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3-21

朝日が尖塔を照らしていた。

昼間は暑さが残るが、朝晩は涼しさを感じるようになっている。

夏の名残と秋の気配が入り混じっていた。

季節の変わり目を告げる澄んだ空気が、帝都の朝を包んでいる。


宮殿の長い回廊は、いつもなら朝の支度で忙しなく動いているはずだった。

だが、今朝の様子は違っていた。

いつもと違う。

何故だか分からないが、そんな気配が広がっていた。

そして、噂が立つ。

名を囁く者が現れ、それは瞬く間に宮廷中を駆け巡っていった。


最初に異変を告げたのは、謹慎中の第一皇子を収容するレガリア宮を監視していた近衛達である。


「第一皇子がおられません。」


報せは直ちに軍務院へと届けられた。

報告を受けた近衛中隊長は言葉を失い、周囲も顔を見合わせる。

ありえないと、誰もが思った。


急ぎ確認のために開かれた私室は、沈黙に包まれていた。

軍服はきちんと畳まれ、椅子の上に整えられている。

机の上には、署名に使っていた筆記具と封蝋の印──ウィスタリアの花を意匠にした、彼だけの紋章が整然と並べられていた。

皇族としての立場を、自らの手で捨てた証である。

何も告げず、何も乱さず。

けれど意思だけが、しっかりと残されていた。

 

次に治安課の詰所に駆け込んできたのは、北翼の巡回を任されていた若い衛兵である。


「牢が、牢が空になっているそうです!

投獄されていた女官が影も形もございません!」


囚人が消えたという事実は、第一皇子の失踪と並び立つ重大な異変にほかならない。

二つの報せは、すぐさま宮廷全体に波紋となって広がってゆく。

近衛や侍従の間には不穏な空気が広がり、女官たちは仕事の手を止めて顔を寄せ合った。

いつもなら規則正しく動いているはずの廊下や詰所も落ち着きを失い、務めごとは後回しにされている。


その空気を制したのは、一人の凛とした声だ。


「──お静かになさい。」


廊下の奥から姿を現したのは、女官長である。

白髪の混じる髪をきっちりと結い上げたその姿は、立っているだけで空気を一変させた。


「職務はどうしました。下らぬ噂に時間を割くほど今朝は暇なのですか?」


女官たちは一様に顔を伏せ、あわてて口を噤む。

しかし、とある若い女官だけは様子が違っていた。

彼女は女官長の前に立ち、真っ向から反発の意を示す。

かつてルナリアを疎んじ、陰で嘲っていた者の一人である。


「お尋ねします。

投獄されていた女官が、第一皇子殿下と逃亡したという噂が飛び交っております。

その噂が真であるなら、女官長様は不祥を見過ごしておられたということになりますが、わたくしたちだけを律するおつもりでしょうか?」


挑むような声。

場の空気は、一瞬にして凍りついた。

女官長は、無表情で女官を見据える。


「それはそれ、これはこれ。

どのような事態であろうと、まず己の務めを果たす。

それが宮仕えというものです。

流言に踊らされ、職務を疎かにしているあなたに、咎められる謂れはございません。

また事情も知らぬ分際で立場も弁えずに上を非難するなど、それこそ風紀を乱す振る舞いと心得なさい。」


「ですが!

