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優しい世界に悪の種を蒔く  作者: 混沌魔獸
開幕

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1. 「倒影」は、まだ自分の本当の執着に気づいていない

この世界そのものが、壮大な確率ゲームだ。善人と悪人の比率は、あたたかな陽だまりの下では体裁よく釣り合っているのかもしれない。だが、神に忘れ去られた辺境では、その天秤はとうに崩れ落ちている。貧しさが日常になり、秩序がただの飾りに成り下がったとき、「悪」と呼ばれるものは、生き延びるために人間が身にまとった硬い殻にすぎない。


大半の人は流れに流される。自由意志があると胸を張っても、実際は凡庸な隊列の中で、機械みたいに一歩ずつ踏み出しているだけだ。ほんのわずかな魂だけがその列を飛び出し、世界の歯車を回す。残りの僕らにできるのは、祈ることだけ。

何を? 悪を選ばなくても生きていける場所に、生まれ落ちることを。


もし君が一生後ろ暗いこともなく、病も災いもなく過ごせたのなら、驕るのは早い。それは君が十分に優れていたからじゃない。ただ、運がよかっただけかもしれないのだから。

「ゴホ……ゴホ……」


 ひとりの女が血を吐いた――瓦礫の中から突き出た鉄筋が、片肺を貫いている。

 見ただけで心が折れる光景だ。誰だって、瞬き一つの間に希望を失う。

 彼女の命はまるで砂時計の底に残った最後の数粒の砂みたいで、どれだけもがいても、結局はさらさらと滑り落ちていく。


 あたり一面、粉じんが舞っている。人通りが少ないからじゃない。さっき崩れたせいだ。

「事故」現場にいた人間はとっくに散り散りに逃げて、残ったのは女と子どもだけ――不運にも、そこに取り残されたのがこの二人だった。

 もっとも、不運といっても「巻き込まれた」から不運なわけじゃない。この国じゃ「事故」なんて朝霧みたいに、どこにでもある。

 彼らはこれから、いちばん大切なものを失う。女は命を、子どもは母親を。


「う……ママ、お願い、ひとりにしないで……」


 少年は母のそばに身を伏せ、泣き叫んだ。

 死にかけの母は手を伸ばし、そっと彼の頬を撫でる。震えを抑える力すら残っていなくて、

 その触れ方は記憶の中の落ち着いたぬくもりとはもう違った。冷たく、よそよそしく、肌が粟立つ。


「ごめ……んね、趙幸( ジャオ・シン)……ママ、もう……一緒に……いられ……ない……」


 瞳には申し訳なさが満ちていた。

 言葉は途切れ途切れで、電波の悪い無線みたいだ。ひと文字吐き出すたびに痛みを噛みしめている。

 本当はまだ、言いたいことが山ほどある。けれど時間が許さない。


「……お願い……憎ま……ないで……ふつうの……人たちを……あの人たち……は……ただ……暮らしに……心を……閉じ込め……られてる……だけ……。

 ……優しさ……は……弱さ……じゃない……弱いのは……ママ……だけ……。

 ……約束……して……絶対に……流され……ないで……考え……続けて……。

 ……少数派に……なるのを……怖がらないで……あなた……だけの……理想……を……貫いて……」


 血のにおいのする口の中から、思いを言葉に押し縮めて、ひとつひとつ吐き出していく。

 遺言は、彼女の最後の力を使い切った。次の瞬間、体は糸を切られた人形みたいに、ぷつりと動きを止めた。


 趙幸は、母がその一瞬で「人」から「物」へ変わるのを、この目で見た。

 悲しみの濁流はたちまち、恐怖という感情に上書きされ、涙もまた、堰を閉められたみたいに止まった。

 昂ぶりが引いて、冷えが全身を駆け抜ける。さっきまで熱を帯びていた体が、瞬く間に信じられないほど冷たくなる――あまりに早くて、錯覚じゃないかと疑うほどだ。

 視界には冷たい色のフィルターがかかったみたいで、世界はそこから、もともとわずかしか残っていなかった温度すら失っていった。


 母の遺言は、彼の脳髄のいちばん深いところで反響し続ける。いまはまだ意味がわからなくても、それでもそこに居座り続ける。

 運がよければ、その残響はいずれ時間に洗い流されて薄れていく。

