106.私は……幸せよ。
重い瞼を、ゆっくりと持ち上げる。
――目を開けた瞬間。
視界いっぱいに広がっていたのは、ただ白いだけの世界だった。
「……」
音もなければ、気配もない。
どこまでも、静かで。
――何もない。
「……私、は……」
かすれた声が、自分でも驚くほど遠くに感じた。
確かに、私は――首を落とされたはず。
最後に見た空。
あの瞬間の感覚。
はっきりと、覚えている。
それなのに。
「……どうして」
ゆっくりと、首元に手を当てる。
指先に触れたのは、確かな温もりと――
繋がったままの、皮膚。
「……」
思わず、息を呑む。
あるはずのないものが、そこにある。
生きている証が、確かにここにある。
けれど。
ふと、指先に触れた髪は――
肩にも届かないほど、短くなっていた。
あの長い銀髪は、もうどこにもない。
それだけが、あの出来事が夢ではなかったと、突きつけてくる。
「……ここは」
小さく、呟く。
答えるものは、いない。
見渡しても、何もない。
白。白。白。
どこまでも続く、無機質な空間。
時間すら、止まっているようだった。
「……」
胸の奥に、わずかな違和感が残る。
生きているのか、死んでいるのか。
その境界は、曖昧なまま。
それでも私は、一歩を踏み出した。
足音は、響かない。
ただ、自分の存在だけが、そこにある。
それを確かめるように。
私は、静かに歩き出した。
「……ルミナは、手紙を読んだかしら」
ぽつりと、呟く。
あの子のことだからきっと――また自分を責めているのだろう。
だからこそ、ユリウス殿下に託しておいた。
あの手紙を。
少しでも。
ほんの少しでもいいから、前を向いてくれていたらいいのだけれど。
「……」
小さく息を吐く。
胸の奥に、やわらかな願い”だけ”が残っていた。
「それにしても」
ふと、視線を前へ戻す。
歩みは止めないまま、意識だけが過去へと遡っていく。
約二十年。
たった、それだけの時間なのに――
思い返せば、あまりにも濃くて。
あまりにも、多くのものを抱えていた。
「……ふふ」
自然と、笑みが零れる。
最初に出会った頃のルミナは、年齢のわりにどこか大人びていて。
妙に落ち着いていて。
……少しだけ、警戒していたのよね。
けれど。
時折見せる、あの子供っぽい仕草。
無邪気な笑顔。
拗ねたような顔。
「……可愛かったわね」
くすり、と笑う。
初めて喧嘩をした時も。
仲直りをした時も。
ころころと表情を変えて――
まるで、感情そのものをそのまま映しているみたいで。
見ていて、飽きなかった。
あの子は、すぐに泣いてしまうけれど。
その涙は――いつだって、私のためだった。
「……」
胸の奥が、ほんの少しだけ軋む。
もう、あんな風に泣かせたくはない。
これからは。あの子が笑っていられる時間の方が――ずっと多くなればいい。
「……ユリウス殿下が、ルミナを守ってくれるわ」
静かに、そう呟く。
彼なら、大丈夫。
最初は、少し頼りないと思っていた。
……私のこと、好意的に思っていたみたいだし。
小さく、苦笑が漏れる。
本当に任せていいのかと、疑ったこともある。
けれど――
あの子への想いに気づいた時。
彼は、迷わず動いた。
守るために。
隣に立つために。
逃げることなく、選び取った。
「……ふふ」
小さく、笑みが零れる。
だからこそ、安心して託せたのだ。
「……あの二人なら」
ぽつりと、言葉を落とす。
きっと、これから先も――
支え合って、歩いていける。
そう思えるだけの、強さがある。
「……大丈夫ね」
優しく、言い聞かせるように。
その言葉は、どこか遠くへと溶けていった。
「……」
しばらく、静かに歩く。
足音は相変わらず響かない。
それでも、不思議と寂しさはなかった。
ルミナのことは、もう心配いらない。
あの子はきっと、前を向いて歩いていける。
「……」
残るのは――ただ一つ。
自然と、胸の奥に浮かび上がる。
「……セシル」
小さく、名前を呼ぶ。
白い世界の中で、その音だけがかすかに溶けた。
最後に見た、あの姿。
血に染まりながらも――それでも、笑っていた。
「……本当に」
かすかに、息を吐く。
どうしてあの人は、あんな状況でも――
あんな顔ができるのだろう。
「……馬鹿ね」
ぽつりと零す。
呆れたようでいて。
どこか、愛しさが滲む声。
「……私より先に倒れるなんて」
あの人らしいと言えば、あの人らしい。
けれど――
「……」
少しだけ、視線を落とす。
言葉にはしない。
けれど、胸の奥で確かに思う。
……もっと、一緒にいたかった。
再び、顔を上げる。
白い世界は、変わらない。
何もないはずなのに。
「……もう、会えないのかしら」
ぽつりと、零れる。
白い世界に、その声は静かに溶けていく。
「……」
ほんの一瞬、瞬きをする。
――その瞬間。
