③−11 それぞれの進む先
朝、コーヒーを淹れてテーブルに置いた。
手を、つかまれる。
わたしを見ている隆夫さん。
引き寄せられ、抱きしめられた。
わたしがこの先、誰か他の人を好きになる可能性。隆夫さんが礼央さんのところに行ってしまう可能性。
未来のことは分からないから、わたしたちの不安は完全に消えたわけじゃない。
それでもあの日、罪を犯してでも証明した――わたしたちは愛し合っているという事実。
これは決して消えはしない。
*
十二月半ば。欧立学園中等教育科では、後期の中間テストが行われる。
編入後、初の大きな試験だから、勉強には力を入れた。他の生徒たちと違い、どんな好成績を取ったとしても、オレに内部推薦の資格は与えられないと分かってはいても。
「先輩、綾瀬先輩」
正門を通って校舎に向かっていたところ。後ろからの声に振り返ると、同じ部の後輩が走ってきていた。
「えっと、吉田くん?」
この子は確か中一。
「吉井」
「ごめん」
「いえいえ」
オレたちは並んで歩いた。
「今日のテスト、自信ありますか?」
「ないよ。でもやるだけのことはやったから、あとは本番で全力を尽くすのみ」
「緊張したりしません? 僕すっごい緊張しぃなんで、それまでにいくら努力しても、本番で失敗しちゃうんですよね。こんな定期テストですら」
走りに関して言えば、毎日のトレーニングで手を抜くようなタイプじゃない。勉強もきっと、本人なりにがんばっているはず。
「助言なんてできる立場じゃないけど」
ただ本番に弱いわけじゃないというだけ。
「結果を気にしすぎないこと。もちろん結果を出すために努力してるんだけど、どんな成績だったとしても、自分がそれまでがんばったことは変わらない。そう思うことかな」
バイオリンのコンクールで賞を取れなかったときも、中等部の試験でせいぜい平均だったときも、オレは自分を認めてやらなかった。
「自分ががんばったことは変わらない」
吉井はその部分を繰り返した。少し、伝わったかな。
「プレッシャーなんて全部取っ払って、楽しむ気持ちで本番に臨むんだよ。そうすれば全力が出せるし、ちょっとでもいい結果が出せるかもしれない。オレはそう考えるようにしてる」
「楽しむ気持ち」
「苦しみながら臨んだからって、結果がよくなるわけじゃないから」
もちろんあの頃の自分には、苦しむ理由が確実にあった。
吉井は何か、オレの想像が及ばない重荷を背負っているんだろうか。
「大人ですね、先輩は」
「楽してるだけ」
無責任だとは自分でも思ってる。アキや和馬に全部押しつけて。
「やってみます。楽しめるかは分からないですけど、確かにプレッシャーに押しつぶされてたら、いい結果は出せませんものね」
昇降口の前で立ち止まり、四つ下の少年は笑顔を見せた。
「吉井なら大丈夫だよ」
*
欧立学園自由科から秋ノ川の土手へ向かう途中、個人商店が並んでいる通りがある。
お惣菜屋さんとか揚げ物屋さん、理髪店に雑貨屋さん。最近ちょっと、顔馴染みだ。
「コロッケ四つ下さい」
「あいよ」
安くておいしいんだ、おばちゃんのおやつコロッケ。
「一つおまけしとくね」
「ありがとう」
余分にもらったのをかじりながら、わたしはローラーブレードで家路を急いだ。
この辺りはトタン屋根の一軒家が多い。たぶん昭和に建てられたもの。
地域の小学校は今が下校時間。わたしは黒いランドセルの男の子たちとすれ違った。
「見たか、今の。化粧してたぞ、不良だ」
「あいつ、学校行ってないんじゃないのか」
いちいち反応しない。あの子たちは常識の世界で生きてる。わたしはそうじゃない。
欧立学園通りに入って、長い直線を真っ直ぐ進む。線路を越えたら家はすぐ。
「優美」
車道をはさんで反対側から声をかけてきたのは、ベレー帽をかぶったメアリ初等科の六年生だった。
わたしたちは少し戻り、緑地公園のカエデの下で話す。葉は落ちた後で、枝はさびしくなっているけれど。
「今日は何かご用?」
アキさんは駅に向かっていた。わたしの姿を見かけなければ、そのまま帰る予定だったはずだ。
「伯父さんが優美に伝えてないって聞いて。それじゃフェアじゃないと思ったんだ」
「何のこと?」
全く見当がつかない。
「私が後継候補第一位なのは知っているだろう」
アキさんはいつにも増して、真剣な表情だった。
「ええ。隆夫さんが辞退したから」
順番のつけ方はよく分からない。隆夫さんには腹違いのお兄さんもいる。
「辞退したからと言って、配偶者の権利まで消滅するわけじゃないんだよ」
配偶者って、わたしのこと?
