4-6
禁制薬《灰華》
その名を口にするだけで眉をひそめられるほど、帝国では忌まわしい薬物とされている。
使えば、まず痛覚が鈍る。
そして、多幸感や万能感に包まれる。
戦場では便利な薬だ。だが、使用を繰り返せば中枢神経が蝕まれていく。
肉体の限界を超えて動き続ける代償に、やがて心と命が奪われてゆくのだ。
兵士たちの間では「生きた屍を作る毒」として恐れられ、使用も製造も禁じられていた。
……にもかかわらず、それは度々姿を現していた。
市井から、軍の末端に至るまで。
まるで誰かの手によって、流し込まれているかのように。
出処は不明。
追跡を試みた者もいたが、手がかりはすべて途中で断たれていた。
《灰華》を製造しているのは、敵国ベル・トラーナ。
だが、それを帝国内部に運び込んでいたのは、敵ではなかった。
宮廷の上層──権力の中枢に連なる者たちが、自らの懐を満たすために敵の毒を国内に招き入れていた。
彼らは軍需商会を隠れ蓑にして、敵国との間に密かな取引経路を築いていた。
名目は医療物資の調達。
書類上はどれも正規の手続きが整えられており、軍務院・港湾局・内務院──三つの機関を横断する許可印が揃っていた。
港に着く荷にも治療物資の標章が押されており、誰も疑わなかった。
しかし箱の底には、乾いた灰色の結晶が詰められていた。
こうして密輸の仕組みが整うと、誰にも手を入れることはできなかった。
検査官は上層の命令に従い、輸送記録は都合よく書き換えられ、証拠を追えば必ずどこかで帳簿が消えた。
それは単なる密輸ではない。
官庁と商会と貴族が結託して作り上げた、ひとつの“体制”そのものだった。
帝国の法がいかに禁じようと、利益は人々を黙らせる。
一隻の船で運ばれる薬の値段は、前線の兵一万人の命に匹敵した。
帝国の財が、毒によって回っている。
彼らは国を蝕みながら自らの私腹を肥やし、血に塗れたその手で杯を掲げていた。
皇太子ナイジェルは、それらの貴族たちの後ろ盾によって地位を得た。
彼らにとってナイジェルは操りやすい旗印であり、ナイジェルにとって彼らは玉座に至る足場だった。
《灰華》の密輸は、取引の見返りとして黙認される。
いや、黙認というより、共犯と言ってよかった。
取引で得た利益の一部は、礼金の名目で皇太子の金庫へと流れ込む。
名目は“戦費調達”──実態は毒の利権だった。
それに留まらず、ナイジェルは貴族たちを介して敵国と“暗黙の協定”を結んだ。
表向きは戦線の安定を名目とした接触。
しかし実際は《灰華》の流通経路を保全するための裏協定だった。
彼の側近が情報の取捨を担い、軍務院の機密を“統制”の名で管理下に置く。
その過程で、敵国が求める情報だけが不自然なほど正確に漏れていた。
偶然ではない。
意図的に作られた、流出の仕組みだった。
そして時に、戦の勝敗すら操作された。
現場の人間たちは何も知らされぬまま、情報の漏洩によって敗北を喫していた。
そしてその敗北が、密輸の継続と利益の保証にもなっていた。
また貴族たちは“損失補填”の名で莫大な補給金を得ており、兵を引かせるたびに金が動いていた。
戦争は、もはや国家の闘いではない。
皇太子とその取り巻きが支配する、一つの巨大な商取引になっていた。
実態は、国を売る背信そのものである。
しかし誰も咎めることができなかった。
なぜなら咎めるべき者たち自身が、その金で食い扶持を得ていたからだ。
帝都の静けさを破ったのは、ほんの些細な出来事だった。
港湾監査局の一人の書記が、帳簿整理の際に古い検閲報告書を見つけたのだ。
それは本来なら、廃棄済みになっている文書のはずだった。
だが、綴じ紐だけが新しく取り替えられており、誰かの手が最近加えられたことを示していた。
不審に思った書記が上司に報告し、確認が行われる。
そこには、帝国軍の定期便を装って密輸が行われていた形跡が記されていた。
署名、印章、記録番号──すべて正規の体裁を備えている。
ほぼ同じ頃、軍務院の監察官の机に差出人不明の封筒が置かれていた。
封の中には、軍の輸送命令書の写し。
日付も印章も正規のものに見えたが、記された行き先だけが地図上のどこにも存在しない場所だった。
また数日後、財務院の会計局で小さな不整合が報告された。
定例の出納照合の際、古い台帳の記録に齟齬が見つかったのだ。