視界の奥に、ぼんやりと人影が浮かんだ。
「……?」
思わず、目を細める。
気のせいかと思った。
けれど、それは……確かにそこに“いる”。
ゆっくりと、輪郭がはっきりしていく。
そして――
「――よお」
聞き慣れた声。
いつもと変わらない、どこか気の抜けた音声。
けれど、その奥に確かな温もりが滲んでいた。
「――セシル」
名前が、自然と零れる。
抑えることなんて、できなかった。
込み上げる想いが、胸を満たしていく。
「……っ」
思わず、その場に立ち尽くす。
そんな私を見て、彼はゆっくりと歩み寄ってきた。
そして――
何も言わずに、そっと抱きしめる。
「……」
温もりが、伝わる。
確かに――ここにいる。
「……本物、なのよね?」
震える声。
確かめるように。
縋るように。
思わず、そう問いかけていた。
「ああ」
短く、けれど迷いのない返事。
それだけで――十分だった。
「……」
ゆっくりと、身体が離れる。
名残を惜しむように。
そして――彼の手が私の頬に触れた。
あたたかくて。
どこか、懐かしい感触。
「置いていって、すまねぇ」
低く、優しい声。
私は、小さく首を振る。
「……また、会えて嬉しいわ」
言葉にした、その瞬間。
一粒の涙が、頬を伝った。
彼は、それをそっと拭う。
壊れ物に触れるみたいに、優しく。
顔が、ゆっくりと近づく。
息が、かかる距離。
逃げる理由なんて、どこにもない。
だから――目を閉じた。
次の瞬間。
唇に、柔らかな温もりが触れる。
それは、確かに。
再び繋がった証のようだった。
ゆっくりと、唇が離れる。
名残を惜しむような静けさが、二人の間に残った。
「……髪、短くなったな」
ぽつりと、セシルが呟く。
彼の指が、私の髪にそっと触れる。
かつての長さはもうなく、
肩口で揺れるそれを、確かめるように撫でていく。
「……仕方ないわ」
小さく、返す。
そう言いながらも私自身もまた、無意識に髪へと手を伸ばしていた。
ほんの少しだけ。
失われたものを、惜しむように。
「似合う」
迷いのない声。
あまりにもあっさりと告げられて、思わず目を瞬く。
「……そう」
けれどその言葉に自然と、口元が緩んだ。
「……ところで」
セシルが視線を上げ、周囲をぐるりと見渡す。
変わらない、白い世界。
どこまでも続く、何もない空間。
「ここは、どこなんだ?」
「……それが、私にも分からないの」
小さく、首を振る。
「目が覚めたら、ここにいて……それから、ずっと」
見渡しても、やはり何もない。
見たことも、聞いたこともない。
不思議な場所。
「ふーん」
セシルは、あまり深く考える様子もなく、軽く息を吐いた。
「ま、歩いてりゃ何か分かるだろ」
いつも通りの、お気楽な声音。
けれど、その言葉にはどこか安心感があった。
彼は、すっと手を差し出す。
「のんびり行こうぜ」
穏やかに、少しだけ笑って。
「もう――ここには、邪魔するやつもいねぇんだ」
「……ええ」
私は、その手を取る。
温もりが、確かに伝わる。
もう、離す必要はない。
「……そうね」
小さく、頷く。
白い世界の中で、二人並んで歩き出した。
時間の感覚は曖昧なのに、不思議と会話は途切れなかった。
昔のこと。
好きなもの。
どうでもいいような、他愛のない話を重ねていく。
それが、どこか心地よかった。
「……そういや」
ふと、セシルが思い出したように口を開く。
「ネメシアの母親の話、聞いたことねぇな」
「……」
ほんの一瞬だけ、言葉を探す。
けれど、すぐに静かに答えた。
「……お母様は、私を産んだ後に亡くなったの」
その言葉に。
セシルは、わずかに視線を伏せる。
「……わりぃ」
短く、呟く声。
その気遣いが、少しだけ可笑しくて。
「……ふふ」
小さく、微笑んだ。
「いいのよ。……もう、平気だから」
穏やかに、そう告げる。
過去を語ることに、もう痛みはなかった。
「……お母様が亡くなった後は、乳母に育ててもらっていたの」
自然と、言葉が続く。
――彼女も、もういないけれど。
そのことは、口にしなかった。
きっと言えば、彼はまた同じ顔をするから。
「……」
記憶にある母の姿は、ない。
けれど、その代わりに――
「……」
胸の奥に、温かなものが広がる。
リサとの思い出。
内緒で、お菓子を持ってきてくれたこと。
夜遅くまで、本を読んでくれたこと。
小さな私と同じ目線で、笑ってくれたこと。
誰もが、私を遠ざける中で。
あの人だけは、変わらずにいてくれた。
「……優しい人だったわ」
ぽつりと、零す。
その一言に、すべてを込めるように。
――その時。
ふいに、手を強く握られる。
「……」
隣を見上げると。
セシルは、ほんのわずかに――
悲しそうな表情をしていた。
「俺は、もう離れないからな」
低く、けれどはっきりとした声。
