3-18
さすがにやりすぎたか。
偽りのない気持ちではあったが、あの場で弟に叩きつけた言葉に皮肉が混じっていなかったとは言えない。
「ざまあないな。」
思わず漏れた独り言とともに、口の端に走る痛みを意識する。
触れてみれば、血が滲んでいた。
けれども、浅い傷にすぎない。
「尋問に障らぬ程度にしろ」と、そんな命令でもあったのだろう。
会議から戻った直後、レガリア宮はすぐさま皇太子の監視下に置かれた。
命を受けた近衛たちが乗り込んできて、宮は武装兵で固められる。
身辺の世話をしていた侍従や武官達は遠ざけられ、軟禁同然の厳戒態勢となった。
それからほどなく現れたのは、尋問官を名乗る者たち。
やけにいかつい面々だと思った矢先、腕を掴まれ、抵抗の暇もなく押さえ込まれる。
そして三人掛かりでの制裁が始まった。
分からなくもない。
こうでもしなければ収まらないほどの憤怒を、弟は抱えていたのだろう。
殴られながらも、妙に冷静な自分がいた。
馬鹿みたいに抵抗しても、余計に酷くなるだけだ──そう思って耐え忍ぶ。
寝台に身を横たえていると、扉を叩く音が響く。
監視の兵を従えて入ってきたのは、見慣れない侍従だった。
食事を運んできたらしいが、食欲など失せていたので下げるように告げる。
すると侍従は、監視の目を避けるようにして皿の下を指先で示した。
ちらりと覗く紙片。
「後で片付けに参ります」とだけ言い残し、部屋を出て行った。
見覚えのない顔だったが、腹心が手配した者に違いない。
誰もいなくなってから、紙片を取り上げた。
開けば、均等な間隔で六つの数字──05 21 05 08 24 18。
鍵がWISTERIAと知る者にだけ、それが「IMMOTA(動かず)」という平文を指すと分かる。
かつて戦地で用いていた、腹心との連絡方法だ。
動かず。
その短い言葉に、結局無駄だったかとシアトリヒは笑い出す。
──彼女らしい。
弱いようでいて芯の強さを思わせる様子に、感嘆が芽生えた。
同時に、処刑という現実が重くのしかかってもいた。
覚悟を示してくれるのは嬉しくもあったが、切なさを帯びるという複雑な心境だ。
どこかで分かっていた。
一人で逃げるなどという選択は、彼女は決してしないだろうということを。
そしてそんな彼女だからこそ、愛した。
「さて、どうしたものかな。」
苦笑まじりの独り言を落とし、紙片を強く握り込む。
視線を窓へ向ければ、冷たく澄んだ夜空が広がっていた。
この空の下、彼女はどこにいるのだろう。
とうとう離れ離れになってしまった自分達。
自らの選択の重さが、胸に沈んでいく。
いずれ、こんな日が来ることは分かっていた。
父帝に疎まれ、弟に狙われ、貴族をはじめとする様々な人間達から冷笑される。
そんな日々の果てに、この命が処理されるのは当然の帰結だと。
構わない。
それが自分の生きる道というなら。
潔く受け入れ、最後まで矜持だけは護り通して終わるつもりだった。
ほんの少し前までは、確かにそう思っていた。
だが、今は違う。
彼女を抱いてしまったからだ。
腕の中に閉じ込めた体温が、まだ消えない。
震える指先も、涙に濡れた頬も、必死に縋りついてきた力も──すべてが胸に焼き付いている。
慰めの共有などではなかった。
自分の鼓動と彼女の鼓動が、同じ拍動で響き合った気がしたのだ。
その瞬間、死を受け入れる覚悟は崩れ去ったのだと思う。
いつでも終わりにしてよいと思っていた生に、初めて続きを願う気持ちが芽生えていた。
共にあれば、この先にまだ見ぬ時間がある。
そう思ってしまったのだ。
しかし願ったときには、すでに道が閉ざされていた。
終わりを覚悟してから生きたいと願うなど、あまりに遅すぎる。
だからせめて滅びの時まで夢を見ようと思ったのだった。
彼女と過ごした日々は幻のように儚くも、温かかった。
朝の光の中で交わした他愛ない言葉。
並んで歩いた小径に揺れる葉の音。
ヴァイオリンに耳を傾ける穏やかな横顔。
指先に絡んだ髪のやわらかさ。
期限付きではあったが、これまで歩んできたすべての時を超えて満たされていた。
けれども、同時に胸を刺す思いがあった。
このまま共に破滅していいのか。
手を伸ばせばすぐに届く距離にいられる幸せを感じるたびに、問いが胸に差し込む。
自分と関わらずにいれば、彼女は正体を暴かれずに済んだのは確かだ。
しかし孤独の苦しみに耐えきれず、手を伸ばしてしまった。
結果、彼女を自分の業の中に引き摺り込んでしまったのである。
それが申し訳なくて、辛かった。
運命を共にする──その言葉の響きは美しい。
しかし耳に心地良く聞こえても、現実は残酷だ。
互いの未来を誓う言葉ではなく、ただ終焉を共有するだけの鎖にすぎない。
