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9-4 終端の場

 黒幕の紙片は宙に浮いていた。


 白い。

 ただの白ではない。

 骨の白に似ている。


 紙片の端が、ゆっくりとめくれそうになる。

 めくれた瞬間、そこに書かれた“名”がこちらへ向く。

 向いた“名”を見た瞬間、読む穴が開く。


 見ない。

 見ないまま、床へ視線を切る。


 床の上の終端札。

 △、○、□。

 その中心に置かれた鈴。


 鈴は鳴らさない。

 鳴らさないことが、終端の条件だ。

 鳴らせば拡散する。拡散すれば喉が太る。

 ここで欲しいのは拡散じゃない。


 校内放送が名簿室の壁を通って歪む。


「……返事を――」


「……はい……」


「……はい……」


 “はい”が降る。

 降って、床の上に溜まる。

 溜まった“はい”が、紙片の白へ向かって流れようとする。


 黒幕は囁いた。


「さあ。私の名を呼べば、あなたの妹を返す」


 喉が反射で動く。

 呼べば終わる。


(呼ぶな)


 わたしは△札を、紙片と自分の間に滑らせた。

 拒否。

 取引の入口を拒む。


 紙片がわずかに揺れた。

 揺れ方が不快だ。

 紙が笑っている。


 棚が一斉に擦れる。

 擦れが呼名の形になる前に、○札を床へ落とした。


 完了。


 完了を置いて、会話を終わらせる。

 会話の往復を成立させない。


 その瞬間、名簿室の暗がりがぐっと圧を増した。

 怒りではない。

 圧は“交換”そのものだ。


 胸に重いものが押しつけられる。


 妹の遺影。

 転入前の教室の空気。

 笑い声。

 目を逸らした大人たち。

 「なかったこと」にされた名前。


 それらの記憶が一気に立ち上がり、喉に火をつけようとする。


(燃やすな)


