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ふたりはいくつもの山道を越え、峠を下り、村々の外れを掠めて進んだ。
ときには谷へ逸れ、川を渡り、森の中を抜けていく。
地図などなくとも、ラミエルには道の勘があった。
逃げ場を読む眼と、逃げ道を選ぶ足。
それだけを頼りに、彼らは帝国西部にある国境を目指していた。
宿場では、ときに商いの途上にある旅人のふりをして通過する。
果実を手に取り、街角で小銭を数え、ふたりはあくまで目立たぬ若夫婦を演じていた。
それでも、油断はできなかった。
とある宿場の市に紛れたときのこと。
市場の角で休んでいたふたりに、巡回中の警備隊のひとりが近づいてきた。
「すまん、ちょっと。」
声を掛けてきたのは若い隊士だ。
擦り切れた革の外套を羽織り、腰には巡回用の短い警杖を提げている。
手には、使い古された一枚の紙。
ルゥの髪を見ており、続いて視線はラミエルへと移った。
「その髪、銀色だよな。」
彼は目を光らせたが、表情は崩さず応じる。
「ちょいと珍しい色ですよねぇ。でも……かわゆいでしょ?
だから嫁にするの大変だったんです、ほんとに。」
あたかも内輪話でもするような口調で戯けてみた。
役人の視線がふたりの間を行き来する。
「うーん、最近この人相書が出回っててな。」
そう言って紙を広げる。
そこには粗い筆致で描かれているふたりの姿があった。
切る前の髪型だったが、それでも何となく顔の特徴を捉えている。
内心で冷や汗を掻きながらも、ラミエルは笑顔を繕った。
「いやぁ、似てるってだけで疑われたら、やってらんないですよ。
おいらはエレンヴィルトの方から来てて、小物なんか作ってるしがない職人でさぁ。
名前はトーヤ、嫁はミナ。
今日は嫁の姉さまが嫁いだ先に顔出すついでに、ちょいと荷物を届けに来ただけでして。」
隊士は眉を顰めたまま、人相書と見比べている。
「……職人か?」
「見てもらった方が早えかな。」
そう言って、ラミエルは肩の袋を開け、包んでいた布をほどいた。
中から取り出したのは、掌ほどの木片。
柔らかな曲線に沿って精緻な模様が刻まれており、椅子の背板に嵌め込むにはちょうどよい大きさをしていた。
「椅子や箪笥の飾りにちょっと嵌めるだけで、雰囲気変わるんだ。
うちじゃこういうの拵えてて、村の小商いや宿の修繕なんかに使ってもらってます。」
木片は、道すがら立ち寄った宿場で手に入れたものだった。
それは、かつて第一皇子と呼ばれた男に染みついた慎重さの現れでもあり、追われる者として生き延びるために磨かれた、冷静な予見の結果でもあった。
旅の途上で素性を問われることもある。
そのときに備え、彼は身を偽るための“仕事”をひとつ仕立てておいたのだ。
「ほう……なかなかうまいもんだな。」
彫りを撫でながら、感心したように呟く。
「どうです?今ならお安くしときますけど。」
ラミエルが冗談まじりに笑いかけると、彼の表情も少しだけ緩む。
「いや、いいよ。うちは間に合ってる。疑ったりして悪かったな。」
「いえいえ、お役目ご苦労さまです。」
隊士は紙を畳み、群衆の中へと戻っていった。
「……行ったぞ。」
見送るふたりの間に、ようやく安堵が訪れる。
声を落として言うと、ルゥはほっと息を吐いた。
「あの人相書……」
「危なかったな。」
ラミエルは苦く笑う。
「髪、染めた方がいいのかもしれませんね。」
そう零したルゥにラミエルはすぐには応えず、手を引いた。
市場の喧騒を離れて脇道へ入る。
建物に囲まれた一角は人気がなかったので、そのまま進んだ。
さりげなく周囲に目をやったあとで、ラミエルは足を止める。
「それなんだが。俺は、染めなくていいと思ってる。」
ルゥは驚いたように顔を上げた。
「また、こういうことがあるかもしれないのに?」
「不自然な変化は、かえって目につく場合もある。」
それに──と続けながら、彼女の髪に視線を落とす。
「君の髪はそのままでいい。本当は切るのも惜しかった。」
ルゥが一瞬、言葉を失った。
わずかに俯いた横顔には、赤みが差している。
その小さな変化に、ラミエルは気づかぬふりをしてやった。
「だから、髪じゃなくて他を変えよう。」
「ほか?」
「少しの間だけ、性別を変えてみないか。
