気を突き抜けて届いた香りが、ずっと埋めてきたはずの、壊れた記憶を呼び起こした。
橙髪の女の瞳孔が、きゅっと縮む。香りは見えない鎖になって喉元をきつく締め上げ、あの曲がり角へと彼女を引きずった。気づけば足が勝手に動いていた。夢遊病者みたいに虚ろな顔のまま、歩みだけがせわしなく、それでも足音は幽霊みたいに消えている。茶髪の女が異変に気づく前に、彼女は影のように相手の首筋へ迫っていた。
跳ねる脈を見つめた瞬間、目の奥に濃い懐旧と哀しみが渦を巻く。唇の端で、二本の獠牙が闇の中、そっと偽りを突き破った。彼女は懇願にも似た、砕けた声で、その雪のように白い肌へと囁く。
「梅雅莉……」
次の瞬間、彼女はその温もりへと顔を埋め、口づけを――
——路地裏ってほどでもないが、人目のないこの隅は、罪を隠すには十分だった。
「頼むよ、あと二日だけ大目に見てくれ! 金はそのとき必ず返すから!」
ドレッドの大男が、小柄な中年男の襟首を片手でつまみ上げている。鷲が壊れかけの布人形を持ち上げるみたいに。おっさんの口元を這う暗い赤と、顔に散った青紫の痣が、たった今の暴行を無言で糾弾していた。
ナカリムブ、ひいては世界が二世紀にわたって享受してきた平和の歴史の中で、殴り合いなんてものは野蛮な過去の遺物とされてきた。ところが誰も予想しなかったことに、今年になってその光景が疫病みたいに蘇り、いつしか恐ろしさの皮を脱ぎ捨てて、平凡でありふれた日常へと落ちていった。
「ふざけんなよ?! 今日中に完済するって約束だっただろ! それじゃこっちが困るんだよ……今日、あんたの返済分を持って帰れなかったら、今夜は飯抜きだし、来週の『粉』だって回してもらえなくなるんだよ!」
声を潜めたつもりでも、野太い怒鳴りは腹の底で鈍雷みたいに転がり、おっさんの不義理を責め立てる。この咆哮を知る者はおらず、遠くの大通りを馬車がひっそり通り過ぎるだけだった。
大男は五指を鉄の拳に握り込み、干からびたポケットから存在しない金を搾り出そうと、いちばん原始的な暴力を振るおうとする。
——そのとき。
規則正しく流れていた環境音が、ぷつりと途切れた。ドレッド男の動きが、そこで強引に止まる。
遠くの車輪の轟きが死んだような静けさに沈み、代わりに、鈍い扉の開く音がした。男がはっと振り向く。二人分の靴音が、遠くから近くへと刻まれ、やがて視界へぶつかってきた。
先頭の青年は二十歳前後。白と黒の貴族礼装をまとい、漆黒の長い編み込みを背へ垂らしている。溶けた金みたいな双眸が、冷たく男を見据えていた。その隣にいるのは、かつては薄汚れて無精ひげだらけだったおっさんだ——今は見違えるほど小綺麗で、剃り上げた頭が光を受けてやけに目立つ。右目の黒い眼帯だけが、その切れ味に一抹の殺気を足していた。
水を差された取り立て役の腹に火がつく。
「何見てんだ、あぁ?!」
青年は手を背に回したまま、視線を大男へ据え続ける。宙づりで震えている債務者など、彼の目には痛くも痒くもない背景でしかなかった。
「その力加減——少々、度が過ぎるのではないかな?」
大男の胸に、妙な新鮮さが跳ねた。いや、新鮮というより、ぞわりとした違和感と言ったほうが正しい。
暴力――それは自然界にさも当然のように紛れ込んでいる「誤り」であり、邪悪にして忌むべき所業だ。殴る側の人間ですら、そのことは重々承知している。にもかかわらず、目の前の青年は暴行を目にしてなお、料理の塩加減でも品評するみたいな口ぶりで、ただその「程度」が適切かどうかだけを気にしていた。
言葉の裏の理屈を掴もうとするより早く、男の短気な理性がぷつんと切れ、いつも通りの下品な脅しが口をついた。
「余計な首突っ込むな。失せろ!」
脅しを浴びても、絢爛な衣装の青年はむしろ口元を釣り上げ、眼差しはやわらかく、ほとんど慈愛めいていた。
