1-6
ぬくもりが、ゆっくりと染み渡っていく。
違和感がない。
ずっと前からこうしていたと言われても、信じてしまいそうなほどに。
「ルゥ、手紙を重ねるうちに……いつの間にか、あなたをお慕いするようになっていました。
だから……こうして来てくださったことが、嬉しくてたまらないのです」
はにかむように微笑むその姿が眩しくて、胸が熱を帯びる。
「迷いながらも、こうして来てくださいましたね。
そして、今もこうして触れることを許してくださる。
あなたも、私と同じ気持ちを抱いていると……自惚れてもよいのでしょうか」
ルナリアは唇を震わせた。
「わた、私は……あなたの……ような、素敵なかたと……お、お会いできただけで………」
言い切れず、言葉が迷子のように彷徨う。
それを追うように、ラミエルは言葉を重ねてきた。
「会えるだけで、満ち足りる──お会いするまでは、私もそう思っていました。
ですが、こうして手を伸ばせば触れられるあなたを知ってしまいました。
いまは、それだけでは足りなくなってしまったのです。
どうか時々で結構です、こうしてあなたを訪ねる口実を私に与えてはいただけませんか」
突然の申し出に、面食らう。
ラミエルはひと呼吸置き、自嘲気味に微笑んだ。
「単なる文通相手から、交際を求められるなど……迷惑に感じられるかもしれません。
でも……ひとのあたたかさを知ってしまった今、
文を交わす以前の、あの寒々しい世界にはもう戻れそうにないのです」
その一言が、ルナリアの胸を強く揺らす。
自分もまさに、同じ状況だったからだ。
親戚の家でも、皇宮の片隅でも、彼女は誰にとっても意味を持たない存在でしかなかった。
それが人生なのだと受け入れ、温度を失った世界に身を留めてきた。
ぬくもりを感じられる場所などある筈がない──そう信じていたのだ、手紙を交わすまでは。
思い返せば──
最初の一通からずっと、自分たちはどこか似ていた。
幼い頃から抱え続けてきた、罪人の娘という十字架。
幸福になってはならないのだと、幾度となく言い聞かせてきた。
手紙は決してそれを語らなかったが、彼もまた同じように深い翳りをその身に宿している。
言葉の端々にはいつも静かな痛みが滲んでいたからだ。
だからこそ、ささやかな言葉であっても救われていたのだろう。
気づけば互いの言葉だけが、凍えた心を温めてくれていた。
それが三年という歳月となり、いつしか簡単にはほどけない絆を編んでいた。
(状況は……後からついてくるものだ)
胸に手を当てながら、目を伏せる。
自分が求めているものは何なのだろうと考えれば、答えはもう見つかっているのだと気づいた。
目の前には、同じ寒々しい世界を生きてきた人がいる。
その人が口にした「戻りたくない」という言葉があまりに自分と重なって、胸に深く刻まれた。
こんなふうに心を揺さぶる人に、この先また出会えるだろうか。
そう思ってしまっても、今だけは許されるような気がする。
だから願ってしまってもいいのかもしれない。
この先も、このひとと心を重ねていくことを。
「……私の手紙、あなたの心を……あたためることが、できていましたか?」
ルナリアは息を詰めながらも、真っ直ぐに問いかけた。
ラミエルは口角を引き上げ、淡い笑みを浮かべる。
「私の方こそ、同じことを問いたい。
私の言葉は、あなたをあたためられていたのだろうか」
「そうでなければ……三年も続いていません」
声を震わせて、胸の内に浮かんだ言葉を紡ぐ。
「あなたのお手紙は、本当に優しくて……どれほど慰められたことでしょう。
もし私の世界が氷の世界だとするなら、あなたの言葉は確かに――私の凍えた心を、あたためてくださいました」
「私も同じです。
死ぬまで凍りついたままだと諦めていました。あなたの優しさは、たやすくその心を溶かしてしまった」