服を替えて声を出さずにいれば、誰も詮索しない。」
狼狽える彼女の肩に手を置くと、ぎこちない笑みが返される。
「が……頑張ってみます。」
こうして彼女は、少年に扮して旅を続けることになった。
また峠を越え、谷を渡り、幾つかの宿場を通過した。
人混みの中を歩き、市を訪れる人に紛れて、街を通り抜けてゆく。
しばらくは、それでうまくいっていた。
人相書を手にした者とすれ違うこともあったが、目を留められることはない。
旅人の往来は多く、似た顔などいくらでもいる。
そう見せかけて、ふたりは人の中に溶け込むように心がけた。
けれど──
そうすればそうするほどに、ルゥは元気をなくしてゆく。
ただ歩くだけのことでも周りを気にしながら歩くことは、予想以上に負担が大きかったのだ。
加えて、幾夜も森の中で眠ることが続いていた。
野営に慣れたラミエルとは違い、冷たい露に晒されながら一夜を過ごすことは過酷だったのだろう。
野道を歩いている最中に彼女はとうとう動けなくなった。
立ち止まって、その場でしゃがみ込んでしまう。
「どうした、ルゥ!」
「何だか、足が進まなくて……」
顔色は明らかに悪い。
額に手を当てれば、はっきりと熱を感じる。
「どうして熱があることを言わなかった?」
「ごめん、なさい……すぐに良くなると思ったの……」
ラミエルは悔いた。
彼女は帝都を出てから、一度も「具合が悪い」と口にしたことがなかったことに思い当たったのだ。
でもそれは強さでも気丈さでもなく、ただそうするしかなかったのだということに気付いた。
罪人の娘として虐げられ、誰にも迷惑をかけまいと身を縮めてきた彼女。
自分のために足を止めるなど、申し訳ないと──そう思い込んでいたに違いない。
だから具合が悪いなどとは、言えなかったのだろう。
動けなくなるまで歩かせてしまった。
そうさせたのは他でもなく、配慮の足りなかった自分だと後悔が募る。
「少しだけ、辛抱してくれ。」
ふたり分の荷をまとめ、彼女を背に負う。
力の抜けた手足は、鉛のように重かった。それでも、落とさないようにと歯を食いしばって歩を進める。
人目を避けることなど、この際どうでもいいことだ。
温かな寝床を求め、ラミエルは迷わず街を目指した。
半日あまりを費やし、ようやく最寄りの宿場へ辿り着く。
街の入り口に差しかかったとき、陽はすでに傾きかけていた。
暮れなずむ空を背景に、屋根々々が金の縁を帯びて光る。
舗道には買い物帰りの人々が行き交い、荷車の軋む音と鐘の音が響いていた。
ラミエルはルゥを背に負ったまま、しばらく街を彷徨う。
屋根と寝台がある場所を求めて──
せめて今夜だけは彼女が冷たい地面に横たわることのないようにと、目を凝らして往来を歩く。
「おや。」
通りの曲がり角で声がかかった。
袋を担いだ老人が、ラミエルの顔を見つめている。
「その背中の子……具合でも悪いのかい?」
彼は咄嗟に身構えた。
だが、老人の声には敵意も詮索も感じられない。
「いま、うちの宿の二階が空いててな。休んでくかい?」
ラミエルは、一瞬迷う。
この手の申し出には、ろくな経験がない。
優しさの裏に針が潜んでいることも、口当たりのいい言葉ほど危ういものだということも、これまでに嫌というほど思い知らされてきた。
けれども今は、時間がない。
一刻も早く、彼女を休ませてやらなければならなかった。
「……お願いします。」
考えた末に、彼はそう答えていた。
案内された宿は、粉屋に隣接した木造家屋の二階だった。
年月で歪んだ窓には曇った硝子板がはめ込まれており、隙間からは冷たい風が忍び込んでくる。
それでも雨を凌ぎ、屋根の下で夜を越せるというだけで、十分だった。
寒空の下で目を閉じる夜の苛烈さを、ふたりは骨身に沁みて知っているからだ。
そしてこの宿には、言葉にしがたいあたたかさがあった。
温かなスープに清潔な寝具。
女将がルゥの顔を見たときに浮かべた、やわらかな表情。
「……なんだか、昔のうちの娘に感じが似てる気がしてねえ。」
そう呟いて湯たんぽを渡す手は、驚くほど優しかった。
宿に落ち着いて数日が経っても、ルゥはまだ寝台から離れられずにいた。
ラミエルは彼女を残し、質屋の看板を探して町を歩く。
そして暖炉の煤で黒ずんだ軒先の店に入り、懐から金細工のカフスを取り出した。
