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1-5

「やっと、会えましたね。思っていた通りの方です。」


静かな声が夜気を震わせた。


「お、思っていた通り……?」


「はい。とても可憐な方でいらっしゃる。

お手紙の筆致が柔らかなので、若いご婦人なのではと勝手に想像しておりました。」


可憐。

こんな綺麗な人から言われると猛烈に恐縮してしまう。


ルナリアはどうにか返事をしようとして、口を開いた。

けれど喉が硬く閉ざされ、吃音の癖が容赦なく顔を出す。

こんな時にと焦るが、そうすればそうするほど音にならなかった。


どうしよう──

言葉が詰まったまま、唇が震え出す。

途切れた吐息がこぼれ、苦しくなった。


そのとき、そっと手を握られる。


「無理に話そうとしなくてもいいのですよ。」


青年は優しい光を瞳に宿し、微笑んでいた。

穏やかな声が胸を打つ。


「あなたの声は、すでにお手紙でたくさん聞いてきましたから。」


大きくて優しい手。

それだけで胸が熱を帯びてゆき、鼓動が速まった。

何だかこの人には、言葉にできなくても伝わりそう──そんな気がして、気持ちが解けていった。


微笑みを浮かべて、彼の顔を仰ぐ。

すると腕が引かれて前のめりに。

その次の瞬間には、もう腕の中に抱き寄せられていた。


「こうされるのは、嫌ですか?」


頭の中が白くなる。

だがすぐに落ち着きを取り戻し、首を横に振った。

嫌じゃない。

驚くほど自然なものとして、身体が受け止めている。

そして当然の行為であるかのように、腕を彼の背へと回していた。


「手紙を書いていたときから、あなたを抱きしめたいと願っていたんです。」


耳元で囁く声がくすぐったくて落ち着かない──でも。

胸が震えるほどの喜びを覚えていた。

同時に恥ずかしさも込み上げていたが、それでも気づけばしっかりと身を預けていた。


(……会えてしまった。)