 運が悪ければ、愛の言いつけはねじ曲がり、「呪い」へと姿を変えて、魂の最奥へ刻み込まれる――







 部屋の空気は薄味で、ほとんど透明だった。家具は読点みたいに、節度を守って静けさを改行している。

 壁は思い出が入り込む隙もないほど真っさらで、光でさえ用心深く、長居をしようとしない。

 白い壁と木の椅子は向かい合って無言のまま、互いに「そこにある」という職務だけを果たしていた。

 冷えた静寂の部屋で、頭に冷や汗をびっしょり浮かべた男が、ベッドの上で目を覚ました。


 男はきっちり八時間眠ったはずなのに、顔つきは相変わらず疲れ切っている。


「また、あの悪夢か……」


 夢魔に突き落とされるみたいに夢の崖から落ちた男は、もう一度まぶたを閉じた。あの最悪の睡眠を埋め合わせたい、とでも言うように。

 けれど理性が告げる――このままじゃ、出勤に遅れる。

 理性と欲望に引っ張り合われた末、彼が選んだ折衷案はこうだった。

 目を閉じたまま気を落ち着けつつ、上体を起こして洗面所へ手を伸ばす。


 自分の住まいへの慣れは、怖いほどだった。目を閉じていても、正確に辿り着ける。

 身支度を終えると、鏡の前で最後のチェック。黒い短髪に黒い瞳、取り立てて特徴のない顔。失礼にならない程度を確認し、青いシャツに袖を通す。

 そして彼は、会社という名の「監獄」へ向かった――







 キーボードの雨があちこちから降ってきて、未読通知の赤い点に叩きつけられ、細かな光を散らす。

 コピー機がひとつ咳をして、白いうろこみたいな紙を吐き出す。カーペットは足音を深く飲み込み、何か秘密でも堪えているみたいだった。

 その領地の奥で、覇者が奴隷に向かって怒鳴り散らしている。


「おい、趙幸! 周林(チョウ・リン)が体調崩した。あいつの分のレポート、お前が引き継げ。今日の五時までに仕上げろ!」


「すみません、課長。午後は休みをいただいてます。そのレポートは明日の朝一で提出します。」


「はぁ?! ふざけてんのか! 会社が今どれだけ忙しいと思ってる! お前、もうすぐ昇進なんだぞ。手本にならなきゃダメだろ!」


 上の立場の男は声高に糾弾したが、そもそも休みを承認したのが自分だということをすっかり忘れている。

 趙幸がその理不尽な叱責に返そうとした、そのとき――かすかに、鼻で笑うような「チッ」という音が耳に引っかかった。


 不満の音を漏らしたのは、茶髪の若い男――小瑜( シャオ・ユイ)。趙幸と同期の同僚だ。

 本来なら自分に回るはずだった昇進の機会を同僚に取られ、思わず嘲りがこぼれたのだろう。

 次の瞬間、小瑜は感情を隠すみたいに、狂ったようにキーボードを叩き始めた。


 今回の昇進は、趙幸が勝ち取った成果というわけでもない。上司が辞め、他にもっと年次の上の社員もいなかった――ただそれだけ。

 ではなぜ小瑜ではなく趙幸だったのか。純粋に、コイントスの結果だ。

 実際、二人の仕事ぶりに大差はない。誰がその席に座ろうと、会社はどうでもいいのだ。


 小瑜の不満に気づいても、趙幸の心には波紋ひとつ立たなかった。

 彼は気にしない。


「申し訳ありません、課長。午後は裁判がありまして、どうしても外せません。」


 休みを取る男は卑屈にもならず、かといって挑発もせず、微笑みで奴隷主に答えた。

 趙幸の冷静で毅然とした表情を見て、課長のアドレナリンはさらに跳ね上がる。額に青筋を浮かべても、物理的に社員の退勤を止めるわけにはいかない。

 結局、彼は目を見開いたまま、趙幸が荷物をまとめ、騒然としたオフィスを後にするのを見送るしかなかった――







 通りの手前で信号待ちをしていた趙幸は、昨夜の寝不足がたたって、ふっと舟を漕いでしまった。

 ほんの一瞬の油断で、そのまま夢の中に落ちかける――いや、「夢」と呼ぶには、あまりにも現実味がありすぎた。


 それはむしろ、事実を寸分違わず焼き直したドキュメンタリー――フラッシュバック。


 ――二十年前のことだ。

 あの頃の彼はまだ幼かったが、この国の醜さを見抜くには十分だった。


 昼のピーク。小さな食堂は人でぎゅうぎゅう、油煙が低く垂れこめている。母は頼まれて急きょ穴埋めに入ったばかりで、エプロンを結ぶ間もなく、スープを運び、テーブルを拭き、動き回っていた。