皇宮を発つ折ひそかに持ち出し、自らの象徴だったウィスタリアの意匠を削ぎ落したものだ。
餞別として貰ったカメオのブローチは、路銀でとっくの前に消えている。
このカフスは、いざというときのために使おうと、ルゥにも黙って持ち歩いていたものだった。
「これを見ていただけますか。」
ラミエルの丁寧な物腰が、老主人には妙に映ったようだ。
胡乱げな目つきで、彼を見上げている。
「言葉遣いが上等だな。」
「書きものを習って育ちましたので。」
主人は短く鼻を鳴らし、蝋燭の灯に品を翳して確かめ始めた。
眉を動かしていたが、長く商売を続けてきた者ならではの賢明さでそれ以上の詮索はなかった。
「悪くはない。銀貨二百でどうだ。」
「十分です。」
受け取った革袋を胸元に仕舞うラミエル。
老主人は最後まで彼を不審げな目で見ていたが、気にせず立ち去る。
こうして得た銀はルゥの体を労わるためのものとなり、さらにこの先の逃避行を支える大切な資金となった。
部屋で休ませ、薬を与えた甲斐もあり、彼女の体調は目に見えて回復する。
ラミエルはルゥを十分に休ませるため、この街にしばらく留まることにした。
とはいえ、足を止めればそのぶん銀が減る。
朝になると、彼は荷運びや職人の集まる労務掲示所へ向かい、壁に貼られた仕事の札を見て回った。
名を出さず、目立たず、対価は日払いで。
その条件で、幾つもの仕事を引き受けてゆく。
ある日の作業は、荷積みの現場だった。
街道へと出る前の、出発に備えた積み込み作業である。
ラミエルは他の者たちと共に、荷を並べて縄をかけていった。
作業は淡々と進む。
彼もまた、その一部として手を動かし続けていた。
特にこれといって工夫の要るような内容でもない。
だが彼の荷の結び方に、目を留めた者がいた。
左右の揺れを抑える締め、衝撃を逃がす巻き、上荷の沈み込みを見越した重ね。
意識していたわけではない。
手と身体が覚えていたのだ。
しかしそれは、ある部隊で伝えられてきた、戦場や厳寒地での長距離輸送を想定した結束法だった。
「おい、にいちゃん。その結び方……どこで覚えた?」
声をかけてきたのは、年配の荷主だった。
年季の入った目が、じっとラミエルの指先を追っている。
「昔、少しだけ教わったんです。悪路でも荷がずれないようにする結び方ですよね?」
ラミエルがそう返すと、男の目がぱっと見開かれた。
「そうそう、それだ!
俺は昔、北方の守備隊にいてな。あそこの規律はやたら厳しくてよ。
この結びを覚えるのに何度もぶん殴られたもんさ……何だ、にいちゃんも軍隊上がりか?」
そこから先は、老兵の独り舞台だった。
捕まってしまったラミエルは、懐かしい昔語りに付き合わされることになる。
語る相手がいるというだけで、人はこんなにも饒舌になるのか──そんな思いが胸をよぎるほどだった。
すっかり気を良くした荷主は、仕事終わりに作業員全員を連れて酒場へ向かう。
もちろん、その中にはラミエルの姿もあった。
身元が知れるほど深くは語らなかったが、軍にいたことを仄めかすとますます気に入られた。
そして有難いことに、その後も仕事の声がかかるようになる。
軍隊上がりのこの荷主は、滞在中に何度も仕事を融通してくれた。
ラミエルにとって、それは単なる仕事のひとつになるものだったはずだ。
けれど、あの時の彼の手付きが誰かの古い記憶を呼び覚ましたのだとすれば──
この奇妙な巡り合わせは戦場を渡り歩いていた遠い日々のうちに、どこかで織り込まれていたものなのかもしれない。
そう思うことに、何も不自然さはなかった。
生かされているとも、導かれているとも思ったことはない。
だがこの旅で出会ったいくつかの幸運には、どこかそれに似た感触があった。
そしてふと、ラミエルは思い至る。
最愛の女性との出会いもまた、そうした流れの中にあったのだと。
そう思えたとき、彼の中で何かが腑に落ちていた。
案外、世界は冷たいものばかりでできているわけではないのかもしれない。
碌でもないと思っていたこれまでの人生も、捨てたものではなかった。
もし本当に導きというものがあるのならば──それは、今の自分へと続くこの道を指していたのだろうか。
そしてその境地に辿り着いた彼に、まるで天から何かが手渡されるような思いがけない出来事が訪れる。




