後日談4:紡がれる糸、始まりの音
季節は巡る
あの涙と笑いに包まれた祝言から、早一年が過ぎた。
道場の窓から差し込む秋の陽光は、変わらず穏やかだ。
だが、この一年で俺の生活は劇的に変化した。
「静寂」が支配していた黒岩邸は、今や「色彩」と「生活音」に満ちている。
朝は台所から包丁を叩く音が響き、夜は二人で食卓を囲む。
かつては「修行の妨げ」としか思えなかったそれらの雑音が、今では俺の精神を安定させる最も重要な律動となっていた。
そして今年もまた、祭りの季節がやってきた。
俺は鏡の前で、真新しい晒を腹に巻いていた。
気合いを入れるようにギュッと締め上げるが、その手つきは以前よりも幾分か慎重だ。
なぜなら、今の俺には、自分の身体一つだけの命ではないからだ。
「……哲治さん、支度はできましたか?」
背後から、柔らかい声がかかる。
振り返れば、そこには大きなお腹を抱え、愛おしそうに撫でている帆乃花の姿があった。
今年は、彼女は祭りの列には加わらない。
当然だ。
彼女の体内には今、二つの新しい命が宿っているのだから。
検査の結果、「双子」だと知らされた時の衝撃は、あの寄り合いでの「三連撃」をも凌駕するものだった。
まさかこの歳で、二児の父になるとは。
人生とは、どこまで俺に予想外の試練と、それ以上の喜びを与えれば気が済むのか。
「……ああ、万全だ」
俺は彼女の元へ歩み寄り、その大きく膨らんだ腹部に、そっと手を添えた。
掌を通して、温かい熱と、確かな胎動が伝わってくる。
――ドクン。
力強い蹴りだ。
俺の手の中で、小さな命が「俺たちもいるぞ」と主張している。
「……元気だな。将来は二人とも、黒岩流の門下生か?」
「ふふ、女の子だったらどうするんですか? お三味線のお弟子さんかもしれませんよ」
「……それも悪くない」
俺は微笑み、彼女の瞳を見つめたかつては一人で背負っていた「伝統」や「誇り」。
それらが今、形を変えようとしている。
「帆乃花。やはり、今日は家で休んでいた方がいいのではないか? 人混みは危険だ」
「もう、またその話ですか? 大丈夫ですよ。お父さんとお母さんが付きっきりで見ててくれますし、家の二階から見守るだけですから」
彼女は頑固だ。
「哲治さんの晴れ姿を、この子たちにも見せてあげたいんです」と言われてしまえば、俺に反論の余地はない。
「……わかった。だが、絶対に無理はするなよ」
「はい。行ってらっしゃい、あなた」
「あなた」と呼ばれるその響きに、俺の背筋がスッと伸びる。
俺は法被を羽織り、玄関を出た。
秋晴れの空の下、遠くから祭囃子が聞こえてくる。
笛の音。
太鼓の響き。
かつて、三味線の糸は「蚕」が吐き出した無数の細い糸を束ね、強い撚りをかけることで作られると学んだ。
一本では脆く切れやすい糸も、束ね、絡み合い、撚り合わせることで、強靭な弦となり、美しい音色を奏でる。
(……ああ、そうか)
父から私へ。
私から帆乃花へ。
そして、まだ見ぬ子供たちへ。
我々の命もまた、途切れることなく紡がれ、撚り合わされていく一本の糸なのだ。
この町に根付き、伝統を守り、次世代へとバトンを渡す。
それがどれほど尊く、重く、そして幸福なことか。
かつて「痛み」に耐えるために噛み締めていた奥歯に、今は「希望」という名の力が漲っている。
俺は大きく息を吸い込み、青空を見上げた。
さあ、行こう。
愛する妻と、未来の子供たちが待っている。
俺の祭り(じんせい)は、まだ始まったばかりだ。
春嵐 ~堅物武道家の受難と雪解け~ 完
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