3-20
宮城は闇に沈んでいる。
足音を忍ばせ、進む影が三つ。
古い導水路を伝って北の塔を抜けた彼らは、木々の間を縫いながら外へと通じる門を目指して走る。
シアトリヒはルナリアの手を固く握っていた。
彼女は息を切らせながらも、足を止めずに走っている。
遅れるまいと、必死でついてきていた。
足取りに宿るその意思を感じ取り、彼は目を細める。
覚悟を決めた者の姿であることを理解していた。
だからこそ自分もまた迷うわけにはいかないのだと、意思を新たにする。
この先に何が待つのかは分からない。
それでも胸の底には、共に生きるという確固たる想いが宿っている。
北翼から外郭へ抜ける石壁沿いの通路の角を曲がったそのとき、一つの影が壁際に立っていた。
「遅かったじゃありませんか、殿下。」
ヴァルツェンだった。
いつもながらの飄々とした空気で、相手が皇子であろうと気に留める様子はない。
「もっと早く破滅されるかと思っていましたよ。
まったく、あんたは馬鹿だ。お人好しだ。
好いた女のために泥を被るなど、いっそ滑稽ですらあります。」
歯に衣着せぬ物言いに、ルナリアが一瞬だけ心配そうな目でシアトリヒを見上げる。
彼はその視線を受け流して、静かに返した。
「滑稽で結構だ。」
ヴァルツェンは、わざとらしく肩を竦める。
「それにしても、そのご尊顔はいかがなさったのです?」
「男前に磨きがかかっただろう。」
殴打の痕が残る顔での薄笑いは、かえって凄みを増していた。
呆れたようにヴァルツェンは首を振っている。
「愛嬌というやつは、跡形もなく削ぎ落とされましたがね。
……出入りでもあったんですか?」
「気の利く弟から、退屈しないようにと謹慎見舞いをいただいたのさ。」
「いやはや、皇太子殿下も大概ですなあ。
ここへ来る途中にレガリアの様子を確かめてまいりましたが、弟君からの格別な愛情が窺えましたよ。
たかだか警備に近衛を二個中隊も投入するとは。
まったく、執念深いことだ。」
冗談めかした口調の裏に滲むのは、背筋を冷やす現実だった。
一人の男の監視に、二個中隊。
常軌を逸している命令だ。
「この先を巡回していた衛兵どもは、別の場所の見回りに回しておきました。」
掌を見やって、ニヤリと唇の端を歪めた。
文書局長ではない「墨影」の頭領らしき老獪さと暗躍の匂いを漂わせた表情だった。
「南翼まで行かれるのでしょう?
余計な目は外してありますから、道はずいぶん歩きやすいはずです。」
「……礼は言わぬぞ。」
「言われても気味が悪いだけですな。」
ヴァルツェンは鼻で笑い、軽口を返す。
「俺の行き先にまで、首を突っ込むつもりか。」
「破滅を高みから眺めてやろうと思っていたんですがね。」
歯切れの悪い調子になった。
「仕事が杜撰だったと思われるのは癪でして。そういう誤解はご遠慮願いたい。」
「貴様にしては、殊勝なことだ。」
「完璧主義者と呼んでいただけると光栄ですな。
ああ、ついでに。
この先、うちの連中と鉢合わせるやもしれませんので、どうか驚かれませんよう。」
シアトリヒは静かに息を吐いた。
素直に手ぬかりの後始末に来たと言えばいいものを、こいつはいつもこんな回りくどい言い方しかできない。
不遜なのか、義理堅いのか、よく分からない奴だ。
胸裏で毒づきながらルナリアの手を引き直し、再び闇の中を駆け出す。
石壁に沿った裏道は、支柱の影を縫うように続き、闇の奥へと消えていた。
灯りの届かぬ石畳を、闇に慣れた視界がかろうじて形づくる。
彼らは息を潜め、気配だけを頼りに走っていく。
不思議なことに、巡回の衛兵とはひとりとして行き合わなかった。
警備が緩んでいるのではない。
むしろ見えざる手が先回りして、行く手の障害をすべて取り払っているかのようだった。
ヴァルツェンの手口の周到さに、シアトリヒは舌を巻かざるを得ない。
が、口にはしなかった。
言えば、皮肉のひとつでも返してくるかもしれないからだ。
しかし西翼に近づくにつれ、空気が張り詰めてゆく。
レガリア宮の方角には無数の松明が灯り、近衛たちが忙しなく行き交っていた。
何も知らずに空虚を守るその姿は、滑稽ですらある。
