3-19
晩夏だというのに、地下は寒い。
地上にはまだ夏の熱が残っているはずなのに、この場所だけは季節から切り離されたように冷え込んでいた。
石を削り出しただけの寝台に、薄い敷布が一枚。
身を預けても、硬さしか返ってこない。
灯りは、分厚い鉄の扉の隙間から漏れてくるものだけ。
閉じ込められているうちに、時間も季節も、少しずつ曖昧になってゆく。
闇に沈む牢に座していると、惨めだったあの頃の夜が脳裏によみがえる。
親戚の家に預けられていた頃、灯りのない部屋で膝を抱えて寂しさに耐えていたひとりぼっちの時間。
戻ってきてしまった──そんな感覚が胸を刺す。
けれど、あの頃とまったく同じでもなかった。
瞼を閉じれば、あの人の姿が浮かんでくる。
寂しさは残るけれど、孤独ではない。
それが救いになっていた。
終わりのときまで失わぬようにと、記憶を手繰り寄せる。
最後に見た彼は、風にさらさらと髪を揺らしていた。
麗しさには思わず見惚れたものの、向かうのは皇帝陛下も出席される会議である。
さすがに髪は結んだほうがよいと進言すると、少し不満げに眉をひそめていた。
理由を問えば「あの飾り紐でなければ嫌だ」と首を振る。
結局、髪は結わずに行ってしまった。
子供っぽいところなど滅多に見せない人だったから、意外に思う。
しかしあんな不恰好な髪紐でも、大切にしてくれていたのだと思えば嬉しかった。
そういえば、と思い当たる。
自分の部屋の机の上には、編みかけの飾り紐が残されたままだ。
時間を見つけては少しずつ手を動かし、あとわずかで完成するはずだった。
彼に似合うだろうと選んだ紫紺の糸で、組み方にも凝った自信作。
渡す日を心待ちにしていたのに、完成を待たずして何もかもが終わってしまった。
その日はもう永遠に訪れない。
そう思うと、渡せなかった悔いがさざ波のように胸へ広がってゆく。
あのとき女官長に、一言でも託しておけばよかった。
思い至らなかった自分が情けなくなる。
形見として渡したいと願えば、誰かが耳を傾けてくれるだろうか。
編みかけでもいい。
もう二度と会えないのなら、せめてこれだけは届けたかった。
夕刻、房までやって来た尋問官によれば、近く自分は皇宮から政治犯用の収監施設へ移送されるらしい。
「ゆっくり休めるのは今だけだ」と告げられたが、妙に同情めいた態度だったのが印象に残った。
あの尋問官に話してみようかと、淡い希望が胸に灯る。
ささやかな思いを巡らせていたときだった。
扉の向こうで人の気配が揺らぎ、複数の足音が近づいてくる。
低い話し声が聞こえ、しばらくしてから金属を鳴らすような硬い音が響いた。
交代の時刻なのだろうか、あるいは移送の準備か。
やがて会話が途切れ、足音は遠ざかっていく。
だが房の前には、なお人の気配が残っていた。
こんな深夜に移送が行われるのかと、怪訝になる。
その一方で、理に適っているとも思った。
夜間なら、人目を避けて移送するには都合がいい。
逆臣の娘が堂々と皇宮の中で働いていたなど、流石に外聞が悪いだろう。
誰の目にも触れぬうちに、皇宮から出してしまいたい筈だ。
──いよいよか。
ルナリアは手の内でスカートの裾を握りしめ、姿勢を正す。
これで、この恋にも終止符が打たれる。
それでも取り乱さずに、受け入れる。
怖くないと言えば嘘になるけれど、愛し愛された記憶が守ってくれる筈だ。
あの人の名を決して穢すことなく、最後の瞬間まで胸を張ってゆきたい。
それが自分に出来る、ただひとつの愛の証だから。
大好きだった。
これほどまでに誰かを愛せたことは、自分の誇りだ。
この想いだけは失わない。
命の尽きるその時まで、大切に抱いてゆく。
錠が外れる音がした。
錆びついた扉が、軋みながら開いていく。
差し込む灯りを背に、黒い影がひとつ、牢の中へと踏み入った。
覚悟を固めたはずなのに、ルナリアは怖気づいて影を直視することができない。
震えながら身を強ばらせ、息を詰める。
すると、なぜか影は足元に跪いた。
そして──
「待たせたな」
幻か。
外套の被りの下から現れた想い人の顔に、ルナリアは目を見開く。
思わず手を伸ばして頬に触れると、上から力強く手が重ねられた。
夢でも幻でもない。
