92.隠れる場所。
途中からルミナ視点。
石の階段を、私は駆け降りていた。
狭い秘密通路は暗く、湿った空気がまとわりつく。
足音が壁に反響していた。
心臓が激しく打つ。
息が苦しい。
けれど、止まれない。
通路の先に、かすかな月明かりが見える。
出口だ。
―――――――――
『ここから出た先に、ある人が待ってる』
秘密通路に入る前、ユリウス殿下がそう言った。
私は振り返る。
『ある人?』
ユリウス殿下は小さく頷く。
『うん』
そして、少しだけ視線を逸らした。
『その人は――』
―――――――――
最後の石段を駆け下り、重い扉を押し開けた。
夜の空気が一気に流れ込む。
月明かりと城壁の外れ。
そして、そこに立っていた人物を見た瞬間、思わず声が出た。
「――ヴァルディオ侯爵!」
ヴァルディオ侯爵は私を見ると、大きく頷いた。
「ネメシア嬢!」
すぐに手招きする。
「さ、こちらへ!」
その先には、一台の馬車が停まっていた。
装飾のない、質素な荷馬車。
商人が使うようなものだ。
私は迷わず駆け寄る。
侯爵が扉を開けた。
「急ぎましょう。兵が来る前に」
私は頷き、馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まり、御者が鞭を鳴らす。
次の瞬間、馬車は夜の街へ走り出した。
馬車の中は薄暗かった。
荷を積むための粗い木の床。
揺れるたびに、車輪の軋む音が響く。
外では馬の蹄が石畳を叩いている。
私は向かいに座る侯爵を見つめ、深く頭を下げた。
「……申し訳ございません」
声が小さく震える。
「貴方にも迷惑をかけてしまいました」
しばらく沈黙が落ちた。
やがて、ヴァルディオ侯爵が静かに首を振る。
「迷惑だなんて……」
穏やかな声だった。
「そんなことは思ってない」
私は顔を上げる。
侯爵は落ち着いた表情のまま続けた。
「むしろ、君が無事でよかった」
その言葉に、胸の奥が少しだけ揺れる。
けれど、すぐに不安が押し寄せた。
「ですが……」
私は膝の上で手を握る。
「この件がバレてしまったら……」
言葉が続かない。
王族への毒事件の容疑者を匿った。
それがどういう意味を持つのか、私にも分かる。
ヴァルディオ侯爵は、少しだけ息を吐いた。
そして、静かに言う。
「その時は、その時だ。心配しなくていいさ」
揺れる馬車の中で、その声は不思議なほど落ち着いていた。
車輪の軋む音が、静かに響く。
侯爵はしばらく外の様子を窺っていたが、やがて口を開いた。
「あの騒ぎの後でね」
低く、落ち着いた声。
「ユリウス殿下から呼ばれたんだ」
私は顔を上げる。
侯爵は苦笑するように続けた。
「ネメシアが処刑される。無理を承知ですまない」
一拍。
「助けてくれ――と」
その言葉に、胸が強く締めつけられる。
「殿下に頭を下げられるとは思わなかったが……」
侯爵は肩をすくめた。
「助けない理由なんて、ないからね」
私は思わず視線を落とす。
膝の上で、指先が震えた。
「……何をお詫びすれば」
言葉がうまく出ない。
ヴァルディオ侯爵は、ふっと笑った。
「はは」
懐かしむような声。
「出会った時も、君はずいぶん食い下がってきたね」
私は顔を上げる。
侯爵は穏やかな目でこちらを見ていた。
「では――」
一拍。
「今までネメシア嬢のおかげで、愛する妻と娘が戻ってきた」
静かな声。
「そのお礼と、させてくれ」
ヴァルディオ侯爵は、優しそうに微笑んだ。
その穏やかな表情に、胸の奥の緊張が少しだけほどける。
私は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
馬車は静かに進み続けている。
車輪の音と、馬の蹄の音だけが夜に響く。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがてヴァルディオ侯爵が、ふと思い出したように言った。
「今から向かうのは、辺境の地だ」
私は顔を上げる。