 母は善良で、誰かの頼みを断れない。いつだって相手の事情を汲んでしまう。

 そのせいで、都合よく使われることも少なくなかった。


 非常階段の出入口を塞いでいた飲料の箱を、ついでみたいに壁際へ寄せる。口元には笑みを浮かべたまま、視線は天井へ――雨季のせいで長く伸びた亀裂を追っていた。

 あの落ち着かない筋を見ていると、どうしても胸がざわつく。母が店主に伝えると、店主は胸を叩いて言い切った。


「技師が言ってた。大丈夫だって」


 店主は、入口の支え柱が客の出入りの邪魔だと言い、少しどけろと母に指示した。母は一瞬ためらい、それでも半歩、譲った。


 塩みたいな白い粉が、さらさらと舞い落ちる。ざわめく客の群れの中で、母は「先に外へ」と声をかけた。片手では熱いスープ椀を庇い、子どもに跳ねないよう気を配りながら。


 梁が沈む鈍い音は、ひと言の語尾みたいに短かった。

 嫌な予感は当たった。店はもう形を保てず、崩れ落ち始める。母は息子を力いっぱい外へ突き飛ばし、自分は壁と、その奥の鉄筋に命を奪われた。


 店主は現金箱を抱えたまま転げるように外へ出て、最初に口をついたのは、最後まで商売の話だった。


「……俺の店が、なくなった」


 箱を抱いて泣き崩れた。けれど、その涙の一滴たりとも、母のためではなかった。


 建ってからまだ十数年の店は、あっという間に瓦礫の山になった。

 それでも誰も責任を取らず、「事故」で雑に片づけられる。

 これがこの国の日常――朝の鶏の声であり、夏の蝉しぐれであり、どこにでもある、ごくありふれた景色。

 そして母は、ゴミ捨て場に咲いた一輪の花みたいに、この国の空気にどうしても馴染めなかった。


 きっと、母の信念が関係しているのだろう。

 その信念は、趙幸へと託された。

 だが今の継承者は、まだそれを完全には理解できず、ただひたすら先人の真似を繰り返すしかない――







 青信号のメロディが鳴り、趙幸は回想から現実へ引き戻されると、そのまま裁判所へ向かって歩き続けた。


 横断歩道を渡り、人通りの少ない細い路地を抜ける。

 路地の奥では、いかにも「取引中」といった胡散臭い男が二人、声を潜めて話していた。


「10歳、45万円。8歳、60万円。病気持ちは10万引きだ」


 人身売買だ。


 自分の鋭い聴覚が拾ってしまった中身に、趙幸は思わず立ち止まりかけた。

 衝撃だったのは内容そのものというより、こんな場所で平然と口にしている、その図々しさだった。

 この国で子どもの売買が珍しくないどころか、公然の秘密みたいになっているのは知っている。だが、ここまで臆面もなくやるとは思わなかった。


 毎年いったいどれだけの子ども売買が起きているのか、国民は知らない。

 ニュースはこういう事件をほとんど扱わないし、ネット上の情報や議論も、「不要な混乱を避ける」という名目で拡散を抑えられている。


 冷静というより冷酷に近い調子で現実を分析してみれば、趙幸にはわかっていた――自分には、家禽みたいに値札を付けられた子どもたちを救えない。

 警察に通報する。それがいちばん穏当で、模範解答で、子どもの頃からそう教わってきた。

 けれど現実は残酷だ。通報したところで十中八九、何も解決しない。むしろ面倒ごとを背負い込むだけになりかねない。


 無力な会社員は、ただ黙って路地を通り過ぎる。

 自分が犯罪現場に気づいたことを、必死に顔に出さないようにしながら。


 ――そのときだった。


 さっきまで取引の話をしていた男の背中が、軽くこつんとぶつかられ、身体がわずかにずれる。

 その隙間から、女がするりと押し出されるように出てきた。


「すみません……」


 女は淡い調子で一言だけ落とし、足を止めない。

 次の瞬間、男が彼女の手首を掴み、無理やり引き戻した。


「逃げる気か? 俺をバカだと思ってんのか?!」


 女はわけがわからないという顔で男を見上げる。男はポケットをまさぐり、何か減っていないか確かめはじめた。

 身体の隅から隅まで当たり、まるで小さな事件を検証するみたいに、糸くずにまで事情聴取をかける勢いだ。

 だが結局、証拠は何も出ない。持ち物は全部、服の中で無事に鎮座していた。


 それでも男は安心しなかった。ただ、尋問の仕方を変えただけだ。


「言え! 結局なに盗った?!」


「盗ってません……」


 欲しい答えが出ないと見るや、男は女が「本当のこと」を吐くまで殴るつもりになったらしい。

 がっしりした拳を振り上げ、女めがけて振り下ろす。


 鈍い音。

 拳がぶつかったのは、しなやかに受け止める面――ビジネスバッグだった。


 青いシャツのサラリマンが、両手で手荷物を掲げ、拳の進路を塞いでいた。

 突然の防御に、暴力男は女の手を離し、意識をもう一人へ向ける。


「チッ、仲間かよ」


「いえ、仲間じゃありません。ただの善意で首を突っ込んだ通りすがりです」


 趙幸は冷や汗をかきながら、苦笑した。


 解放された女は、恐怖と本性のままに動いた。

 振り返るや、助けてくれた男を襲撃者のほうへ突き飛ばす。

 生存本能が一時的にリミッターを外したのか、趙幸は押されてよろめき、男の身体にぶつかった。


 続けて女は、エコバッグに入れていた小粒のプラムを、ゴミを捨てるみたいに手際よく床へぶちまけた。

 通路が埋まるほどの量が、びっしりと転がり、即席の険しい地形が出来上がる。


 障害物を置くと、女は全速力で路地の外へ逃げていった。

 恩人と悪人だけを置き去りにして。


 趙幸は逃げる背中を見送り、それから、いまにもこちらに暴力を振るってきそうな男へ視線を戻した。

 胸の中に波は立たない。ただ、どうしようもなく笑えてくる。

 何度も何度も見せられてきた、古臭い芝居を眺めているみたいだった。

 そして自分は、筋書きがどれだけ擦り切れていても、なぜか最後まで飽きずに見てしまう観客で――


 彼は微笑んだ。現実を丸ごと受け入れたみたいに、不満の影すら見せずに――







 長椅子が人々を一列に並べ、静かな読点のようにそこに置く。文はまだ始まっていないのに、呼吸だけが先に文法を持っていた。

 壁のスクリーンはときおり表示を切り替え、いくつかの番号をぐいと前へ押し出す――まるで潮が引いて、石の裏側をころりと見せるみたいに。

