E-372 変革はすでに始まっている
製本作業の概要を話すことになったけど、その骨幹が銅で作った文字の印鑑であると知って驚いているようだ。
まぁこれは少し考えれば、誰もが辿り着くようなアイデアだとは思うんだけどね。
「それで文字がこれほどに揃っているのですね。この飾り文字もそうなのですか?」
「そうです。もっとも図案はナナちゃんが描いたものですよ。さらに凝った文字もあるんですけど、それだと読めない人もいると思っているぐらいです」
とてもじゃないけど元の文字が分からないような装飾文字は、文字と言っていいのかと考えてしまうんだけど、神殿の神官や貴族の間では好評らしい。あれって読むというよりも、そのページを眺めて楽しんでるだけなんじゃないかな?
それが祈とう書と言うんだから考えてしまう。
「大量に作れるということで、昔から比べれば書物の値段が下がっていることも確かです。いえ、下がったというよりは2極化したということなんでしょうね」
「大衆向けと裕福な市民や貴族、それに神殿向けということですか?」
俺の言葉にご婦人方が頷く。
なるほど、ご婦人方の狙いは一般市民向けの書物ということなんだろう。
それなら、マーベルと市場争いを避けられそうだな。それにマーベルでも大衆向けの本は作り続けるはずだから、さらに値を下げられそうだ。
俺達の売値が1割程度安くなったとしても、上等な製本はまだまだ注文が捌ききれない状況だからなぁ。職人達が路頭に迷うような事態は起こらないだろう。
「ところで、エクドラル王国の国民……、一般の住民は本を読めるのですか?」
俺の素朴な問いに答えてくれたのはデオーラさんだった。
深くため息を吐いて重い口調で話をしてくれたのだが、かなり偏っているらしい。
農家や漁村などで暮らす人達は2割程らしいが、王都の住民ともなれば5割を超えるとのことだ。さらに貴族や商人ともなれば読めない者はいないらしい。
「本が廉価に手に入るなら、5日おきに神殿に通って祈りを捧げる子供達に無償で配ることも出来るでしょう。神官が本を読み聞かせることで、文字を読むことが出来るようになると考えています。貧民街に暮らす子供達には、ティーナが政庁市で始めた秘密組織を取り入れれば良いでしょう。
子供達が日々の食事を取れるようになれば余裕も生まれます。その余裕を使って彼らに教育を行うのも王家の務めに思えます」
エクドラル王国の教育改革ということになるんだろうな。
それは良いことでもあるんだが……。
「考え方は十分に理解できましたから、マーベル国としても出来る限りの援助は致しましょう。ですが、皆さんに1つだけ注意しておきたいことがあります。
教育は王国の将来をかなり不安定にすることになりますよ。王国の安寧を図るなら、王宮の統治に住民が従う世界が望ましい筈です。住民が教育を受けて王宮の統治方法に疑問を持った時のことを考えるべきかもしれませんね」
「国民を教育せぬ方がよろしいと?」
「俺としては誰もが同じ教育を受けるべきだと考えています。そうすることで優秀な人材が現れるでしょうし、彼らに未来を託すことも可能です。ですが、その優秀な人材が必ずしも王侯貴族から出るとは限りません。ひょっとして貧民街から出ることだってあり得るはずです。そのような人材をどのように利用するか間で考えないと、彼らが新たな王国内の勢力となりかねないとも思えるのです」
さすがに革命を起こしかねないとは言わないでおこう。
そんなことを言ったらせっかくの教育改革が頓挫しかねない。だけどその危険性は十二分にあることは確かだ。
「マーベルのように王国制ではない統治であるなら、能力に応じた役職を得ることが出来ます。教育をとことん施せば王制そのものを変えることにもつながりかねません。それは皆さん方で十分に話し合ってください。マーベルとしてもせっかくエクドラル王国という友好国を得られたんですから、エクドラル王国の急激な変化は歓迎しかねるところです」
ご婦人方がため息を吐いている。
後ろで控えていたメイドさんに改めてお茶を淹れて貰い、しばらく口を閉ざして考えている。
王国のために良かれと思って行う政策が、必ずしも王国の為にはならないということに気が付いたのだろう。だけど、王国で暮らす人々の識字率が上がるなら、現在よりも職業選択の自由度が増すだろうし、それは王国の活性化にも繋がる。
短期的に考えるか、それとも長期的に考えるかでかなり内容が変わるに違いない。
果たして、どんな手段をご婦人方は選ぶのだろう。
「マーベル国には国王はおりませんが、それなりに統治が出来ていることも確かです。マーベル国の建国時にはレオン殿がその骨格を作ったと聞いております。もし、マーベル建国時に王族が居られたら、案外マーベル王国になっていたのではないかと思うのですが……。その時はどのような統治をレオン殿は考えたのでしょうね?」
中々鋭い問いだな。ご婦人方は統治にあまり口を挟まないと思っていたんだが、どうやらそうでもないようだ。
これは想定ってことなんだろうな。俺のもう1つの記憶がその答えを脳裏に描いてくれているんだけど、そんな王国が王国と言えるかどうか考えてしまう。
とはいえ、解決策であることは確かだ。