 □札を鈴のすぐ横へ置いた。

 停止。

 燃え上がる感情を、いまだけ止める。


 止めた瞬間、紗灯の影が足元で強く重なった。

 縫い止めるように。

 踏み外さないように。


『……おねえちゃん……

 いま……

 きって……』


 切る。

 終端。

 ここで切る。


 わたしは鈴を指先でほんの少しだけ回した。

 鳴らさない。

 鳴らさないまま、輪郭だけを動かす。


 すると、床の上の“はい”の残響が、鈴の輪郭へ吸い寄せられる気配がした。

 吸い寄せられた“はい”は、返事にならない。

 ただの湿りになって、鈴の周りに沈む。


 黒幕の声が初めて鋭くなる。


「……何をしている」


 答えない。

 答えれば会話になる。会話は喉を太らせる。


 代わりに行動で示した。


 封庫の棚の影に置いた布包み――スマホ、鈴、黒い糸、白い札。

 それらの輪郭を、床の終端の中心へ集める。


 ひとつずつ。

 音を立てずに。

 視線を切りながら。


 スマホは布に包んだまま置く。

 鈴の隣に黒い糸を置く。

 白い札の束は、文字面を見ないように断面だけをこちらへ向ける。

 そして、ヘアピンの袋は最後。


 袋の中の紙片が、こちらを“読ませよう”とする。

 袋を見ない。

 袋の“角”だけを指先で挟み、終端の中心の外周へ置いた。


 終端の場が少しだけ広がった。

 喉は太らない。

 広がりは、終端が“受け皿”として働いている証拠だ。


 校内放送の点呼が乱れた。


「……はい……」


「……はい……?」


 疑問符が混ざる。

 疑問符は返事を要求する。

 でも疑問符が出たということは、回路が揺らいでいるということでもある。


 黒幕が紙片をゆっくり近づけてきた。

 白い紙片が、わたしの顔の高さまで上がる。


 読ませる角度。

 読ませる距離。


 床へ視線を切る。

 床→鈴→床。

 視線の切り方は禁書の手順だ。


 紙片が囁くように震えた。


「――呼べ」


 短い命令。

 短い呼名より切りにくい。

 命令は返事を生む。


 △札を紙片と自分の間へ“落とす”のではなく、“滑らせた”。

 拒否の形を床の現実に沿わせる。


 紙片が一拍だけ止まった。


【終端:継続(拒否)】

・命令誘導→遮断

・返事生成→抑制


 黒幕の声が低く笑う。


「終端は誰かの終わりでしか閉じない、と言ったはずだ」


 返事をしない。

 代わりに、○札を鈴の上に重ねるように置いた。


 完了。


 誰かの終わりではなく、返事の終わり。

 それをここで完了させる。


 その瞬間、名簿室の棚が一斉に鳴いた。

 紙の擦れが、今度は呼名になりかける。


「……とうこ……」


「……とうこ……」


「……とうこ……」


 同じ名が、複数の口から落ちる。

 呼名の洪水。


 喉が反射で開く。


「……は――」


 一音。

 “はい”の入口。


 □札を喉の入口より先に床へ叩き落とした。


 停止。


 止めたのは声ではない。

 止めたのは反射の手前の“形”だ。


 声が引っ込む。

 引っ込んだ代わりに、呼名が増す。


 黒幕が狙っているのはここだ。

 返事を出させるために、呼名を増やす。

 呼名が増えると、わたしの輪郭が薄くなる。

 薄くなった輪郭に、黒幕の名が貼りつく。


 わたしは呼名の洪水の中で、唯一の“現実”を掴む。


 鐘だ。


 鐘楼の鐘は、さっきから一定ではない。

 一定ではないのは、人が鳴らしているからではないからだ。

 回路が鳴らしている。


 鐘の余韻は「はい」に変換されやすい。

 なら、鐘の余韻そのものを終端に吸わせる必要がある。


 わたしは鈴を、ほんの少しだけ“中心”へ寄せた。

 鳴らさない。

 鳴らさないまま、鐘の余韻を受ける位置へ。


 ゴォン……。


 鐘が鳴る。

 余韻が広がる。

 余韻が「はい」になりかける。


 その瞬間、鈴の輪郭が余韻を受け止めた。

 受け止めた余韻が、床に沈む。

 沈んだ余韻は返事にならない。


 校内放送が一拍だけ途切れた。


「……」


 静寂。

 静寂は恐怖を増やす。

 でも今の静寂は、喉が痩せた証拠だ。


 黒幕の声が、初めて焦りに近い温度を帯びた。


「……何を“終端”にした」


 答えない。

 答えずに、見せる。


 床の終端の中心。

 そこに集めた“物の輪郭”が、受け皿になっている。

 名ではなく、物。

 返事ではなく、形。

 呼名ではなく、状態。


 “はい”が流れ込んでも、交換は成立しない。

 往復が成立しないからだ。


 黒幕が紙片を振り下ろした。

 振り下ろす動きは、文字を見せる動き。

 見せられたら負ける。


 わたしは床へ視線を切り、△札を紙片の進路へ滑らせた。

 拒否で刃を作る。


 紙片が弾かれ、宙で一回転した。

 回転の間に、名簿室の照明がぱち、と明滅する。


 明滅の“間”で、わたしの影が増えた。


 二つ。

 三つ。


 刻印が氷みたいに冷え、胸の奥が空洞になりかける。


【危険】影三重化:最大

【対抗】終端を“完成”させろ


(完成……今だ)


 わたしは床の終端の中心にある鈴の横へ、ヘアピンを置いた。

 銀色の線。

 古い生活の輪郭。

 “薄い名”へ繋がる導線の起点。


 そして、その上に黒い糸を一回だけ絡ませた。

 結ばない。

 結び目は確定だ。


 絡ませるだけ。

 曖昧な縁。

 曖昧な縁は怪異が噛みにくい。


 最後に○札を糸の上に置いた。


 完了。


 完了の合図は、誰かの死ではない。

 “交換の終了”の合図だ。


 名簿室の空気が、ぎし、と鳴った。

 棚の紙が一斉に沈黙する。

 沈黙の中で、校内放送が戻りかける。


「……点呼を……」


 □札を床へ置いた。


 停止。


 放送の続きが出ない。


 黒幕の紙片が床へ落ちた。

 落ちた紙片は、ただの紙になった。

 読ませる圧が消えた。


 まだ見ない。

 見ないまま、紙片の端に△札を置く。


 拒否。


 紙片は完全に静かになった。


 その静けさの中で、足元の影がふっと軽くなった。


 紗灯の影が、わたしの影から少しだけ離れた。

 離れたのに消えない。


 消えないということは――紗灯が“器の鎖”ではなくなったということだ。


『……おねえちゃん……

 ここまで……』


 紗灯の声が、今まででいちばん近い。

 近いのに、喉を開かせない。

 近いまま、終端の場に落ちる声。


 返事はしない。

 でも胸の奥で、ようやく一つだけ確信できた。


 終端は犠牲ではない。

 終端は、返事の循環を止める仕組みだ。


 黒幕の声が、最後の抵抗みたいに囁いた。


「……それでも、名は残る。名は戻らない。薄くなった名は――」


 そこで声が途切れた。

 わたしが終端を置いたからではない。

 声が“返事”を求める往復を失ったからだ。


 往復がなければ、声は続かない。


 名簿室の棚がゆっくり静まっていく。


 紙の端の呼吸が止まる。

 止まった呼吸が、ただの紙に戻る。


 校内放送が完全に沈黙した。


 静寂。

 けれど、今の静寂は怪異が生む静寂ではない。

 “返事が奪われない静寂”だ。


 わたしはゆっくり息を吐き、舌を上顎から離した。


 吐く息が、久しぶりに自然に流れた。


 そして、床の終端の中心――鈴の隣に、最後に一枚だけ札を置いた。


 ○。


 完了。


 儀式は、ここで終わった。


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