「君の目的は取り立てだろう? 少し考えてごらん。借り手を殺してしまえば、その金は泡になって消える。」
「てめえが言うまでもねえ! このクズが金を吐かねえから、俺が力ずくで『教えてやってんだ』ろうが!」
教師みたいな説教は、焼けた炭みたいに男の神経の末端へ落ち、じゅう、と理性を焦がした。
大男が狂乱へ沈むのを見て、青年は困ったように目を細め、鼻から小さく息を落とすと、隣へ命じた。
「エリック、彼を取り押さえなさい。」
「かしこまり……え? 俺? 俺が行くの?!」
エリックと呼ばれた従者が目を丸くする。
「アナン様、俺、ほんと戦闘力なんて……」
「だからこそ、鍛錬が必要なのだよ。」
「……」
主人の有無を言わせぬ無茶ぶりに、禿頭の従者は観念して一歩踏み出した。大男は手の中の債務者を乱暴に放り捨て、ゆっくり近づく挑戦者へ視線を据える。
借金持ちの中年男は、転げるようにその場から逃げ出した。
エリックが前へ出て、相手の目前で足を止める。侵略的な視線と向き合うため、彼は少しだけ顎を上げねばならなかった。
眼帯のエリックは決して低身長ではない。むしろ大柄だ。だがドレッド男の前では、それでも頭一つ分足りない。優位点を探そうと何度も目で測るが、返ってくるのは、こめかみを伝う冷汗一滴だけだった。
エリックは唾を飲み込み、筋肉を張り詰めさせ、戦う構えを作ろうとする。
もしこれが正式な格闘試合なら、両者が構えを整えてからゴングが鳴るはずだ。だが残念、ここはリングじゃない。エリックが身構えるより先に、相手の拳が飛び、乾いた音で頬へ「挨拶」した。
先手を奪われた従者は、そのまま徹底的な受け身へ叩き落とされる。
狭い空間で二人は拳をぶつけ合い、狂ったように殴り合った。交換比率はおよそ四対一——相手が四発叩き込んで、ようやくエリックが一本返せる程度。その骨に届く痛みが、駆け引きの惨烈な記録として積み上がっていく。
エリックがじりじりと押し込まれ、敗色が濃くなっていくのを見て、アナンと名乗る青年は涼しい顔のまま上着のポケットから金貨を一枚取り出した。そこへ魔力を注ぎ込むと、すぐさま手首をくるりと返し、指先をふっと緩めて――優勢に立つ薄汚れたドレッドの男へと投げ放った。
金貨は空を裂き、常識外れの速度と安定性で、狙いを外さず飛んだ。
空中を走る黄金の一閃が、大男の顔面へ重く叩き込まれる。衝撃で身体がのけぞり、さっきまでの密な連打は一瞬で崩れ去った。
主人の、卑怯と言っていい横槍が、従者に極上の隙をくれる。エリックはその刹那の好機を死ぬほど掴み、身をひねって腰を回し、全身の力を拳の節へ集めると、相手の顔面めがけて渾身の一撃を叩き込んだ。
急所を貫く一発に意識が吹き飛び、大男の脳は身体への命令を失う。巨躯がそのまま床へ倒れた。
エリックは荒い息を吐きながら、呼吸が整うのも待てず主人へ問う。
「はぁ……はぁ……アナン様……こいつを……はぁ……どうします?」
「まず縛っておきなさい。それからファーストに連絡し、こちらへ呼べ——」
言葉が途中で断ち切られた。アナンが視線を従者から外し、別の場所へ向ける。
街角から影の奥へ。闇がさらに濃くなり、人の輪郭を形作っていく。壁と床に溶け込むようにしてその影は無音で近づき、微かな光の下で正体をさらした。
主は小柄で、漆黒の瞳が陰りの中でいっそう深い。木彫りみたいに硬く、生気のない表情のまま、貴族青年へ声をかける。
「アナンケオン様。」
声の主は片手を胸の前へ添え、わずかに頭を下げた。低い声に幼さが混じっていて、少年らしい。
アナンケオンは振り向き、優雅な微笑みで影へ応じる。
「呼ぼうと思っていたところだ、ファースト。自ら姿を見せたということは、先日頼んだ調査にも、いよいよ目処が立ったのだろう?」
「はい。」
ファーストと呼ばれた少年は外套の裏へ手を差し入れ、布の擦れる小さな音とともに、きっちり折り畳まれた紙片を取り出した。