「優美は、隆夫と正式に婚約してる。であれば、おまえにも当然権利はあるんだよ、私以上に」
「えっ……」
わたしの方がアキさんより、候補の順位が上ってこと?
「ドラマなんかではよく見るけど……。娘婿が後を継ぐなんてことは」
「おまえにそのつもりがあるのなら、私と勝負しないか。勝った方が綾瀬グループを継ぐんだ」
「勝負」
フェアじゃないと言っていたのはこのこと。
わたしは権利も知らされず、二位のアキさんが上がると。
そんなこと、わたしは気にしないのに。
「あなたがやりたいのでしょ。すでにその気持ちでいる」
「……」
ただ単にお鉢が回ってきたから引き受ける、というのじゃない。本来の後継者の従妹さんは、最初から意欲があるのだ。
「勝負なんてするまでもない。気持ちの面でわたしはあなたに勝てないもの。報道されていることが事実なら、アキさんはこれから、重い重い責任を負うことになる。そんな覚悟、わたしにはないわ」
「知っているのか」
「新聞ぐらい読むわよ」
従業員の大量解雇。事業縮小。決して羽振りが良い状況でなく、整理していかなければならない――危機に面しているんだ、お義父様の組織は。
「それにわたし、もしかしたら父の会社を継ぐことになるかもしれないの。兄が、別の道に進むと言っているから」
「それは初耳」
進一お兄ちゃんは病理医になりたいから医学部へ行くんだそう。最近、お父さんに聞いた。
「あくまで可能性の話よ。学校にすら行けていないわたしが、人の中に……しかも経営の側に回るなんて、夢物語だと思うもの」
「いや、おまえにその才覚はあるだろ」
「何を根拠に?」
「何となくだ」
何となくでも、わたしを否定しないでくれたのはありがたかった。傷つきやすいの、これでも。
「社会復帰をしないといけない。人の中で過ごす練習をしないと。隆夫さんにできたことが、わたしにできるとは限らないけど」
「応援する」
コートの袖から伸びた両手を、ぎゅっと握って見せるアキさん。
「ありがとう。というわけで、わたしは綾瀬グループには入らない……入れない。あなたが思う存分、手腕を発揮すればいい話よ。こっちこそあなたの成功を祈ってる」
わたしが差し出した手を、アキさんは当たり前のように取ってくれた。
「長い付き合いになりそうだな、同じ世界で」
「そうね」
一人じゃなければがんばれそう。
月の下旬。隆夫さんの学校は年末年始のお休みに入った。
と言っても、授業がないだけで部活の練習は行われるため、わたしの婚約者は今日も登校している。
「あ、雪」
スーパーへ買い物に行った帰り。空からちらほらと、真っ白なフレークが落ちてくる。
――今夜はホワイトクリスマスね。
三年前のお母さんの言葉を思い出した。今日はまだイブの前日、みかどのお誕生日なんだけど。
(優美が生まれて三年か)
アパートの外階段を上り、最上階に着くと、居室の前に大人の男の人がいた。
「きみが、優美さん?」
「はい」
見覚えのある顔立ち。初対面でも誰か分かる。
トレンチコートの下には背広を着ているようだった。大学生だと思うけど、お勤めしてる人みたい。
「中でお茶でもどうですか。寒かったでしょう、和馬さん」
お義兄さんは微笑んだ。
「そうさせてもらう。弟のお嫁さんと話をしてみたいしね」
わたしはカードキーを差し込み、ドアを開けた。
「ロイヤルホテルのクリスマスケーキを買ってきたんだ、きみと隆夫に」