これまで何度も言葉を交わし、思いを重ねてきた相手の腕の中にいる。

こんなふうに身を委ねていいのだろうか。

会ったばかりで抱擁を許すなどあり得ないのに――最初から決まっていた出来事のように思えた。

文を交わした年月が、すべてこの一瞬へと導いてきたのだと錯覚してしまうほどに。

逃げ場所を見つけたような安心感が、言葉よりも確かに胸の奥で震えている。


しばらくそうしていると、青年がゆるりと視線を振り向けてきた。


「……そういえば。」


その声に顔を上げる。

藍色の瞳が月光を含んで揺れていたので、視線は自然とそこに吸い寄せられた。


「こんなふうに抱きしめ合っておきながら、あなたのお名前を伺っておりませんでした。」


はっとして口を開く。


「そ…………そう……でしたね……」


吃音の癖が出て何度か言葉がつっかえたが、それでも最後まで言い切ることができた。

青年は目を細める。

そして花びらが溢れんばかりの極上の笑顔を彼女に見せてきた。


「ラミエル………ウィスタリアと申します。」


わずかに言葉を選ぶような間。

けれどルナリアは、その揺らぎに気づく余裕もないほど緊張に囚われていた。


「西部の、とある地方出身の騎士です。」


「ウィスタリア卿……」


そう呼ぶと、彼は少し困ったような顔をして笑う。


「ラミエルで構いません。堅苦しい呼び方は、少し落ち着かなくて。」


ルナリアの手を取った彼は、十指を絡ませてきた。

ひとつひとつの骨ばった感触が伝わってきて、鼓動が暴れ出す。

名を交わしているだけのはずなのに――なぜだか秘密に触れたような、背徳めいた熱が頬を染めた。

視線を上げると、答えを待っているかのように彼の瞳がじっとこちらを見ていた。


「わ……わたしは、ルナリア…………プレセア、と申します。アウレリア宮で、女官を。」


「ルナリアさん……素敵なお名前ですね。その響きも、お姿も、月を思わせます。」


そう言われると猛烈に恥ずかしくなり、視線が揺れる。


「わたしのことも……呼び、やすいように、呼んでください。」


言葉を探しながら告げると、ラミエルは少し首を傾げた。


「呼びやすいように、ですか?」


「“ルナリアさん”だと……わたしも、落ち着かなくて……」


ルナリアは視線を泳がせながら小さく答える。

その様子に、ラミエルは口元を綻ばせた。


「愛称は……“リア”?それとも“ルナ”?」


「あまり、愛称で、呼ばれることは……」


告げる声が小さく震える。

ラミエルはしばし思案するように目を伏せ、やがて顔を上げた。


「それなら、わたしがあなたに愛称を付けても、よろしいですか?」


「あなたが、つ、付けて……くださるの?」


幼いころから他人と距離を置いてきたせいで、愛称を与えられることなどなかった。

小さな期待が膨らんでゆく。


ラミエルは彼女の名を口の中で味わうように転がした。


「音を少しほぐしてみましょう。

“ルナ”──美しいですが、響きがすこし強い。

“リア”──軽やかですが、どこか頼りない。

“ナリア”……呼ぶのには少し長いですね。

“リナ”……あなたではない気がする。“ルネ”……これも違う。

もう少し──やわらかい音が似合いそうですね。」


一拍置き、微笑を深める。


「たとえば……“ルゥ”。」


呼ぶ声が、月明かりの上で静かにほどけた。

ルナリアは目を見開く。


「ルゥ。」


今はもういない人たちが、かつてそう呼んでくれた懐かしい響き。

あまりの偶然に喉の奥が詰まり、声が出せなくなる。


「どうしました。何か気に障ってしまいましたか?」


固まっているルナリアに、ラミエルは慌てて声を掛けてきた。

我に返った彼女も、あわあわと狼狽える。


「ち、違うんです。な、懐かしい人たちを、少し思い出してしまって……」


「すでに呼んでいた方がいらしたのですね。でしたら、やめましょう。」


首を横に振り、揺れる声で答えた。


「いいえ、どうか……ルゥと呼んでくださいませ。

それが一番、わたしには馴染む気がしますから……」


ラミエルは目を丸くする。


「大切なお名前のように思えますが、わたしなどに許してしまっていいのですか?」


ルナリアは胸元を強く握り、首肯した。


「……あなたなら、いいです。」


その名前は、無条件に自分を受け入れてくれた人たちのぬくもりと繋がっている。

ほかの呼び名など考えられない。

彼がそう呼んでくれるのなら──その優しい記憶に、彼の声も刻まれる。


「それなら、わたしのことも“ラム”と呼んでください。」


「ラム……?」


不思議そうに目を瞬かせるルゥに、ラミエルは静かに告げた。


「亡くなった母だけが、そう呼んでいました。よければ……あなたにも呼んでほしい。」


「い、い、いいんです、か? お母様だけの、特別なお名前なのでしょう?」


「あなたはわたしに特別を許してくださったのだと見ています。だからわたしも同じようにしたい……嫌でしょうか?」


ラミエルは首を傾け、嬉しそうに目を細めている。

ルナリアは首を強く横に振った。


「い……嫌じゃ、ありません。」


自分の大切な名を委ねただけでなく、彼からもまた特別を託された──その事実が嬉しくて仕方がない。

頬が緩んでしまうのをどうしても抑えきれず、笑ってしまう。

零れた笑みに、ラミエルは囁いた。


「やっと笑顔を見せてくださいましたね。」


腕が肩を包み込んでくる。

どう振る舞えばいいのかわからず、ルナリアは戸惑った。

けれど、離れるのは違うような気がしたので、胸に手を添えて身を預けてみた。

ラミエルの手が髪へと伸び、愛おしむように撫でられる。

そのぬくもりの中で、彼は静かに息を吐いた。


「不思議なものです。会ってお話をするのは初めてなのに、違和感がなくて……まるで、ずっと前からあなたとこうしていたような気がします。」


同じことを考えていたと、熱った頬を擦り寄せる。

普通だったら、絶対にあり得ない。

でも理屈ではなく、こうしていたい気持ちだった。

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