確かな温もりがそこにある。
「やっと……取り戻した」
言葉を返そうとしても、声が出ない。
目の前の現実を受け止めきれず、睫毛ひとつ動かすことが出来ないでいた。
ただ、ひたすら目の前の顔を見つめ続ける。
腫れた頬に、裂けた唇。
魅了してやまなかった顔は、無惨な痕に覆われている。
しかし痛ましい姿でありながらも瞳は澄み切っており、揺るぎなく自分を捉えていた。
二度とその姿を見ることはないと覚悟していたのに、思いがけず訪れた奇跡。
溢れる歓びに、瞼が熱を帯びてゆく。
「時間がない、すぐ出るぞ」
急き立てるような声で我へ返り、ルナリアは現実に引き戻された。
何故、彼が此処にいる。
謹慎を命じられていたはずではなかったのか。
「謹慎されていると伺いましたが……このようなところで……何をなさっているのですか」
「それは、もう気にしなくていいことだ」
「な、何を仰っているのか分かりません。お部屋にお戻りください」
「戻らない」
きっぱり言い切られて、面食らう。
「も……戻ってくださいませ。人に見つかってしまいます」
「戻らないと言っている」
「こ、此処にあなたがいることが分かれば、ただでは済みません。どうか戻ってください!」
「今此処にいるのは、獄に繋がれた妻を迎えに来た夫だ。
その者は第一皇子と呼ばれていたが、名は捨てた。もはや謹慎など必要なかろう」
「シアトリヒ様!」
ぶつかり合う声が、狭い独房に反響する。
彼は問答を打ち切るように手首を掴み、胸元に引き寄せた。
流されそうになったが、ルナリアも必死で抗って振り解こうとする。
「だめです……助けようなんて……思わないでください」
「話は後だ。じきに交代の看守が来る」
「参りません。
どうか早まらないでください。
私のために……こんな取るに足らない女のために御名を捨てるなんて、正気ですか!」
「ああ、正気だとも。私たちは夫婦になるのだろう。
そなたと名を秤にかけるなら、どちらを取るかなど言うまでもない」
「私は……あなたの伴侶を名乗る資格がない。
名誉を傷つけ、重荷を背負わせ……そのうえ名前まで捨てさせようとしている。
伴侶など、とても名乗れません!」
「資格など要らぬ。
私がそなたを伴侶に選んだ。それで十分だ」
「殿下、お早く──!」
扉の向こうから、腹心の切迫した声が飛んでくる。
「待て」
短く制し、彼は再びルナリアへと向き直った。
瞳に宿るのは、威圧でも命令でもない。
懇願の色だった。
「頼む。聞き分けてくれ」
決意が揺らぎそうになるのを堪え、彼女は言葉を搾り出して訴える。
「あ、あなたは……こんなことでご自分を滅ぼしてはいけない方です……」
「この国は、もはや私を見限っている」
「未来は誰にもわかりません。
いまはどんなに苦しくとも、あなたの誠実さが報われる時は必ず来るはずです。
だから、ここで擲ってはなりません!」
「報われたとて、そなたのいない未来など虚ろに過ぎぬ」
「私には……あなたの人生と引き換えにする価値はありません!」
胸の奥で、葛藤が渦巻く。
これ以上、何も負わせたくはなかった。
自分のために、彼が傷つくのは耐えられなかった。
「お願いです。私を……捨ててください……!
私を助けるために、殿下がすべてを失うなんて耐えられません。
罰は、私ひとりで受けます。
今なら、まだ間に合いますから……どうかお部屋にお戻りください……!」
どうか分かってほしい。ただその一心で、必死に訴える。
けれど、返ってきたのは理解でも同意でもなかった。
「黙れ!」
雷鳴のような怒声が、狭い独房に轟く。
いつも穏やかだった人の、かつてない怒りにルナリアは息を呑んだ。
「ひとりで罰を受けるだと?ふざけるな……!
お前は、俺の覚悟がそんなにも軽いものだと思っていたのか!?」
圧倒され、言葉を失う。
「死んでもお前を離さないと言った」
激しい言葉の裏には、どこまでも優しい想いが流れている。
堪えきれず、涙が頬を濡らしていった。
この人は。
泣いて縋り、自分を捨ててほしいと懇願しても──決して見捨てない人だった。
見捨てられる痛みを、誰より知っている人だから。
自分だけ助かればいいなどと、この人が思えるはずもない。
でも、そうしたらどうなる?