少なくとも彼女には、未来の時間があった。
自分に関わらなければ、薄幸であってもそうした時間を歩いていた。
それらを奪い去ってまで傍に置こうとするのは、愛ではなく我欲である。
そう思ってしまってからは、もう止まらなかった。
たとえ自分ひとりが残されても、破滅に付き合わせるべきではない。
母の実家である外戚一門。
当主の妹である大叔母が院長を務める修道院に早馬を飛ばし、教会の庇護を得る算段を整える。
そして頃合いを見て、帝国の外へと逃がそうと目論んだのだ。
結局、その目論見は潰えてしまったが。
彼女が辿ってきた長い道のりを思う。
幼くして家族を失い、それからは人として扱われることがなく生きてきた。
どれほどの孤独が、どれほどの痛みがあったのか。
想像しても余りある。
それでも彼女は、優しく愛情深かった。
苦難に押し潰されることなく、懸命に生きていた。
その矛盾が、胸の奥を締め付ける。
幸せとは何か。
彼女を通して知った。
命にさえ関心を持てず、空洞のままだった自分の心は、彼女という存在によって初めて誰かを思うことを理解した。
あの青空のような瞳が、自分を真っ直ぐに見つめる。
静かで、でも確かな強さを湛えた瞳がとても好きだった。
小さな身体でそっと抱きしめてくれる時に感じていた温もりは、凍えていた心を温めてくれた。
吃音を抱えながらも、辿々しく想いを伝えようとする姿は、ただただ健気に映った。
そうしたすべてが、胸に深く刻まれている。
その上、騙していた自分を赦し、涙をこぼしてくれた。
それだけに留まらず、全身全霊で自分を受け止めてくれた。
優しく、ひたむきに。
何もかもを自分に捧げてくれたあの人が、本当の幸せを知らぬまま消えてしまっていいはずがない。
だがあの人は、逃げることを良しとはしていない。
運命を受け入れ、自分と共に破滅する覚悟を決めている。
処刑という影が迫るのに、それでもなお、逃げる道を選ぼうとはしないのだ。
幸せになってほしいと強く思った。
理不尽な運命を断ち切りたいと思った。
それは、いつの間にか胸に宿っていた願いだった。
けれど、これだけは分かっている。
その願いは、決してこの国では叶わない。
帝国にいては、どれほど願っても未来など訪れはしない。
何が一番大切なのか、考えるまでもなかった。
答えはすでに決まっている。
思えばあの優しい手紙に命を繋がれた日から、自分の生きる意味は定まっていたのだろう。
ならば、歩むべき道はただひとつ。
どこまでも同じ道をゆくという覚悟なら、あの人を生かす未来を選ぶ。
胸の奥に灯った想いは、やがて確かな焔となって血潮の中に広がっていく。
その熱が逡巡を焼き払い、決意をひとつの形へと鍛えていった。
窓際の机に向かう。
そして古びた一本の剣緒を引き出しの奥から取り出した。
灰色に色褪せたその紐は、腹心との符牒。
どれほどの危機が迫ろうとも最後は静かに散る覚悟でいたから、使うまいと誓っていた。
しかし今は違う。
誓いを破ることに躊躇はない。
誰に何と言われようと奪う──彼女との未来を。
兵の交代を知らせるラッパが鳴る刻を待つ。
それが警戒が最も緩む時間であることを知っていた。
隙を狙って、窓へ歩み寄る。
錠の緩んだ窓を押し開け、手にした剣緒を石台の端にかけた。
月光が影を細く伸ばし、静かに揺れる。
気付け、エルハルト。
それだけで十分だ。
呼び寄せる必要はない。
この程度の合図で全てを察し、最適の動きを取れるからこそ彼を側に置き続けてきたのだ。
それからは、ただ待った。
必ず来る。
そう信じて、じっと待ち続けた。
そして数刻後の真夜中──腹心の従騎士は音もなく現れる。
正面の扉ではない。
皇宮には、戦火や政変に備えて限られた者にしか伝えられていない抜け道があった。
レガリア宮も然り。
その一つを伝って、部屋へ至ったのだ。
密やかに忍び込む姿は、まるで夜の闇に溶け込む影にも思えた。
*
エルハルトは頬に残る殴打の痕を目にした瞬間、息を呑む。
そして口惜しげに唇を噛みしめ、胸元で拳を震わせた。
「おいたわしや……許すまじ、あの卑劣漢め。」
命令さえあれば今にも斬り込んで行きそうな勢いだったので、シアトリヒは苦笑する。
「よい、こんなものは怪我のうちにも入らぬ。」
「しかし殿下、私刑ではありませんか。幾らなんでも、このようなことが許されていいのでしょうか?」
「権能も解かれた。皇籍を剥奪されるのも時間の問題だろう。もはや宮廷においては皇子ではないのだ。そのような者に私刑を加えたとて、大した罪には問われぬ。」
「それでも殿下はいまだ帝の御子。皇族に危害を加えるは、皇太子といえども御法度にございます。」
「どうせじきに皇族でなくなる人間なのだから、誰も擁護しない。捨てておけ。」