 遠くで「チン」と一声。エレベーターが、見知らぬヒールの音を連ねて吐き出した。――黒い短髪、黒い瞳。平凡な顔立ちの青年が、その中から歩み出る。


 彼は目を上げ、表札の黒文字を見る。『民事第九法廷 待合室』。

 間違った場所じゃないと確かめてから、彼は中へ入り、誰かを探した。


「すみません、お待たせしました。さっき途中でちょっと厄介ごとに巻き込まれて」


「遅いですよ、趙さん! いま何時だと思って――もうすぐ開……その顔の痣、どうしたんですか?」


 遅刻を詫びる青年に返ってきたのは、彼の訴訟を担当する弁護士の声だった。


 拡声器が鳴り、開廷のアナウンスが流れた瞬間、関係者たちの神経が一斉に張り詰める。


「時間がない。入りましょう」

「はい。よろしくお願いします」


 弁護士は身なりを整え、手を上げて眼鏡を直すと、趙幸を連れて法廷の中へ足を踏み入れた――。







 ここは――正義というものに、限りなく近いものを探しに来る場所。

 限られた情報の中で、互いを擦り合わせ、ぶつけ合い、その摩擦熱で真実を蒸留していく。

 厳粛――人によっては、神聖にさえ近い。

 本来なら、そうあるべきで――


 天井からまっすぐ落ちる照明が、木製の裁判台を白く照らし、かえってその色を深く沈ませていた。

 裁判官は中央に座し、目の前には訴訟記録が整然と揃えられ、透明な水のコップが静かに立っている。

 検察官と弁護人は両端に分かれ、マイクの赤い点だけが淡々と点っていた。

 書記官の指先はキーボードを追い、打鍵のリズムが空調音よりもはっきり耳に残る。


 被告席では、趙幸が背筋を伸ばして立っていた。袖口のほつれ糸が、わずかに跳ねている。

 原告席には老婦人が端然と座り、顔には期待が貼りついていた。

 木槌が軽く一度落ち、法廷調査が始まる――


 証拠番号が順に読み上げられ、写真、一覧、鑑定書が次々とモニターに映し出される。ページがめくられるたび、室内に乾いた紙擦れの音がきっぱり残った。


 老婦人は、被告席の青年が車で自分をはねて負傷させたとして訴えている。

 一方、青年は「自分は善意で、ケガをした老婦人を病院へ送って治療費も立て替えただけで、はねてはいない」と主張した。


 立証と反対尋問が交互に進み、問いは小石のように往復する波に磨かれ続ける。

 最終陳述の頃には、法廷は先ほどよりさらに静まり返り、記録キーのかすかな音さえ加減されていた。

 短い評議の後、裁判長が席に戻る。木槌が落ち、音の波が木壁のあいだで跳ね返り、手続はそこでくっきりと句点を打った。


 裁判所は「経験則」と間接証拠の連鎖――事故状況、双方の供述、そして趙幸が積極的に救護し病院内で費用を立て替えた行為などを総合し、被害者の負傷と趙幸の行為のあいだに因果関係がある可能性が極めて高いと推認した。


「あなたがはねたのでないなら、なぜ起こした? なぜ病院へ連れて行った?」


 裁判官はそう告げた。

 乾いた槌音が鳴り、裁判所は趙幸に一部責任を負わせ、約八十万円の賠償を命じた。


 判決は――すでに宣告された。


 被告とその弁護士は、その場に立ち尽くした。現実を飲み込もうとしているのか、それとも今のが幻聴ではないか確かめているのか。

 この場にいる誰にとっても、こんな判決はおそらく聞いたことがない。

 それとは対照的に、賠償金を勝ち取って有頂天になっている原告がいた。

 彼女はわざと声を落としているつもりでも、その笑みとくすくす笑いはいやでも目立ってしまう。


 勝者は気楽な足取りで出口へ向かい、敗者だけが、もうスポットライトの消えた舞台に取り残された。

 芝居が幕を下ろそうとした、その刹那。澄みきった笑い声がひとつ響いて、終幕にいくぶん薄気味悪い余韻を滲ませた。

 皆が音を追い、最後に視線が集まったのは趙幸だった。


 男の笑いには怒りも、悲しみも、失望もない。ただ、純粋に可笑しい――それだけだった。







 裁判所の外。空はまるで厚いガーゼをかぶせたようで、地上には弱い光しか残っていない。


 さきほど敗訴した弁護士が、虚空に向かって吐き捨てる。

「こんなの、あんまりだろ! 善いことをするにも理由が必要で、挙げ句に罪まで背負わされるなんて!」


 だが依頼人は静かに笑っている。敗訴など意に介していないようで、思わず「相当な金持ちなのでは」と勘ぐりたくなる。

 しかし男は裕福な家の出ではない。八十万円の賠償は、これからの生活を左右するに十分だった。


 そのとき、少し離れた角で数人がひそひそ話していた。「あの裁判官のポストは金で買ったらしい」と。

 やけに真に迫った口ぶりで、まるで最初から最後まで目撃していたみたいに語る。

 その声を拾ったのは、耳のいい趙幸だけだった。


「申し訳ありません。あなたの無念を、晴らして差し上げられなくて……」


「気にしないでください、弁護士さん。あなたが全力だったのは分かっています」


 弁護士にも分かっていた。もう、趙幸のためにできることは残っていない。

 別れ際、それでもこの「善良な」青年に、腹の底からの言葉を置いていきたかった。


「今後、誰かが転んでても――もう手を貸すな。この国じゃ、善いことをしても報われない」


 趙幸は苦笑し、弁護士の背中を見送った。

 そして、独り言みたいに――自分にしか聞こえない声量で、その忠告に返す。


「それは無理だよ。だって……それが、俺の生きる意味だから。誰かが『いい人』をやらなきゃいけない」


 彼は漆黒の空を見上げ、瞳に「逝った人が眠る場所」を映した。

 これまで一度も悲しみを見せなかった彼が、その時だけ、かすかな陰りを滲ませる。


「……だよね、母さん?」――







 重たい雲は引いていった。けれど、あの温かな陽射しは戻らない。代わりに降りてきたのは、くすんだ藍色の夜の帳だった。

 黒夜の支配に抗うように、建物の中の灯りも通りの灯りも、こぞって電力を吸い上げ、ぱっと光を放つ。


 趙幸は、疲れきった精神をどうにか支えながら、家路を歩いていた。

 ポケットの奥から、澄んだ音が鳴る——何年も変えていないデフォルトの着信音。毎日鳴り、毎年鳴っているくせに、いまだに誰からの音なのか聞き分けられない。自分のスマホが鳴っているかどうかの判断材料は、音が自分の身体から湧いているか、それだけだった。