侯爵は窓の外を見ながら続けた。
「元々はね。ルミナが“のんびりできる場所が欲しい”と言い出して」
ヴァルディオ侯爵は、少しだけ苦笑した。
「用意した場所なんだ」
「人里からは少し離れているが、出入りする者がいても不自然じゃない」
そして、こちらに視線を戻す。
「だから隠れる分にも都合がいい」
一拍置いて続けた。
「ルミナやユリウス殿下が訪れても、不思議じゃない場所だ」
ルミナが所望していた場所。
ということは、彼女が訪れても不自然ではない。
そして、ユリウス殿下も。
あの二人が一緒に来ていても、怪しまれることはないだろう。
さらに、人里からは離れている。
もし私が脱獄したと知られても、兵がここまで探しに来る可能性は低い。
頭の中で、状況をひとつずつ整理する。
やがて小さく息を吐いた。
「……たしかに」
私は顔を上げる。
「問題はなさそうですね」
ヴァルディオ侯爵は、くすりと笑った。
「ここまで揃っていると」
窓の外へ目を向ける。
「君は、運がいいのかもしれないね」
私はすぐに首を振った。
「まさか」
思わず苦笑が漏れる。
その一言で、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
―――――――――
油断していた。
私は、この物語を知っている。
けれど――
それは、お姉様が卒業式で断罪されるところまで。
その先のことは、知らない。
だからこそ思っていた。
少なくとも、そこまでは大きな事件は起きないと。
「……まさか」
思わず小さく呟く。
「セシル殿下がこんなことになるなんて……」
視線をベッドへ向ける。
そこには、静かに横たわるセシル殿下の姿。
胸元には、まだかすかに治療の光が残っている。
容態は落ち着いていた。
命の危険は、もうない。
けれど。
「まったくもう」
私は小さくため息をついた。
「なんで、この男は大事な時に油断するのかしら」
呆れた声が漏れる。
「……お姉様に迷惑かけすぎよ」
血に濡れた床の上で。
セシル殿下を支えながら、必死になっていたお姉様。
顔は蒼白で。
手は、かすかに震えていた。
「お姉様……」
小さく呟く。
今回の事件は、お姉様が主犯じゃない。
そんなことは分かっている。
お姉様が、そんなことをするはずがない。
なら――
別の誰か。
私は、あの時の光景を思い出す。
祝宴の最中。
貴族たちと挨拶を交わしていた時。
ふと視界の端に映った二人。
お姉様と――
セレフィーナ。
胸の奥が、嫌な感覚でざわつく。
まさか。
まさか……。
「あの女が――」
これは、憶測でしかない。
けれど――
あの女には動機がある。
お姉様に向けていた視線。
――嫉妬。
私は静かに息を吐いた。
ここまでのことをするとは……。
そこまで考えて、首を振る。
だからといって、私が憶測であの女を糾弾したところで、何も変えられない。
証拠がない。
ただの思い込みだと言われれば、それまで。
拳をぎゅっと握る。
幸いなことに――
私は前から、お父様に頼んでいた。
「のんびり過ごせる場所がほしい」と。
表向きは、ただそれだけの理由。
王都の騒がしさから離れて、ゆっくり過ごしたい。
そんな、わがままな娘のお願い。
けれど、本当は違う。
私は、この物語の先を知らない。
お姉様が断罪されるその日より先に、何が起きるのか。
誰が敵になり、何が崩れるのか。
それを知らないからこそ。
万が一の時のための場所が、どうしても必要だった。
逃げ道。
――あるいは、隠れる場所。
だから、あの別邸を用意してもらった。
結果的に、それが役に立った。
……お姉様は、きっともうそこに向かっている。
最悪の事態。
――処刑。
それだけは、避けられた。
小さく息を吐く。
「ここからは……」
視線をベッドへ向ける。
静かに眠るセシル殿下。
「早く起きなさいよ……」
思わず呟いた。
「バカ王子」
そして、小さく続ける。
「お姉様を――
助けて」
更新遅くなりました!
次話はセシル視点を投稿します。