「剣聖の情報は、すべてこちらに。」
少年が掌を開くと、その真上に、呼吸するように明滅する微光が咲いた。光の中から一羽のカラスが虚空より凝り固まり、漆黒の鳥が紙片をくわえて翼を打つ。狭い路地に影を落としながら、アナンケオンのもとへ飛んだ。
——使い魔。
アナンケオンは眉一つ動かさず、自然に左腕を上げて止まり木にする。まるでこの手の受け渡しに慣れ切っているみたいに。
カラスの嘴から紙片を受け取った次の瞬間、鳥はきらりとした粒子へほどけ、空気の中へ跡形もなく散った。最初から存在しなかったかのように。
親指と人差し指を折り目へ差し入れ、秘め事を読み解こうとしたそのとき、息を整えたエリックが声を挟んだ。
「アナン様、そろそろお戻りを。アイロンド・イーグルアイ検死官が来訪なさる時刻です。」
その一言で、アナンケオンの動きが一瞬止まり、読みたい衝動を引っ込めた。
「確かに。こちらの大切な『素材』……いや、大事なお客様をお待たせするわけにはいかない。」
青年は静止から動きへ戻り、紙片を黙ってポケットへ収める。
「ではファースト、この男のことは任せる。」
「不行き届きにより、アナンケオン様みずからお手を煩わせることとなりました。まことに申し訳ございません。後ほど、相応の処罰を下します。」
「度は越さないように。彼は得難い人材だ。」
青年の口調は軽いのに、背筋が冷えるほどの寒さを孕んでいた。
「依存で精神を蝕まれてはいても、良心を抱えたままあれほどの重い手を下せる者は、そう多くない。」
「……御意。」——
王城ナカリムブの入り組んだ石畳の路地、そのさらに奥深く。外見はつつましいのに、内側には底知れぬ重みを秘めた一つの邸宅が、ひっそりと身を隠していた。――アイトレヤ伯爵の府邸。都市の影に伏し、爪も牙も収めた古い巨獣のように、ただ静かに息を潜めている。
貴賓会見室の扉が、ゆっくりと開いた。金碧輝煌の飾りはない。代わりに目に入るのは、落ち着いた濃色のウォールナットの羽目板だ。空気には、かすかな煙草と沈香の香りが漂っていた。
主座に腰を据えているのは、王国にその名を轟かせる銀髪の検死官――アイロンド・イーグルアイ。冷酷で鳴る法執行官も、今は程よく擦れた羊革張りの肘掛け椅子に身を預けている。金縁の深黒の鎧は、書斎めいたこの部屋の空気とどこか噛み合わない。
彼は待っていた。慎ましげに見えて、王都の政局を一筋で揺さぶる伯爵が席に着く、その瞬間を。
「お待たせいたしました、アイロンド閣下。あらかじめ本日のご来訪を承っておきながら、なお事情にて遅参いたしましたこと……まことに汗顔の至りに存じます」
眉目の涼しい、後ろ髪を一本の編み込みに垂らした青年が、検死官の向かいにゆるやかに腰を下ろす。声には、過不足のない謙遜と詫びが滲んでいた。
「構わん。この程度、遅れたうちに入らん」
アイロンドは冷えた表情のまま、鐘のように端然と座る。
「社交辞令はいい。要件に入ろう」
「それでは閣下、本日わざわざご足労いただきましたのは、いかなるご用向きでございましょう。私にてお力になれることがございましたら、どうぞお申し付けくださいませ」
アイロンドはすぐには答えず、ずしりと重い厚手のクラフト紙の書類袋を押しやった。青年が受け取り、指先で封を解こうとした、その刹那――。
狭い室内に、氷の棘みたいに鋭い声が不意に響いた。
「アイトレヤ伯爵……『吸血鬼』という言葉を、聞いたことはあるか?」
読んでくださって、そしてブクマまで本当にありがとうございます!
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批評でも反応があるだけ無反応よりずっといいので……少なくとも、そこまで寂しくならずに済みます。しくしく。