 青年はポケットからスマホを取り出し、通話に出た。


「もしもし、幸ちゃん? 私、美亞(メイヤ)


「美亞か。久しぶり。最近どう?」


「うん、まあまあ。新しい仕事も、なんとか安定してるよ」


 美亞——趙幸と小瑜の同期だった同僚。

 彼女は会社でいくつか問題を起こし、最後は解雇された。趙幸がしばらく彼女と会わなくなったのも、それがきっかけだ。


「今、時間ある? ちょっと飲まない? もう小瑜にも声かけたんだ。彼も来るよ」


「今から?」


 美亞の誘いに、趙幸は午後いっぱい削られて、残ったのは疲労だけの自分を思い出す。本当は「疲れてるから」で断るつもりだった。

 けれど考え直した。長いこと連絡のなかった元同僚が突然声をかけてきたのだ。もしかすると、何か頼みたいことでもあるのかもしれない。そう思い、彼は応じた。


「いいよ。どこ?」


「やった! じゃあ、いつもの場所で会おう。もう着いてるから」


 通話が切れ、趙幸はスマホをポケットという巣へ戻し、進む方向を変えた——。







 ネオンは、ゆっくり呼吸する川みたいに、戸の隙間から滲み入ってくる。氷がグラスの壁をこつんこつんと叩き、夜の秒針にぜんまいをくれてやる。


 木の戸を押し開けた途端、あたたかな琥珀色の灯りが檜のカウンターを艶やかに照らし出した。炉火が串焼きを舐め、塩の結晶が香りを弾けさせる。薄い猪口の中で、日本酒がひやりと光った。


 趙幸は居酒屋に足を踏み入れ、きょろきょろと辺りを見回す。――と、友人の声に呼び止められる。


「幸ちゃん、こっち!」


 三十代に入ったくらいに見える、濃いメイクの女が手を振っていた――美亞だ。隣には小瑜が座っている。


 趙幸は個室に入り、ブリーフケースを置くと、二人の向かいに腰を落ち着けた。


「よっ、趙幸——その顔、どうした?」


「うっかり転んだんだ。」


「そっか……ところで、例の裁判はどうなった?」


 小瑜は笑みを浮かべ、親しげに声をかけてくる。今朝の反応とは別人みたいな愛想の良さだ。むしろ趙幸が普段見慣れているのは、この和やかな顔のほうだった。小瑜自身は、趙幸が自分の不満に気づいていないと思い込んでいる。


「負けた。あとで八十万、払うことになった」


「嘘でしょ?!」


 小瑜は驚いたように目を見開いた。けれどその瞳の奥には、かすかな愉悦の光がちらりと走る。同時に、そんな大金をさらりと言ってのける趙幸の、揺らがない口ぶりがどこか腑に落ちない。


「大丈夫、幸ちゃん? 私が奢ろうか?」


「ありがとう。でもいい。まだ払える」


 趙幸の返事を聞いた瞬間、美亞の肩がふっと緩み、表情もそれにつられて柔らいだ。友だちの懐がまだ大丈夫だと知って安心したのか――それとも、口にした提案を本当に実行せずに済んで胸をなで下ろしたのか。趙幸には、もう答えが出ている。


「こんな嫌な話はやめやめ。ほら、食べよ。あんたの好きなのばっか頼んどいたから」


 趙幸はテーブルを見た。レモンチキン、餃子、焼きそば、カレー。


 美亞の言うとおり、ほとんどが幸ちゃんの好物――ただ、例外があの焼きそばだった。焼きそば自体は確かに好みだ。けれど具には、彼がアレルギーを起こすもの――エビが入っている。


 よく一緒に食事をしていた元同僚なのだから、美亞も趙幸がエビに弱いと聞いたことくらいはあるはずだ。たぶん、忘れたのだろう。あるいは、それが同僚のことなんて本気で気にしていない証拠なのかもしれない。


