親切なホテルマンだと思ったら、三年後に義兄になりました①
「ねえ、湊。中庭に行ってみない? CM見たときから気になってたのよ」
母の美遊が、ウキウキした顔でそう言った。
今日泊まるツインルームに荷物を置き、これからホテルを散策しようと話していたところだ。
「いいけど」
湊はバッグからカメラを取り出した。
学生時代にアルバイト代を貯めて買ったミラーレスカメラだ。
景色や建物を撮るのが好きで、旅行へ行く時は必ず持ち歩いている。
ここ、橋川グランドホテル東京は、都内でも有名な高級ホテルだ。
敷地内にはレストランやショップ、ラウンジなど様々な施設があり、中庭も人気スポットの一つだった。
せっかくだから写真を撮ろうと思い、首からカメラを下げる。
「じゃあ、行きましょう」
美遊は淡いベージュのワンピースに、リボン付きの麦わら帽子を合わせていた。
今日の宿泊を心から楽しんでいる様子に、湊も頬が緩む。
二人はエレベーターで一階へ降りた。
季節は初夏。
七月に入ったばかりだが、外はすでに夏の陽気だった。
湊はTシャツの上から水色のサマージャケットを羽織り、黒いキャップを被る。
中庭へ出ると、宿泊客らしい人々が思い思いに過ごしていた。
背の高いヤシの木が並び、色鮮やかな花々が庭を彩っている。
石畳の遊歩道は緩やかに曲線を描きながら続き、小さな噴水の周りでは子どもたちが楽しそうに笑っていた。
都心とは思えないほど緑が多く、まるで南国のリゾートに迷い込んだようだ。
「素敵ね!」
はしゃぐ母に頷きながら、湊も感心していた。
(最初は気乗りしなかったけど……来てよかったな)
母嬉しそうな顔を見ながら、湊はそう思う。
湊は三月に高校を卒業し、進学はしなかった。母子家庭だったこともあり、早く働きたかったのだ。
高校時代は、ホテルの客室清掃のアルバイトをしていた。その縁もあって、卒業後は橋川ホテルグループの客室清掃を請け負う関連会社へ就職した。
入社後の三か月は、系列ホテルを回りながら研修を受け、先日、ようやく本配属が決まった。
配属先は、橋川グランドホテル東京。
橋川ホテルグループの旗艦ホテルだ。
高卒の新人がいきなり配属されることは珍しいらしく、同期たちにも驚かれた。
なぜ自分が選ばれたのかは分からない。
だが、その話を聞いた母は目を輝かせた。
『せっかくだから、一度泊まってみたいわ!』
そう言い出したのだ。
(働き始めてから泊まるよりはマシか)
職場になるホテルへ客として泊まるのは気が進まない。
それでも、本格的な勤務が始まる前ならまだ気楽だった。
配属まで数日の余裕があったこともあり、一回だけという約束で今日ここへ来ている。
「CMで見たときも素敵だったけど、本当に外国のホテルみたいねぇ」
「そうだね」
ガラス張りの外壁は陽射しを反射して輝き、白い石材を使った外観はどこか海外の高級リゾートを思わせた。
都心のホテルなのに圧迫感がなく、ゆったりとした雰囲気がある。
そうして散策を始めたものの、三十分もしないうちに、美遊が困ったように笑った。
「ごめん、湊……暑くて耐えられない」
「日傘持ってくればよかったのに」
「うん。でもこの蒸し暑さは、ムリだわ」
涼し気なワンピースを着ているのに、どうにも暑いらしい。たぶん、日焼けするのも嫌なんだろう。
「私は部屋に戻るけど、湊はまだ見ていく?」
「うん。写真撮ってから戻る」
「分かった。じゃあ先に戻るね」
そこで母と別れ、湊は一人で中庭を歩き始めた。
珍しい花や、南国リゾートを思わせる景色は見ていて飽きない。
木陰で休みながらカメラを構え、気になる風景を次々と撮影していく。
気づけば、順路を外れて庭園の奥へ足を踏み入れていた。
一通り撮って満足すると、部屋へ戻ろうと踵を返す。
「あれ……どっちから来たっけ?」
広い中庭で、帰り道が分からなくなっていた。
さすがに湊も暑くなってきて、キャップを脱いで額の汗を拭う。
「はあ。早く戻ってサイダー飲みたい」
まずは案内板を探そうと歩き出す。
しかし、どこも似たような景色に見えてしまい、気づけば同じ場所をぐるぐる回っていた。
周囲に人がいれば道を尋ねるのだが、真昼の強い日差しのせいか人影も見えない。
きょろきょろと辺りを見回していると、不意に後ろから声をかけられた。
「どうされましたか?」
「え?」
振り向くと、一人の男性が立っていた。
ジャケットは脱いでいるものの、白いシャツには皺ひとつない。
黒いベストをきちんと着こなし、胸元にはホテルのロゴが入ったピンバッジが輝いている。
(ホテルの人だ)
湊はホッとして、男性を見上げた。