ルナリアは胸元を強く押さえ、震えながらも視線を上げた。
「で、でしたら……望んでも、いいのでしょうか。これからも……あなたと心を共有していくということを」
声音は儚いながらも、揺るぎない熱を秘めていた。
ラミエルはわずかに眉を動かし、問い返す。
「それは……友として?それとも──」
「う、うまく言えませんが……もっと、近い存在として。友人で終わるには、あまりに物足りない、です……」
途切れがちに紡がれたその言葉。
だが言い終えるころには、どこか晴れやかな決意が宿っていた。
その瞬間、ラミエルの瞳が輝きを帯びる。
「喜んで」
弾けるような笑顔が顔いっぱいに広がった。
まるで長いあいだ胸に抱えていた願いが、ようやく叶った子どものように。
思い描いていたよりも、ずっと無邪気な笑顔だった。
その屈託のない表情に、ルナリアも思わず頬を緩める。
しばらく見つめ合った。
彼の容姿のあまりの美しさに、ルナリアはまた息を詰める。
浮世離れした顔立ちは、見ているだけでため息が溢れてしまうほどだ。
でも決して女性的なものではなく、美しさの中に強さを感じさせる男性の輪郭がある。
──多くの女性を惹きつけてきたのだろうに。
なぜ自分など、と卑屈になりかける。
何かの間違いではないかと、不安まで頭をもたげた。
だというのに、その眼差しには迷いがない。
「夢にまで見ていました。こうして現実に、あなたと向き合える日を」
「さ、さぞがっかりなさったことでしょう。このような冴えない女で……」
ルナリアは寂しげに笑った。
そんな彼女に、ラミエルは片目を瞑ってみせる。
「もっと早くこうしていればよかった。
そうしたら、あなたの笑顔をもっと早くに知れたというのに。
筆を絶たれたらと思うと……言い出せずにいました」
「そ……そうでしたか?その割には、随分と情熱的なお手紙をいただいていたと、思っていましたが」
「あれでも、書き直したのですよ。それこそ何枚も。
気が付けば“好きだ”と綴りかけ、慌てて書き直す羽目になっていました。
顔も見ないうちからそんなことを言う男など、信用ならないでしょう?
どうすれば会っていただけるのかと……独りで滑稽なほど悩み続けていたものです」
「まあ」
吐息とともに驚きが零れる。
勇気がないなどとは夢にも思わなかった。
あの熱のこもった言葉の裏に、そんな逡巡が隠されていたとは──意外で、そして愛しくもある。
「それにしても、私は幸運に恵まれている。
まさか文通相手が、こんなにも可愛らしい女性だったとは」
「か、可愛らしい、だなんて……」
ルナリアは慌てて顔を覆い、耳まで赤く染めた。
「本当のことですよ。
だってあなたは、妖精のように愛らしいお姿をしていらっしゃるではありませんか」
「よ、妖精は……さすがに、い、言い過ぎかと……」
「そんなことはありません」
ラミエルはさらに言い募る。
「お見えになったとき、あまりに眩しくて──月の精が降りてきたのかと思いました。
一度ならず二度までも、あなたに恋をしてしまったようです」
──恋。
胸に矢が突き刺さったかのような心地だった。
恐ろしく甘い言葉に反則級の笑顔。
耳どころか、首まで赤くなっているのが自分でも分かる。
「文を読んで、思い描いていたままでした。
穏やかな眼差しも、柔らかい物腰も、恥ずかしがり屋なところも。
ただ、その可愛らしさだけは手紙では伝わりきっていませんでしたね」
「あ、あなたは……褒めるのが、お上手すぎます……」
「思ったことを、そのまま口にしているだけなのですが」
真っ直ぐすぎる言葉に、まともに顔を見ることさえできなくなってしまう。
「あ、あなたは……少し違う印象かも」
「違いますか?例えばどのようなところで、そう思われたのでしょう?」