もし殿下とあの娘が本当にそのような関係にあったのなら、規律も秩序も裏切られていたということではございませんか。

わたくしたちは何を信じて務めを果たせばよいのですか。」


叱責されながらも、女官は言い募った。

しかし女官長は一歩前に進み、静かな威をもって言い放つ。


「あなたは何か勘違いなさっているようですね。

わたくしたちの務めとは何か。

それは皇帝陛下、皇后陛下、そして皇族の方々にお仕えすることにほかなりません。

彼女に関する取り扱いは所定の筋が定めます。あなたの関与することではありません。

ましてや第一皇子殿下のご意向を軽々しく論じるなど、傲慢以外の何ものでもありません。」


女官は口を開きかけたが、女官長の言葉に射すくめられて声にすることができずに狼狽えていた。

周囲の女官たちも誰ひとり擁護することなく、冷え込んだ空気の中で立ち尽くす。


「もうよろしい──散りなさい。」


叱責が収められた。

その瞬間、凍りついていた空気が解け、女官たちは一斉に動き出す。

蜘蛛の子を散らすように、慌ただしくそれぞれの持ち場へと戻っていった。

廊下には女官長だけが変わらぬ姿で立ち続けている。


「……愚かな。」


誰に向けてでもなく吐き捨てられた声は、棘を含んでいた。

事情を知らぬ者が好き勝手に口を開く。

それが耐え難かったのだ。


一方、その頃。

皇帝は私室にいた。


朝餉を始めようとしていたところに、侍従が駆け込んできた。

まだ茶の一杯も飲んでいないというのに、やけに騒々しい。

椅子に深く腰を掛けたまま、露骨に不機嫌な空気を漂わせる。


「第一皇子殿下の姿が、どこにもございません!収監していた女官もまた、牢におらず……」


報告の声は震えていた。

彼は視線すら寄越さない。

しかし、手の内にある茶器は震えていた。

今にも投げつけかねない勢いで手を戦かせている。

膝をついた侍従は、さらに深く頭を垂れた。


詰問されているわけでもないのに、空気はひどく重い。

沈黙が続けば続くほど帝の内で何が煮え立っているのか、想像に難くなかった。

その場にいた誰もが、ただならぬ気配を察する。


またしても、あの女の血。


脳裏に浮かぶのは、正妃リゼリアの面影だった。

気高く、美しく、そして手に余るほど誇り高い女。

そしてそれによく似た己の息子。


ナイジェルはよい。

凡庸だが、従順だ。

幼い頃から顔色をよく読み、言われる前に膝を折る。

能力など知れたものだが、それでいい。


だが、あれは違った。

どんなときでも変わらない。

沈黙の中で逆らってくるような眼差し。

まるで、自分の劣りを見透かしているかのように。


(母親に似おって。)


その存在が、どれほど鬱陶しかったことか。


「──あの馬鹿息子が。」


声には怒気が張りついている。


「捕まえてこい。何としてもだ。

息子であろうが何だろうが、朕の決めた秩序を乱す者は、必ず罰する。」


帝は茶器を床に叩きつけた。

乾いた破砕音とともに、粉々に砕け散った陶器。

震える侍従は、逃げるように下がっていく。


そして知らせは、もう一人の息子のナイジェルの元にも。


朝の光が差し込む中、寝台に横たわったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。

脇には昨夜の相手とおぼしき女が一人、掛け布の中に身を沈めている。

そこに側近から齎された報せ。

彼は血相を変えて、飛び起きた。


「監視はどうなっている。二個中隊も動員させておいたはずだぞ?」


「ご就寝前に在室を確認し、扉には錠を下ろしました。

さらに居室前にて監視を続けておりましたが、今朝近衛が声を掛けても返答がなく。

開けてみれば、煙のように姿を消していたと……」


「煙のようにだと?」


「軍服も封蝋も、きちんと整えられておりました。覚悟の上での出奔と見ております。」


「ジグバルトの娘はどうだ。まさか、いないなどとは言わぬだろうな?」


「も、申し上げにくいことに……牢が、もぬけの殻でございました。」


ナイジェルのこめかみに血管が浮き上がった。

腹の奥から突き上げる苛立ちを抑えきれず、手近の銀の水差しを掴んで側近めがけて投げつける。


重い金属が床を打ち、冷たい水が四方に飛び散った。

うたた寝をしていた女は悲鳴を上げて飛びすさり、側近は怯えた顔で額を床に擦りつけるようにして平伏する。


「二個中隊だぞ。二個中隊も貼り付けておいて、煙のように消えただと?

無能め、無能にも程がある!」


「も、申し訳ございません。

レガリア宮はかつての本宮ゆえ、抜け道が網羅されているのです。我々も全容を把握できておらず……」


ぎらりと、ナイジェルの瞳が閃いた。

射抜かれた側近は、喉の奥で声を詰まらせる。


「言い訳を並べている暇があったら、とっとと捕まえる算段でも立てろ!」


「はっ。追手はすでに差し向けておりますが、全く痕跡がなく。どの方面へ向かったのかが不明でして……」


「帝国全土に触れを出せ。

罪人シアトリヒとその情婦を、草の根を分けても必ず探し出すのだ!」


「畏まりました!」


側近が下がっても、怒りの炎は一向に鎮まらない。

煮え立つものが迫り上がっており、言葉にすれば爆ぜそうだ。


ナイジェルは、隣で震える女にゆっくりと視線を向ける。

怯えに染まった瞳を眺めながら甘やかな笑みを浮かべ、細い腕を絡め取った。

柔らかな肌に爪を食い込ませ、逃れられぬよう力を込める。

女は小さな悲鳴を洩らし、敷布の上に伏せられた。


「何が感謝だ。どこまでも人を馬鹿にしやがって。」


囁きは、彼女に向けられたものではない。

指は女の頬をなぞりながらも、瞳には幻影が映っている。


「こ、皇太子殿下……?」


か細い声で名を呼んだが、ナイジェルは答えず

抱き寄せて身を覆い、シーツの闇に沈んでゆく。

肌が触れるたびに、兄への苛立ちを煽り立てた。

甘やかであればあるほど、胸の奥では冷たい憎悪が膨れ上がってゆく。


まだ勝負はついていない。

地の果てまでも追ってやる。


女を官能の淵に追い詰めながらも、ナイジェルの胸を占めていたのはただ一人、兄の影だった。

甘やかな吐息も、乱れた肢体も、すべては憎悪を焚きつける燃料にすぎない。

その熱は炎となって血を灼き、狂気へと駆り立ててゆく。


こうして報せは、皇宮を駆け巡った。

誰かが叫び、誰かが囁く。

だがすべては遅かった。


あのふたりはすでに、夜の向こう側へと姿を消していた。

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