エルハルトはなおも不満げに唇を結び、言葉を呑み込んだ。
「それより──どうだ。」
シアトリヒは静かに問う。
「大切な役目を仰せつかっておきながら、説得叶わず申し訳ございません。
ですが、頑として聞き入れてはいただけませんでした。女官長殿の説得にも応じなかったようです。」
「まあ、そうであろうな。あれはそういう質だ。」
わたしを離さないで。
そう言って胸に縋り付いてきた、あの夜の彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
穏やかで物静かな面差しの内側に、実は自分以上に激しい炎を秘めていることを知った。
抑えつけられてきた人間は、譲れぬものを貫こうとするとき、得てして苛烈になるものだ。
その激しさを向けられている相手が自分であることに、改めて胸を打たれる思いがする。
「で、今は何処にいる?」
「北翼の塔の地下牢にて虜となっておりますが、一両日のうちにヴァルトレア集治監へ移送されるとのことです。」
「ヴァルトレアか。そうなると、もう手出しができんな。」
胸に痛みが走った。
あの人が、暗い牢の中に閉じ込められている。
さらにヴァルトレアへと送られれば、二度と陽の光に触れることが叶わぬだろう。
思いを馳せ、しばし無言になる。
「あのお方からと、女官長殿より言伝を預かりました。」
エルハルトは沈痛な面持ちで、託された言葉を告げた。
幸せでした──そう聞いたシアトリヒは拳を強く握りしめる。
ともに時を重ねたいと願っただけだ。
なのに何故、我らはここまで試されねばならぬのか。
幾度も奪われ、最期に至ってなお「幸せだった」などと口にせねばならぬとは。
神は本当に我らを顧みない。
嗚呼、もういい。たくさんだ。
神も帝国も、知ったことか。
これ以上、何も奪わせはしない。
どんなことをしてでも、この枷を断ち切る。
そして自由になってやる──
「お立ちになるのですね。」
エルハルトは淡々と告げた。
声音には、すべてを見通しているかのような冷静な確信が宿っている。
シアトリヒは視線を持ち上げ、彼に向けた。
「愚か者と呼ばれるだろうが。」
言葉の余韻が空気を満たす中、エルハルトは静かに続ける。
「ご命令ください。万が一に備え、いつでも帝都を脱出できるよう手立ては整えておりました。」
何も言わずとも汲み取って動いてくれる腹心に、揺るぎない信頼を新たにした。
「して、いつお立ちになりますか。」
「今すぐにでも。」
迷いなく言い切る。
策を練っている暇はない。
ヴァルトレア集治監は政治犯や謀反人を専門に収監する施設であり、監視の厳しさは帝国屈指である。
そこに移されたら、万が一にも脱出は難しい。
行くならば、今を置いて他はないのだ。
「そなたは来るな。」
思いもよらぬ言葉に、エルハルトの呼吸が乱れた。
「殿下?」
「共に落ちる必要などない。帝国に残れ。」
彼は強く首を振る。
「後生でございます。どうかわたくしにも同道の許可を。殿下以外を主君に仰ぐなど、今更できましょうか。」
「ここで我が道とそなたの道は分かれる。聞き分けろ。」
誓いを立てた主君の命令は絶対だった。
逆らうことは許されない。
「何も言わずともここまで動けるそなたほどの器量があれば、この先もっと良き主人と巡り会うこともできよう。
わたしなどのために、可能性を潰してはならぬ。」
「殿下以上の主君など……考えられませぬ……」
「では考えろ、ヴォルフラム・エルハルト。
そなたにはこの先がある。家庭を持ち、血を継ぎ、老いてゆく道が。
わたしは違う。わたしは、すべてを捨てると決めた。
ゆえに、随うべからず。」
「……殿下。」
シアトリヒの脳裏には、遠い日の叙任式の光景がよみがえっていた。
まだ少年だった自分の前に、この男は跪き、肩に剣を当てて忠誠を誓った。
その時の自分は、どこか冷めた目で彼を見ていた。
所詮は形式。
忠誠心など、いずれ他に移ろうと高を括っていたのだ。
正直、ここまで長い付き合いになろうとは思っていなかった。
「己が径を往け。
我が事を忘れて、そなたは生きよ。」
十分だ。余るほど尽くしてもらった。
だからこそ、これ以上は彼の人生が捻じ曲げられることを許してはならない。
「……仰せのままに。」
一瞬、項垂れたが、エルハルトは振り切ったかのように顔を上げて力強く敬礼した。
見届けた瞬間、シアトリヒの胸に迷いはなくなる。
感傷も逡巡もない。腹は決まった。
一瞥ののち、二人は部屋を後にする。
導かれたのは、狭く湿った通路。
石の壁に挟まれた闇は不気味で、まるで冥府へと通じる口を開いているかのようだった。
その先に待つのは破滅か、あるいは希望の道か──