「君臨すれど統治せず……。たぶんその時はそんな統治となったでしょうね。王国の頂点には国王を据えますけど、統治は王族ではなく住民の代表者に任せることになるかと思います。この場合、統治の頂点に立つのは宰相になるでしょう。重要な決定には国王の承認を得ることになるでしょうが、国王はその裁可を下す際の最後の良心的役割になるでしょうね」
「それは王国と呼べるのでしょうか?」
「一応王国と呼べるでしょうね。国王は存在するのですから。とはいえ、エクドラルがそのような王国になるのは、遠い将来になるでしょう。教育は王国の未来をも変える。それは民衆が良い教育環境で育ち豊かな暮らしをおくるようになってからになるでしょう。神殿の神官達が神の前での平等を教えるなら、なぜそれが現世で形にならないのかと疑問を持つでしょうからね」
ご婦人方は言葉を失った感じだな。
ジッと目の前のお茶のカップと俺に交互に視線を移動して何やら深く考えているようだ。
「エクドラル王国においても貴族の地位は絶対ではないのだ。永代貴族は廃止されているし、能力のある民衆の中には1代貴族として使えている者もいる。既にエクドラルは変革の中にいるということではないのか?」
ティーナさんの言葉は、かなり重いものだ。
先代国王が、貴族の大反対をものともせずに布告したらしいからなぁ。
たぶん先代国王は貴族政治の弊害を憂いていたからに違いない。とはいえ、その考えは封建制時のような王国内の統治を真っ向から否定するようなものだ。
貴族という身分を残さざるを得なかったのは、ある意味内乱を防ぐためであったのかもしれない。
だが、その英断のおかげで優秀な貴族だけが将来は残ることになる。まだまだ王宮内で派閥闘争を繰り返しているような貴族達は当主の交代時にどのような裁可が下されるのだろう。
さすがに即座の庶民に落とされることはないだろうが、貴族の席順が降格されることは容易に想像できる。
「先代国王陛下には、エクドラル王国の将来が見えていたのでしょう。少なくともブリガンディやサドリナス王国のような愚行に走ることが無いように自分の地位を上手く使っての英断であったと推測したします」
俺の言葉に、しっかりと俺に顔を向けたのはデオーラさんだった。
「先代国王陛下はそれほどエクドラル王国の将来を見据えていたと?」
「そうでもなけでは、貴族制度の改革などしなかったでしょうし、時を同じくして宮殿から神官達を排除したのではありませんか? 先に謁見の場で国王陛下のご尊顔を拝した際に神官の姿がありませんでした。宮殿と神殿をはっきりと区別したためと推測しています」
「神殿は国民の信仰を束ねるもの。その神官が国政に立ち入るような暇はないはずだとお言葉を述べられたと聞いております。それも重要なことだったと?」
「信仰は怖いですよ。ブリガンディが獣人族を弾圧したのは、神殿の神官達による狭義の解釈が元になっています。それが国政に取り込まれるようであれば、あのような形で国内を二分化し、他の勢力……、魔族によって滅ぼされたとも言えますからね。民衆を束ねるための手段として宗教を用いるのは容易なんです。場合によっては神殿と意を共にすることで国政を円滑に進めることが出来るでしょうが、その信じる宗教が異なる国と接する事態となったなら、聖戦が始まりかねません」
宗教の自由は認めてあげたいところだな。
それによって他の国との付き合いも容易になるはずだ。
だが、それを国政に取り入れた瞬間、排他的な王国になりかねない。
先代国王はかなり優秀な人物だったに違いない。それを防ぐ手立てを実行しているんだからね。
「今では神殿の最長老が新たな国王陛下に王冠を与えるだけになってしまったようです。それも謁見の場で国王陛下に王冠を届けるまで、国王陛下に王冠を乗せる役は先代国王の任じた宰相の1人です」
「やはり神殿の権威を恐れての事なのでしょうね。それなら他国からの貢物と同じに思えますわ」
「そんな先代国王陛下を、貴族達が疎ましく思っていたことは確かでしょう。私の父上も戸惑っていた時期がありました」
戸惑うぐらいなら問題はないだろうけど、反乱を起こさなかっただけましに思えるな。場合によっては暗殺されかねない改革だったようだからね。
「無事に改革が出来たんですから、現在の国王陛下はかなり統治が容易になったと思いますよ。それに先代国王の改革によって生じた矛盾点の見直しも行っているようですから、次期国王はどのような統治をおこなうか楽しみですね」
「良い国王に成れるということでしょうか?」
「良い国王に成れるよう皆さんが行動できるように現在の国王陛下が動いていますからね。さすがに宮殿の貴族達の言葉を、素直に聞くような国王では困りますけど……」
献策の良し悪しを判断できる人材になれば問題はないだろうし、そのために3人者宰相を設けているぐらいだからなぁ。軍事に関しては防衛と攻撃それに兵站を管理する優秀な軍人を据えている。その地位は世襲制ではないから、長くに渡って力を一定に保つことが出来るだろう。地位を誇るような軍人はいないようだし、蓄財に走るような者もいない。
この際だから貴族は武官貴族だけにしたいぐらいだけど、そうなると統治に関わる文官貴族達が反乱を起こしかねないんだよなあ。
力は無いが、結託すると手に負えないからね。今でも宮殿内で勢力争いをしているぐらいだからなあ……。