どこか面白がるように、ヴァルツェンが横目で問いかけてきた。
「持ってゆきたいものはありますか?あれば、取りに行かせますが。」
シアトリヒは迷いなく、首を横に振った。
「ない。」
「背負うものはすでにひとつ、と。結構なことです。」
心底どうでもよさそうな調子で吐き捨てると、歩を緩めることなく前を行く。
その背を追って駆け出せば、石畳に響く靴音が闇に溶けていった。
焦燥を煽るように、風が背を押してくる。
レガリア宮の外縁部を掠め、一行は軍務院の石庁舎を横手に抜けた。
兵舎と補給庫のあいだにある狭い通路を通り抜け、無人の訓練場の脇へと出る。
さらに南へ向かい、広々とした馬場と厩舎の影を伝って走った。
やがて南翼へと抜ける通路の手前に差し掛かる。
そこでエルハルトはひとり足を止めた。
「ここまでです、我が君……」
彼はシアトリヒの足元で膝をついて剣を伏せ、頭を垂れる。
従騎士として示し得る、最後の忠誠の形だった。
「皇宮の外へお出になりましたら、まっすぐ宮城外縁の礼拝堂へ向かってください。
手配をした者たちが待機しており、帝都の出口までは彼らがご案内いたします。
忠に篤い精鋭ばかりを揃えてありますゆえ、ご懸念なきよう。」
ヴァルツェンが鼻を鳴らす。
「あんた、ご主人様には付いて行かないのか?」
「わたくしまで離れれば、皇宮の目が怪しみましょう。
ここに留まり、残りの部下たちとともに援護に回ります。」
「ふうん。なら出口までは、その精鋭とやらの野良犬どもにも協力してもらうとしよう。」
「ヴァルツェン殿、あとはお頼み申し上げる。」
抑えた声が震えていた。
シアトリヒは、首を垂れるエルハルトに視線を注ぐ。
肩越しに、さまざまな記憶がよみがえってきた。
「今更言うのもなんだが、あの時の貸し借りはこれで帳消しだな。」
とんとんと頬を指し示してやると思い当たったようで、彼は口角を持ち上げる。
「申し訳ございませんでした。あの折りには、大変なご無礼を。」
「本気で殴っただろう。結構効いたぞ。」
「殿下の方こそ、わたくしめに何発叩き込んだと?
なかなかあざが消えず、難儀しましたぞ。」
涙の別れなど、まっぴらだ。
だから昔の話を持ち出してやると、エルハルトは顔を上げて、いつもの調子で返してくる。
それでいい。
このくらいの温度が、自分たちには合っている。
「随分と世話になったな。」
護衛として初めて対面した日から始まって、愚直でやたら融通の利かない男だと思っていた。
皮肉も真面目に返すほど。
冗談も通じないのかと、呆れたこともあった。
しかし、誰より誠実に剣を捧げる男だった。
「息災で。」
短い言葉だった。
だが込められた想いは、計り知れない。
エルハルトは深く頭を垂れたまま、それに応えた。
シアトリヒは一瞬だけ視線を留め、目を伏せる。
背を向け、それきり振り返らずに駆け出した。
走りながら、想いを巡らせる。
皆が見捨ててゆく中、彼だけは変わらなかった。
狂犬の使い走りと呼ばれ、嘲笑を浴びていたことも知っている。
それでも何も言わず、傍にいた。
最初から最後まで、お前は……
「……バカなやつ。」
決していい主人ではなかったのに。
不甲斐ない姿ばかりを見せてきたというのに。
言いたいことの全てを飲み込み、最後もこうして送り出してくれるとは。
振り返らない。
三人は通路を駆け抜ける。
エルハルトはその場に留まり、長く動くことがなかった。
南翼の外れに至り、外壁沿いの狭い通路の角を曲がる。
あと少し。
ただ、この先が問題だった。
どうやって、皇宮の外に出るべきか。
「さて、最初の関門だ。
外壁をよじ登るのは無理でしょうな。見張りも多い。
となると、地下の排水路か、出入りの荷馬車に潜り込むか。
それとも誰かが鍵を開けてくれる奇跡でも待つか。」
ヴァルツェンの皮肉まじりの呟きに、シアトリヒはしばし考え込む。
荷馬車など、こんな時間に通るわけがない。
そうなれば明るくなるまで待ってから忍び込むしかないのだが、今はそんな悠長なことを言える状況ではなかった。
不在が知られれば、皇宮中が血眼になって捜索に動くだろう。
最悪の場合、排水路を使ってでも抜けるしかない。