 好みの味ばかりが並ぶテーブルを眺めながら、趙幸は確信を深めた。――美亞は、自分に何か頼みがある。


 何度か当たり障りのない挨拶を交わし、酒が喉を潤し、肉で腹も満たされ、箸の動きも次第に落ち着いていった。

 そのとき、美亞がふいにため息をつく。

 趙幸は、合図を受け取った家電みたいに、即座に反応した。


「どうした、ため息なんかついて。何か悩み?」


「はぁ……仕事で、二日後から出張なの。でもうちの娘、まだ小さくて、誰かが見ててくれないと困るのよ。今さら信頼できる人なんて、すぐには見つからなくて……」


 美亞はシングルマザーで、娘は六歳。

 普段の雑談から、この大都会にほとんど身寄りがないことも知っている。


「じゃあ趙幸が見ればいいじゃん。どうせ一人暮らしだし、普段たいしてやることないし、彼女もいないしさ」


 小瑜は箸を動かしながら、無責任に問題を男同僚へ放り投げ、ついでに悪友ムーブまでかましてみせた。

 その軽さに対して、趙幸は妙に真面目な顔で返す。


「それは困るよ。会社の寮、規則がすごく厳しくて、外部の人間を泊めるのは禁止なんだ」


「バレなきゃ問題ないって」


「お願い、幸ちゃん。仕事のために、どうしても娘から離れなきゃいけないの。助けてくれなかったら、あの子……二日間ひとりで家にいることになっちゃう」


 善行——その二文字は、趙幸にとってほとんど魔法だった。

 人を助けるのは紛れもない善行であり、善いことを実践して「いい人」になることこそ、趙幸に与えられた使命だった。


 趙幸は最初から美亞を助けると決めていた。問題は方法だけで、二人の説得は彼にとって雑音にすぎない。

 本当は、美亞が鍵を預けてくれて、彼が家に通って娘の面倒を見れば、会社の規則を破る危険もない——だが、二人の信頼はまだそこまで届いていなかった。

 あれこれ考えても、よりいい案は出てこない。結局、先に引き受けるしかなかった。


「……はぁ。わかったよ。二日だけ、面倒見る」


「本当? ありがとう、幸ちゃん! じゃあ二日後、娘を迎えに行ってね。お願い!」


 美亞の顔から陰りがさっと消えた。笑みには喜びがあるのに、驚きはない——最初からそうなると分かっていたみたいに。


 バッグの中でスマホがぶるりと震えた。ひとつのメッセージ。そして、嘘の証拠。

 送り主は美亞の彼氏だった。要するに、美亞は男と二日遊ぶためにわざわざ休みを取り、その間の子守りを探して回っていただけなのだ。


「じゃあ私、先に行くね。二人はゆっくり食べて。……そうだ、幸ちゃん、もうすぐ昇進なんでしょ? おめでとう」


 目的を果たした女は、社交辞令を並べながらバッグを手に取り、そそくさと去っていった。残されたのは男二人——そして、ひとつの嫉妬。

 悪気のないお世辞は触媒みたいに、小瑜の胸の奥の醜いものをかき回し、最後には衝動まで育ててしまった。


 趙幸が女同僚を見送って気を取られている隙に、小瑜はエビの身をほんのひとかけら、趙幸がひとかじりした餃子の中へ押し込んだ。


 趙幸は腕時計をちらりと見やった。短針はちょうど十を指している。


「そろそろ帰らないとな」


 明日のつまらない仕事のためにも、早く家に帰って、早く寝る。——それが雇われの身の自覚ってやつだ。

 彼は箸を動かし、エビだけを残して、残りの料理を手早く茶碗へと集めると、一気に胃へ流し込んだ。


 その様子を隣の茶髪の男は見逃さず、胸の内でこっそりほくそ笑む。

 相手の肌が赤く腫れて痒みに襲われ、嘔吐と下痢でのたうち回る姿を思い描いた。

 想像するだけで、気分が少しだけ晴れる。


 だが——現実の結末は、彼の想像をはるかに超えていた。


 アレルギーの原因になるものを口にした同僚は、顔がみるみる赤くなり、腫れ上がっていく。息をすることさえ苦しそうだ。

 苦痛に表情が歪み、身体も痛みに引きずられるようにバランスを崩した。


 小瑜は趙幸の異変に血の気が引き、冷や汗が止まらなくなる。

 頭がフル回転し、今この場で取るべき行動を必死に探した。

 救急車を呼ぶ——それがいちばん正しいはずだ。

 いま救急に電話をかければ、目の前の男はまだ助かるだろう。


 でも——小瑜はそうしなかった。


 甘美な想像が脳裏に浮かぶ。

 ——趙幸が不慮の誤食で死ぬ。昇進のチャンスは自分の手に戻り、すべてが完璧になる。


 趙幸は床でもがき、手を伸ばして小瑜にすがった。

 窒息しかけた男が求めたのは、同僚の行動だった。けれど返ってきたのは、言葉だけ。


「俺を恨むな。全部、お前のせいだ……」


 そう言い残すと、小瑜は背を向けて個室を出た。

 扉を開けて閉めるまで一息。中の様子を誰かに気づかれるのが怖いとでもいうように、その動きはやけに素早かった。


 その一部始終を見届けた趙幸は、苦痛で歪んだ表情がどこかで折り合いをつけたように、ふっと微笑へと変わった。

 ——これでいい。これで、空虚な人生から解放される。これで、母さんにまた会える。


 趙幸はもがくのをやめ、静かに目を閉じた。

 酸欠で思考が途切れ、やがて心臓の鼓動さえ止まった——







 静寂。

 普通の静けさじゃない。宇宙そのものが心臓の鼓動にミュートボタンを押したみたいな、絶対の沈黙。


 再び目を開けたとき、趙幸は果てしない蒼白の空間に立っていた。

 空気は無味無臭で、鼻先が拾える情報は一欠片もない。揺らぎすらなく、耳には音ひとつ届かない。

 足元は冷たくも熱くもなく、まるで「温度」という概念そのものが存在しないみたいだ。周囲に壁はない。光は四方八方から溢れてくるのに、影はひとつも落ちない。

 その「きれい」さ加減ときたら、趙幸は自分の家でさえまだそれなりに内装してると思えてくるほどだった。


「ふっ……」


 思わず喉の奥で笑う。声はこの空間で異様に長く尾を引いて反響した。


「なんて殺風景なんだ。想像してた天国とはまるで違うな」


 湧き上がるのは疑問じゃない。評価だけだ。

 この亡き魂は確信していた。生前に積み上げた陰徳が、死後きっと自分をここへ連れてくる、と。


 まるでその結論を裏打ちするかのように、一つの声が彼を呼び止めた。


「ここは確かに『天国』と呼べる場所です。でも、あなたたちの文化が思い描く天国とは違います」


 その声は急かすでもなく、滞るでもなく、玉のようにしっとりとした響きで、成熟した落ち着きと上品さをまとっていた。風に揺れる見えない糸がふっと引かれたように、趙幸の視線はそちらへ誘われる。