ルナリアは恥ずかしそうに視線を落とす。
「想像していた以上に……凛々しくて。む、胸が……落ち着かないです……」
ラミエルは虚をつかれたような顔をしたが、すぐに笑顔になる。
「ルゥ。そんなことを言って、私を調子に乗らせてはいけませんよ」
ルナリアの手を取り、そのまま自らの胸へと導いた。
涼やかな顔をしているのに、掌越しに伝わる鼓動は驚くほど早い。
「ラム……?」
「笑わないでくださいね。
あなたが予想外のことを仰るから、心臓がうるさくて困っています」
ああ、どうしてこんなにも、この人の言葉は心に届くのだろう。
堪えきれず繋いだ手に力を込めると、彼も応じるように握り返してきた。
互いの笑顔が重なり合い、胸の奥で喜びが弾ける。
「こんな気持ちになるなんて……思ってもいませんでした。ただ隣にいてくださるだけで、満たされてしまうなんて」
「わ、私も……あなたと同じ気持ちでいます……」
「あまり試さないでください。そんなことを言われたら、舞い上がってしまう」
そう呟いたラミエルは、そっとルナリアを抱き寄せた。
彼女も熱った頬をその胸へ預け、彼の背に手を添える。
互いの心を温め合うように、
しばしの間、二人は静かなぬくもりに身を委ねていた。
夜風が髪を撫で、静かな空気がその余韻を深く刻む。
春の夜は、ただ二人のために在るかのように佇んでいた。
澄み渡る空には月が輝き、星々が静かに瞬いている。
その光は寄り添う二人を淡く照らし、足元の影をひとつに結んでいた。
この日を境に、二人は密やかな逢瀬を重ねるようになる。
長いあいだ凍える場所を彷徨ってきた二人の心は、手紙を通して少しずつ触れ合い、ついに温もりを分け合うまでになったのだ。
逢瀬のひとときはひどく甘美で、交わした言葉も、沈黙さえも、静かな喜びとして夜の深みに降り積もっていった。
けれど同時に、それは長い冬のあとに訪れた儚さを抱く春のようでもあり、どこか頼りなくて壊れやすいものにも思えた。
抱き寄せた温もりが、いつか音もなく消えてしまうのではないか。
そんな不安が、いつも暗闇の底で息を潜めていた。
それでも二人は夜ごと互いに手を伸ばして、寄り添い続ける。
やがて訪れる終わりを予感しながらも、束の間の春を惜しむように、不安と背中合わせの幸福の中へと沈んでゆく。
*
それは五年前。
北東の地ヴァルティスで起きたこと。
大量の捕虜を抱えた中で疫病が発生。
混乱に乗じて一部が暴動を起こしたゆえ、鎮圧のためにやむなく武力行使を許可した。
自分はただ、鎮めることを命じただけだった。
だが現場は暴走。
降るはずのない火砲が空を裂き、無辜の命を巻き込んだ。
収容所もまた被害を免れず、捕虜を別の地へ移送することに。
さらに移送においても命令がねじ曲げられ、飢えた捕虜は飲まず食わずの行軍を強いられる。
結果、多くを死へ追いやった。
出すはずもない命令。
それが、いつの間にか自分の署名と印璽をもって、事実とされた。
随所で蒔かれた悪意の種が芽吹き、やがて揺るぎない虚構を作り上げていったのだ。
虚構は自分を虐殺者に仕立て上げた。
ヴァルティスで数千の捕虜を虐殺した男。
真実がどうであれ、人々の口に上るのはその名である。
宮廷では冷笑と侮蔑が降りかかり、市井では恐怖と憎悪が囁かれる。
そのどれもを否定する術は、もはや残されてはいなかった。
もし「狂犬」が自分だと彼女が知ったなら、どう思うだろうか。
抱き寄せたこの腕を、恐れて振りほどくのか。
軽蔑の眼差しを向けるのか。
それとも──二度と会いたくないと告げるのか。
とてもではないが言えない。
言葉にする時は、おそらく別れを告げる時だろう。
それでも、この嘘にすがるしかないのだ。
手の届かない存在だった彼女を、やっとこの手に抱いたのだから。