汚泥塗れになるかもしれないが、生きて出ることの方が先決だった。
そう腹を括りかけ、水路の位置を確かめようとする。
そのとき、目の前でひとつの灯が揺れた。
「お待ちなさい。
この先は通らない方がいいですよ。近衛が警戒を強化しています。」
三人が足を止めると、影の中から一人の女が姿を現す。
「今晩は皆、神経を尖らせている。顔を見られれば、一巻の終わりです。」
掲げたランタンの光が、顔を浮かび上がらせる。
仮面のような無表情──女官長だった。
「外へ出るのなら、右手に曲がって十番通用口をお使いなさい。
あなた、場所は分かりますね?」
女官長は、ルナリアに視線を向けた。
咄嗟に反応できず固まっている彼女に、ぴしゃりと叱責が飛ぶ。
「しゃんとなさい。覚悟を決めたのでしょう?」
声音はいつもと変わらぬ厳格なものだ。
だが眼差しには、子供を送り出す母のような優しさが宿っている。
「女官長……」
彼女は首元に手をやり、衣の胸元に留めていたブローチを外した。
象牙に細やかな細工を施したカメオ。
一目で高価な品とわかる代物だった。
「持ってお行きなさい。」
「い、いただけません……こ、こんな大事なもの……」
受け取れないでいると、女官長は声を低くした。
「現実をお知りなさい。
先立つものがなければ、明日の糧すら得られません。
殿下だって、懐に金貨の一枚もお持ちではないでしょう?」
返す言葉のないシアトリヒは、きまり悪そうに口の端を歪める。
「縁があれば、いつか手元に戻ります。ですからお持ちなさい。」
ルナリアはまだ迷っていたが、横から促してやった。
恐縮しながらも、手を差し出す。
ブローチを手渡すその彼女の目には、翳りが差していた。
「大きな借りがあるというのに、わたくしにはこれくらいしか渡せません。」
「借り……ですか?」
何のことだか分からないルナリアは、戸惑いを露わにする。
「あなたに伝えておくことが──」
言いかけた言葉を、シアトリヒが遮った。
首を振って、静かに告げる。
「時が来たら、わたしの方から話しましょう。
だから今は、預かっておきます。
背負った十字架が軽くなることはないでしょうが、彼女なら心配には及ばない。
あとはわたしが引き受けます。」
「殿下……」
「代わりに、命日には花を手向けてやってください。
それであなたも幾ばくかは、重荷から解き放たれるのでは。」
女官長は言葉を飲み込み、深々と頭を下げた。
ルナリアの肩を抱き寄せながら、力強くシアトリヒは頷く。
「名残惜しいだろうが、時間がない。」
ヴァルツェンが横から急かしてきた。
女官長は表情を再び仮面に戻して、ランタンを掲げる。
「さあ──行ってらっしゃいませ。殿下、ルナリア。
門番には伝えてありますから、アマリエ・エストレアの名で通用口をお通りなさい。」
「恩に着ます。」
短く言い残し、シアトリヒは頭を垂れた。
そしてルナリアの手を強く引き、再び闇の中へと駆け出していく。
足取りは、驚くほど軽かった。
風が頬を打っても、冷たさよりはむしろ、生きているという感覚を残してゆく。
行き先のわからない道でも、迷いすらなかった。
長い間、檻に繋がれていた心がようやく息を吹き返したようにも感じている。
これほど解放された時が、かつてあっただろうか。
長いこと、自分は独りだと思っていた。
信じる者も、背を預けられる者も、とうに失ったのだと。
だが、違った。
愚直なほど尽くしてくれた者がいた。
皮肉ばかりの言葉でしか手を貸せない、不器用な道化も一緒に走っている。
冷たい仮面の奥に、母のような眼差しを宿していた者もいた。
気づけば、自分のために道を拓こうとした者がいる。
旅立ちに際して、黙って背を押してくれる者がいた。
こんな自分にも、まだ誰かが手を差し伸べてくれる世界があったのだ。
そして。
自分の手をしっかりと握っている、震えながらも決して離れず、必死で走る最愛の人。
手に感じるぬくもりが、胸の奥を満たしていた。
悪くない旅立ちだと、そう思う──
東の空には、色の変わる気配があった。
永い夜の果てに訪れた救済のように、黎明の兆しが静かに滲み始めていた。