 声のする方に、白いローブの少女が立っていた。

 少女は右手で傍らのテーブルと椅子をそっと示す。五指を揃え、掌をわずかに上へ向け、腕で滑らかな弧を描いた。

 夕暮れの麦畑みたいな金の長髪がその動きに合わせてふわりと舞い、エメラルドのような翠の瞳が、今しがた辿り着いた男をまっすぐ見据えている。


「座ってお話ししませんか?」


 少女の誘いに、男は深く考えもせず、軽くうなずいた。川面の落ち葉みたいに、流れに身を任せる。

 趙幸は少女の向かいの椅子に腰を下ろし、少女もそれに合わせて席に着く。


「はじめまして。私は趙星、三十二歳。ついさっき、うっかりエビを口にしてアレルギー反応を起こし、窒息して死んだ……死人です」


 趙幸は自然体のまま、礼儀正しく自己紹介をした。その振る舞いが予想外だったのか、少女は一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 少女はふっと笑みをこぼす。

 それを見て、趙幸が尋ねる。


「何かおかしなところでも?」


「いいえ。ただ、こんな状況で自己紹介をする人を見たことがなくて。あまりに珍しくて、つい笑ってしまいました。失礼しました」


「そうなのか……?」


「はい。ほとんどの方は、まず疑問を口にします。『ここはどこ?』とか、『俺は死んだの?』とか、『あなたは誰?』とか。そうしたら、私はこう答えるんです——」


 少女は右手を胸に当てた。


「はじめまして。私はベネレース。この天界で務めている女神です」


 女神の自己紹介は、誰の目にも明らかな事実に「確認済み」の判を押すようなものだった。

 論理の推論が答えへ至る方程式だとすれば、彼女が漂わせる神聖な気配は、その答えの「ヒントカード」。


「私はずっとあなたを見ていました。あなたの遭遇も、痛みも、死も――全部、把握しています。あなたをここへ送ったのも私。だから、さっきの自己紹介なんて要らなかったのよ」


 ベネレースの一挙手一投足は優しく、それでいてどこかいたずらっぽい。


 趙幸は十指を絡め、笑みを含ませて返した。


「なるほど……つまり俺はずっと覗き見されてたってわけか」


「えっ? ち、違うの! 覗き見と言えば覗き見かもだけど、二十四時間、しかもお風呂まで見張ってたとか、そういう――」


「冗談だよ」


 慌てた女神は、男の短い一言であっさりほどけた。

 少し沈黙してから本来の優雅さを取り戻し、すぐに今度は意外そうな顔になる。


「あなたが冗談を言うなんて、驚きです。生前のあなたは、ほとんどそんなことをしなかったもの」


 ベネレースの言葉は羽根でそっと撫でるように、趙幸の琴線を揺らした。


「……本当に、よく私のことを知ってるんだな」


 趙幸は言葉を切り、まるで悲しみを迎え入れるように間を置く。


「こんなに純粋で優しい人と話すの、もうずっとなかった。誰かに理解されるのも……久しぶりでさ。ちょっと昂ぶってる。この感じ……ほんと、いい――」


「悲しみ」という名の菌が空気に散った。無色、無臭、無形――それでも心を蝕む。

 やがてそれは、感染源にいちばん近い少女をも侵す。同じ症状が彼女に現れた。沈黙だ。


 パンッ!


 女神が手を叩く。乾いた一音で、「菌」は怯えて退いた。


 静けさが断ち切られ、物語の歯車がもう一度回りだす。


「本題に戻りましょう。あなたをここへ送ったのには、ちゃんと理由があります」


 口調は相変わらず穏やかだが、そこに少しだけ真剣さが混じった。


「あなたは、歪んで、腐って、哀れな国に生まれた――良心は外注し、責任は何重にもたらい回し。決まりごとはバネみたいなもの。強い者の手の中で握り潰され、弱い者の頬に向けて弾かれる。人々は生き延びるために、嘘を『安定』と呼び、麻痺を『大人になること』と呼び、降伏を『現実的』と呼んだ。しまいには道徳でさえ、伸び縮みする輪ゴムみたいに、都合しだいで好き勝手に引っ張られる。それもすべて、この国の『秩序』の一部……」


 ベネレースの言葉は、悲しい演奏のようだった。ひとこと吐くたび旋律に音符が増え、語れば語るほど痛みが深くなる。

 けれど彼女は、解毒剤でも飲み下すみたいに、最後にはその悲しみを鎮めた。


「それでもあなたは、泥の中にいても蓮の花みたいに汚れなかった。騙され、傷つけられても、世界への向き合い方を変えなかった。社会が悪意で満ちていても、その優しさを手放さなかった。そんなあなたに、ひとつ提案があります。生前の善行への報いとして――」


 ベネレースは右手を胸に当て、左の掌を上に向けたまま、趙幸へ差し出す。


「今の記憶を持ったまま、『エルゼアス』へ転生しませんか?」


「……転生?『エルゼアス』?」


 趙幸の疑問を聞くと、女神の表情にほんのりと誇らしさが滲んだ。


「それは私が自らの手で『浄化』した世界。知性を持つ邪悪な魔物――魔族――は根絶やしにしたし、人間の腐敗も根こそぎ刈り取った。罪を負う者はみな裁かれ、邪な心を宿す者はみな教え導かれた。人々は互いに支え合い、それと同時に互いを見張り合う。悪が育つ土壌は、もうとっくに洗い流されているの。今の『エルゼアス』で人の闇を抱えている者は、総人口の0.1%にも満たない――あなたたちの言い方を借りれば、ユートピアよ!」