担当の書記が念のため過去の帳簿を調べ直すと、支払と受領の数が合わない箇所が幾つも浮かび上がった。
追って調べるうちに、ある貴族が代表を務める商会から皇太子の金庫役へと、多額の金が断続的に流れていたことが判明する。
名目は「補填」「前渡」「戦費の再配分」──どれも曖昧な言葉で処理されていた。
どの書類も、封筒も、同じ筆跡ではなかった。
印も封蝋も異なる。
複数の手によって、別々の時期に作られたようにも見えた。
しかし不思議なことに──どの資料も、同じ点を指していた。
それぞれが独立して行動しているようで、見えない糸で導かれるように集まっていった。
港湾、軍務、財務の三機関が、それぞれの調査結果をまとめて提出したのは同じ週のことだった。
形式上の照合を行うため、すべての報告が中央監査庁へと回される。
そして。
中央監査庁の書記が三つの報告書を照合したとき、彼の指先が止まった。
三つの文書、いずれにも同じ承認印が押されていたのだ。
皇太子の側近の印影。
さらに、関係書類の端には高位貴族たちの家紋が並んでいる。
加えてすべての報告書には、同じ“文書記号”が記されていた。
本来なら部署ごとに異なるはずの符号。
それが、同じ筆跡で書き込まれているのだ。
「……同じ?」
それは誰かが仕掛けた“証拠の糸”。
誰の手によるものなのかは分からない。
だが、その糸がこれらの報告書の繋がりを書記に悟らせていた。
書記の報告は、即日監査長官の手に渡った。
長官は三機関に照会をかけ、記録の正当性を確認するよう命じる。
その過程で、照会命令書の副本が誤って貴族評議院の書記局にも送付された。
実際には“誤送”ではなかったが。
さらに命令書の一部が抜き取られ、どこからともなく文書局にも届いた。
文書局は、受領したすべての文書を写本して保管し、同時に“控え”を軍務院・財務院など各主要機関に配る決まりとなっている。
今回も同じ手順で写しが机の上を渡り歩き、やがて帝都の官僚たちの手に渡った。
「皇太子関連財務記録」「貴族商会」「密輸便」
これらの内容が記載された写しは、人々の目に焼きついた。
そして帝都の上層を震撼させる噂が立つ。
皇太子が不正な資金の授受に関与していたというのだ。
噂は官庁を駆け抜け、報道関係、貴族たちの社交場をも巻き込んでいった。
最初に火を点けた者の名は、誰も知らない。
ただ、その広がり方が異様だった。
まるで誰かが、風の向きを計算して焚きつけたかのようだった。
中央監査庁は、皇族財務の収支全般について再調査を決定する。
皇太子陣営は激しくこれに反発し、宮廷内に再調査命令の撤回を求める書簡が飛び交った。
だが監査庁は一歩も退かない。
「国家財務の監査は、皇族といえど例外ではない」
そう言い放ち、押収令を発する。
対象となったのは、皇太子の財務を取り扱っている部署をはじめ、宮廷財務局の帳簿、軍務院の物資記録、さらには港湾経由の商会記録に至るまで、多岐に及んだ。
書庫から運び出された文書の束は、小山のように積み上げられたという。
その中に、一見どこにでもある港湾取引用の帳簿があった。
表題には〈物資補給協定〉と記載されたもの。
その末尾には、皇太子の顧問印と並んで見慣れぬ公印が押されていた。
調べてみると、それは敵国ベル・トラーナの庇護下にある商会のもの。
さらに照合を進めるうちに、関連書類が芋づる式に見つかっていった。
同じ印を使った契約書、同じ署名の入った輸送証明書、そして取引経路を記した物資台帳。
どれも皇太子、及び陣営に属する者の名義で、正規の手続きとして処理されていた。
皇太子が敵国と通じていた──
その報せは、帝都を覆うように広がってゆく。
数日のうちに、皇太子は姿を見せなくなった。
宮廷は「長期療養のため」と発表する。
そして関わった高位貴族たち。
ある者は官職を辞し、
ある者は減刑を願って財産を差し出し、
ある者は屋敷を閉ざし、
ある者は国外へ逃げ、
ある者は“病死”として葬られた。
こうして宮廷は火消しを図った。
だが、沈黙したのは宮廷だけだった。
民衆の間では、燃えるような噂が駆け巡る。
「皇太子が敵と通じていた」
「貴族が兵を毒で殺していた」
「戦も八百長だった」
連日、抗議と糾弾の声が響いた。