皇子であることを捨て、この国に背いて──その先に、彼が生きてゆける場所などあるのだろうか。
「俺だけ生き残って、何になる!お前が死んだ後、俺が一人で生きていられると思うのか!?」
「でも……それでも、あなたは、報われるべき人です!名前を捨てるなんて……」
「名などどうでもいい!」
ルナリアは俯き、震える唇を噛みしめる。
「守ったところで、お前がいなければ意味がない──それが分からぬか!!」
互いに相手を守りたいと願っていた。
だが、そのために自分を差し出すだけでは、何も救えない。
一緒に走らなければ、その願いは成り立たないのだ。
だから彼はここへ来た。
そのことを、ルナリアは理解した。
でも、それでは彼自身の想いはどこに行ってしまうのか。
耐えてきた苦しみも、必死に積み重ねてきたものも、どこへ流れてゆくのだろう。
報われないなんて、あんまりではないか。
それで本当に、この人は救われるのか。
「もう、いいんだ。もう……いいんだよ」
ふと、張り詰めた空気が解ける。
顔を上げると、彼の顔には形容しがたい表情が浮かんでいた。
「どのみち、そなたが命を懸けても変わりはしないのだ」
重い言葉が落ちてゆく。
「この国にいる以上、私も破滅からは逃れられぬ。
そなたが処刑された後、私も皇籍を剥奪されるだろう。
そして、ほどなくして何らかの形で始末される。
報われることなど、決してない。
父は、そういう人間だ。皇家の汚点と見なせば、実の子であろうとためらわずに切り捨てる」
血を吐くような吐露だ。
もういいと、そう言ってしまうところまで追い詰められてしまったことが、ただ悲しかった。
「どれほど尽くそうと、変わらなかった。
陛下にとって私は血を分けた息子ではなく、ただの駒にすぎなかったのだ。
求めても何も得られない。
いつかはと思い、しがみついてきたが結局無駄だった。
今回も同じだ。私を切り捨てる口実にされるだけ。
重ねていうが、そなたが命を懸けても何も変わらないのだ」
静まり返った独房に、行き場のない悲しみが沈んでゆく。
「最初から最後まで、この国は私たちに何ひとつとして救いを与えはしない」
額を寄せ、ほとんど息のような声で囁く。
「だから……これがきっと。
見捨てられた皇子と罪人の娘が選ぶべき道なのだ」
そう告げたあとで、一筋の涙が彼の頬を伝った。
それは。
自分たちの境遇を呪う怒りなのか。
こうまでしなければささやかな幸福でさえも掴めないことへの悲嘆なのか。
それとも──あの日。
苦しくて、苦しくて、苦しみに押し潰されそうになり、息もできずにもがくようにして筆を取ったあの日から、
すべてはここへ辿り着くしかなかったのだと悟る痛みなのか。
ただ一筋。
尊いほど静かに零れてゆく。
その一雫には、誇り高くあろうとしてきた男の長い歳月が滲んでいるようだった。
「すべてを乗り越えた先で待っているものがあると言ったのは、そなただ。
まだ、出会っていないぞ。
だから今は死ぬ時ではない……そうだろう?」
「シアトリヒ、さま……」
「共に生きて、傍で見届けてくれ……私はまだ、希望を捨ててはいない」
罪人の娘に縋るしかなかった彼。
誰かに必要とされたかった自分。
零れ落ちてしまった私たちには、互いしかいないのだ。
救いを見つけられるのも──互いだけ。
なんとも自分たちらしい在り方だ。
そんな自嘲が、胸を過ぎてゆく。
正も否も、もはやどうでもよい。
許されるかどうかということも越えて、すでに運命そのものを踏み越えていた。
世界に確かなものがあるとすれば、この人だけだ。
ならば、この先のすべてをこの人に捧げよう。
それが、自分の進む道なのだと信じて。
「はい……」
ルナリアは目を閉じ、彼の涙を胸の奥深くに刻んだ。
この夜。
この人が誇りを超えて流した涙だけは、命尽きるその時まで決して忘れることはないだろう。
見捨てられた皇子と罪人の娘が、思いがけず出会い、運命が交差し──
愛し合うことを選び取ったふたりが、どのような運命が訪れようとも共に歩むと、ただひたすらに決意した証そのものだった。