 まくしたてるうちに、女神を覆っていた『淑やかさ』という名の塗膜が、少しずつ剥がれていった。


「あなたをあそこへ転生させたいの。アイトレヤ家の貴族の赤ん坊として生まれて、幸せな人生を始める。もう二度と、以前みたいな暮らしはさせない……」


 高ぶった感情はジェットコースターみたいに落ち、あっという間に凪いだ。ベネレースは改めて趙幸に提案する。翠の瞳には慈しみが宿っていた。


「……」


 沈黙が再び降りる。興奮も、疑問もない。ただ迷いだけが残った。


 想定外の反応に、ベネレースの胸に小さな不安が芽生える。


「何か不満があるの? もしそうなら遠慮しないで言って。私にできる範囲なら、できるだけ満たすわ」


「いえ……」


 ベネレースの不安を察して、趙幸はすぐに宥めた。


「ただ……急で、どう反応すればいいかわからなかっただけです。ベネレース様がそこまで私のことを考えてくれるのは嬉しい。けど……俺はこれで終わりだと思ってました。もう一度、新しい人生が始められるなんて……考えもしなかった……」


 趙幸の説明を聞き終えたベネレースは、自分の善意が少しズレていたことに気づいた。眼窩の緑の宝石は鈍く曇り、もう光を跳ね返さない。荒野に立つ石碑みたいに硬い姿勢のまま、右手で左手を握り、力を溜めるようにしていた。


「あなたの境遇を知ってから、どう償えばいいのかずっと考えていたの。あなたに幸せを味わわせたくて……私の独りよがりを謝るわ。だから、あなたの願いを教えて。あなたが欲しいものを」


 ベネレースの真摯な謝罪と問いかけを前に、趙幸は真剣に考え、わずかに俯いた。


「——私は……もう一度、母さんに会いたい」


 趙幸の願いを聞いた女神は目を見開き、すぐに困ったような顔になった。つられるように彼の前で視線を落とし、両手をそっと机の下へ隠す。


「あなたのお母様……その魂は、もう十年前に輪廻へ入って、新しい人生を歩み始めています。ごめんなさい……その願いだけは、叶えてあげられない……」


 ベネレースは、また彼を失望させてしまったと思った途端、身体が小さく震え、視線も逃げていった。


 孤独、寂しさ、喪失、悔い。男は幾度となく、死んだあと母と再会できたなら何を話すだろう、と想像してきた。趙幸の暮らしのこと、理想のこと、夢のこと。彼は母に伝えたかった。自分は彼女の遺言どおり、羊の群れに左右されず、自分の理念を貫き通したのだと。母と同じ「いい人」になり、一抹の「()()」と化して、世界の荒唐で不条理な輪郭を映し出し、なぞってきたのだと。


 もしかしたら、もう一度だけ母の体温に触れられるんじゃないか――そんな夢も見た。

 だが今、それは全部、叶わない。


「そうか……母さんは行ったんだな。もう未練がなくなって、前を向いて歩き出したってことか……」


 趙幸はゆっくり顔を上げ、改めて少女を見た。申し訳なさに沈む表情を見て、また思う――なんて優しくて善い女神なんだ。


「ありがとうございます、ベネレース様。そこまで思ってくれた、それだけで俺はもう十分です」


 男は少女に深々と頭を下げ、言葉と一緒に想いを差し出した。少女はそれを読み取り、顔を上げて、もう一度彼と向き合う。


「決めました。俺は『エルゼアス』に転生します」


「転生してくれるの?」


「母さんがもう新しい旅を始めたなら、俺も進まなきゃいけない。母さんだって、俺が幸せになるのを望んでると思う」


 その返答は救いのように、ベネレースを感情の底から引き上げた。目尻に涙がにじむ。彼女はそっと瞼を伏せ、両手で胸元を押さえ、喜びの余韻を噛みしめるように息をついた。


 ベネレースは椅子から立ち上がる。


「わかりました。では、すぐに始めましょう」


 趙幸も席を立ち、転生の儀を迎えた。


 ベネレースは両腕を広げた。万物を抱きしめるみたいに。目を閉じ、神力を巡らせる。


 ——空気が動き出す。空間に満ちていた光が凝縮し、眩い斑点となった。さっきまでは存在しなかった影も、この瞬間に生まれる。まるでようやく、それぞれの持ち主のもとへ戻ったかのように。

 光と影は絡み合い、緻密な網を織った。跳ねる粒子は、神が砕いた琉璃の欠片めいて、網膜に灼けるような筋を残す。


 光が趙幸を包み、一本の光柱へと固まっていく。輪郭が滲み、ほどける。

 次いで彼の身体は、見えない巨人の手にゆっくり引き上げられるように、床を離れて宙へ漂った。


 趙幸とベネレースは目を合わせ、二人とも微笑む。


「さよなら……いつか」


「そんなに早く会いに来ないで。できれば百年後がいい。どうか……新しい人生を、心ゆくまで味わって。あなたに幸福を——」


 趙幸の姿は少しずつ見えなくなった。雨に洗われた文字みたいに、この現実という一冊の頁から、ゆっくりと薄れていく。

 そして最後に、女神の祝福を連れて、彼は時の綻びへ消えていった——







まずはここまで読んでくれたみなさん、ありがとうございます。


作者の私は外国人で、日本語はまだまだです。いったん別の言語で物語を書いてから、AIの翻訳ツールで日本語にしているので、ところどころ読みにくかったり、変に感じる部分があるかもしれません。そこはどうか大目に見てもらえると助かります。


それでもわざわざ「小説家になろう」に投稿している理由は、みなさんと同じです。日本の文化が好きで、アニメが大好きで――いつか自分の作品もアニメになったらいいな、って思っているからです。


以上です。

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