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……」
ほんの少しだけ、視線を逸らす。
くすぐったいような、照れくさいような。
けれど、それ以上に――
嬉しかった。
「当たり前よ」
小さく、そう返す。
迷いはなかった。
すると。
セシルは、珍しく頬をわずかに赤らめる。
「……素直になるとは思わなかった」
ぼそりと、そんなことを言う。
「……失礼ね」
思わず、じとりと睨む。
けれど――すぐに力が抜けた。
確かに。
今までの私はこんな風に言葉にすることなんて、ほとんどなかったから。
「……これからは、善処するわ」
少しだけ言い淀みながらも、そう答える。
その瞬間。
セシルが、はっとしたように目を見開いた。
そして――
とても満足そうに。
幸せそうに、微笑んだ。
「……?」
思わず、首を傾げる。
何かおかしなことを言ったかしら。
そう思って見つめると。
「……いーや。なんでもねぇよ」
いつもの調子で、軽く笑う。
どこか誤魔化すような声音。
「……そう」
少しだけ不思議に思いながらも。
それ以上は、追及しなかった。
それにしても……。
リサと過ごした時間を、ふと思い出す。
あの頃は、何も持っていなかったはずなのに。
不思議と、満たされていた。
「……」
あれもきっと、幸せな時間だったのだろう。
そう思えた瞬間。
ふいに、胸の奥に引っかかる記憶が浮かぶ。
そういえば――小さい頃。
「……?」
思い出しかけた、その時。
ふっと、風が吹いた。
この世界には、あるはずのない“風”。
「……なんだ?」
セシルが目を細める。
私も思わず、視線を巡らせた。
――次の瞬間。
景色が、変わる。
白しかなかった世界が、ゆっくりと色を帯びていく。
どこまでも広がる、澄んだ空色。
そして――
視界いっぱいに咲き誇る、赤いアネモネ。
風に揺れて、花弁がさざめく。
「……これは」
思わず、一輪に手を伸ばす。
指先に伝わる、柔らかな感触。
確かに――本物。
「どうなってるんだ?」
戸惑いを隠さない、セシルの声。
「……わからないわ」
静かに、首を振る。
けれど――
どこか、懐かしい。
そんな感覚があった。
「……?」
その時。
少し離れた場所に、二つの影が見えた。
揺れる花の向こう。
こちらへ歩いてくる、二人の人影。
「……誰だ」
セシルが一歩前に出る。
庇うように、私を背へと引く。
「……」
けれど。
私は、その背中をそっと押した。
「……セシル、待って」
「お、おい……」
制止の声を聞きながらも――
私は、そのまま前へと進む。
足が、自然と動いていた。
近づくほどに、輪郭がはっきりしていく。
一人は――見慣れた侍女の装い。
そして、もう一人は――
「……」
息を呑む。
何度も、肖像画で見た顔。
けれど、今は――
「……リサ」
思わず、名前が零れる。
優しく微笑む、その姿は。
紛れもなく――あの人だった。
そして、その隣。
柔らかな光を纏う女性。
「……」
胸が、強く脈打つ。
知らないはずなのに。
どこかで、ずっと求めていた存在。
「――お母様!」
気づけば、声を上げていた。
最初は、ただ歩いていただけのはずだった。
けれど――気づけば。
走り出していた。
止めることなんて、できなかった。
「……っ」
視界が揺れる。
息が乱れる。
それでも、足は止まらない。
ただ、一直線に。
その人のもとへ。
「お母様……!」
腕を伸ばす。
そして――
そのまま、胸に飛び込んだ。
「お母様……お母様……!」
何度も、何度も。
確かめるように、名前を呼ぶ。
「……ネメシア」
優しい声。
包み込むような、柔らかな響き。
お母様は、そっと私を抱きしめ返してくれた。
逃がさないように。
壊さないように。
優しく――けれど確かに。
「……よく、頑張りましたね」
初めて聞くはずの声。
それなのに――
どうしてこんなにも、懐かしいのだろう。
どうしてこんなにも、安心するのだろう。
「……っ」
胸の奥が、いっぱいになる。
抑えていたものが、一気に溢れ出す。
瞳から、次々と涙が零れ落ちた。
止まらない。
もう――止める必要もなかった。
……ああ、私は――
間違っていなかったのかもしれない。
小さい頃。
何度も、何度も願った。
『ママに会いたいなぁ……』
その願いが、今。
ようやく――届いたのだと。
そう、思えた。
これが――
悪の役に徹した令嬢が、
最後に叶えた最初の願い。
完結です!
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
長くなりそうなので活動報告にて、いろいろ書こうと思います。
ネメシアが、幸せになることができて良かったです。
感想、評価などいただけるととても嬉しいです。
改めて、ここまで一緒にネメシアの成長を見てくださり、本当にありがとうございました。