最初は小規模な集まりだったが、数日のうちに数千人規模の群衆へと膨れ上がる。
宮殿へと続く大通りは人で埋め尽くされ、馬車などが立ち往生する場面も現れた。
「こんなことが許されていいのか!」
「答えろ!何を隠している!」
怒声と罵声が飛び交う中、宮殿前を守る衛兵たちは沈黙を保ったまま銃剣を構えている。
だが、誰も民衆にそれを向けることはできなかった。
帝都は、今まさに火の中にある。
ナイジェルは沈黙を貫いた。
かつて彼を支えた貴族たちも口を閉ざし、後見役たちは“病”と称して屋敷に籠もった。
宮廷に残ったのは、ただ「ご静養中」という建前だけだった。
そして、ある者は呟き始める。
「……シアトリヒは、まだ見つからないのか?」
執務室。
壁に掛けられた地図を前に、彼は狼狽えていた。
視線は彷徨い、何かを探しているかのようだった。
「あやつなら、この混乱もなんとか収められたはずだ。」
聡明なもう一人の息子ならば、きっと立て直せた。
見捨てたことすら忘れ、無意識に救いを求めている。
だが、すでに時遅し。
──ここは、国境にほど近い小さな町。
冷たい風が、石造りの通りを抜けている。
街外れの食堂で、ふたりの旅人が湯気の立つ皿を囲んでいた。
ラミエル──かつてシアトリヒと呼ばれていた男は、黙々とスープをすくっている。
向かいでは、ルゥが千切ったパンを幸せそうに頬張っていた。
背後の席から、旅人たちの噂話が漏れてくる。
「帝都、大騒ぎらしいぞ。どうやら上の方まで火が回ってるってさ。」
「ああ、皇太子さまがやばいらしい。どっかに消えちまって姿を見せてないとか。」
「前にも似たようなことがなかったか。たしか、その兄貴のときだ。」
「ああ、兄弟で頭がおかしかったんだな。」
彼らの話を聞いたラミエルの手が、一瞬止まった。
だがその後で、彼は静かに笑いだす。
不敵に、どこか愉快そうに。
──事の発端は、まだ南部戦線を転々としていた時期だ。
当時、部下たちの間で蔓延する違法薬物に彼は頭を悩ませていた。
発覚すれば軍法会議の後、即日死刑。
にもかかわらず、それは何度も“どこからか”戻ってきた。
奇妙に感じた彼は、独自に出所を調べ始める。
そして長い時間をかけて繋いだ証拠の先にあったのは──弟とその周囲の者たち。
暴くのには、いくつかの問題があった。
証拠はあるが、証人がいない。
出せば“負け犬の嫉妬”と笑われる。
不安定な立場の自分では、叩けば消される可能性が高い。
つまらない内部告発に終わるかもしれない。
だから彼は、それらを抱えて沈黙した。
ただ一人、ヴァルツェンにだけ打ち明けて。
自分の身に何かあれば、あれを使え。
そう言って彼は、調査結果の全てをヴァルツェンに託したのであった。
「ラム、どしたの?」
笑うラミエルを見て、ルゥが問いかける。
「ん?どうやら、帝都で季節外れの花火が上がったみたいだね。」
「花火?」
「そうそう──天井を一息で吹き飛ばす、ちょっと手の込んだやつさ。」
「?」
不思議そうに首を傾げるルゥに、ラミエルは肩をすくめて笑ってみせた。
そして、思う。
(……ヴァルツェンめ。)
きっと例の灰色の瞳に、あの薄笑いでも浮かべているに違いない。
「借りは返した」とでも言いたげな顔で。
それもきっちり、寸分の誤差もなく。
ラミエルは胸裏でひとりごちて、思考を閉ざす。
「さあ、そろそろ宿に戻ろうか。準備が整ったら、いよいよ国境を越えるよ。」
手を繋いで歩く夜道。
夜気は澄んでいたが、肌を刺すように冷たい。
それでも、二人の歩調は揃っていた。
かつての栄華も帝国の重苦しい金殿も、もう遠い。
例の花火が盛大に打ち上げられたおかげで、追跡の手は緩むはずだ。
あれほど自分を嘲っていた場所が、いまや己の置き土産に右往左往している。
その滑稽さを想像すると、胸の奥が少しだけ軽くなる気がした。
「君の作った煮込みが恋しいな。」
「じゃあ、国境を越えたらいっぱい作ります。」
「ああ、大盛りにしてくれ。」
笑い声が、冷えた空気に溶けてゆく。
そこにはもう過去を縛る影はない。
突き抜けたものが持つ、澄んだ明るさがあった。
(これでいい……いや、これがいい。)
ラミエルは導くようにルゥの手を引く。
その歩みはどこか軽快で、弾んでさえ見えた。
まるで自分のあるべき場所へ、ようやく帰っていくかのように。




