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3-16

広間は、定刻の鐘とともに開かれた。

白亜の柱の下には重臣や官吏が整然と並び、書記官が記録板を掲げて席次を確認している。

長机の上には各部署から上がった記録書が整えられ、官吏たちが手元の書面を繰っていた。

やがて奥の扉が開き、皇帝が入座する。

臣下たちは一斉に頭を垂れ、会議はいつもと変わらぬ形式で開始された。


口火を切って、戦務の定例報告が始まる。


「まずは北辺方面から。

情勢は予断を許しませんが、現在のところ戦況は優位を保っております。」


宰相の声音は単調だが、確かな手応えが滲む。

列席する武官たちは黙して頷いていた。

だが次なる報告が落とした影は、場の空気を曇らせる。


「対する南方の情勢は厳しい。

エイメル周辺では連日の豪雨により地盤が崩れ、陣地の維持が困難となっております。

各部隊とも進撃の足を止めざるを得ず、戦線は膠着状態です。したがって、追加の支援を要すると考えます。」


「しかしこれ以上の負担は、各地の諸侯の反発を招くこと必至です。」


財務院の高官は眉間に皺を寄せ、手元の帳簿を睨む。

そして苦々しげに言葉を継いだ。


「徴発を重ねれば、諸侯のみならず民心も離れましょう。過度な取り立ては、国の基盤を揺るがしかねません。」


誰も反駁できず、重苦しい沈黙が広間を覆う。


「それにつきましてはひとまず保留とし、後日に検討することといたします。

次は、諸侯からの要請について取り上げてもよろしいでしょうか。」


宰相が話題を切り替える。

場の流れは移り、議題は諸侯への課税や宮廷行事の調整へと移っていった。

形式的なやり取りが延々と続けられるが、大きな進展はない。

ただ報告と確認が繰り返される。

その間、皇太子ナイジェルは黙して席にあった。

蒼い瞳の奥には思考が沈み、流れゆく議論の一つひとつを測るように見つめている。


やがて一連の定例報告と協議が終わると、宰相が玉座に向かって深々と頭を垂れた。


「陛下、以上が諸務に関わる本日の議題にございます。」


皇帝は、顎から指を離す。


「よい。しばし推移を見よ。」


皇帝の裁定に廷臣たちは視線を交わした。

安堵が広がる。

誰もが会議はこれで終わりだと認識して、動きかけた。

だがその時、流れを断ち切るように澄んだ声が放たれる。


「ひとつ、よろしいでしょうか。」


視線が一斉に皇太子へと集まる。

笑顔の底に、読み取れぬ意図が光っていた。

一同は息を潜めて言葉を待つ。


短い沈黙を置き、彼は姿勢を正して周囲を見渡した。


「お疲れのところ恐縮に存じますが、どうしても陛下のお耳に入れていただきたいことがございます。」


室内の空気が怪訝に揺れる。

ナイジェルは傍に控える侍従の手から帳簿を受け取り、全員の注意を引き寄せる。


「十年前、逆臣として断罪された血脈が、この帝宮の奥深くで今も息づいておりました。

女官として何食わぬ顔で、長らく潜伏していた模様です。」


貴族たちの表情が強ばった。

視線が交錯し、ざわめきが波のように広がってゆく。


「その女官の名前はルナリア・プレセア──いや、正しくはルナリア・フリーデル・ジグバルト。」


冷たい緊張が走った。

誰もが息を呑み、互いの顔を見合わせる。


「ジグバルト……」


誰かが洩らした呟きが、場の中心に落ちた。


「宗令の台帳が破綻していたのか……」

「なんたる不覚……」


老臣たちは頭を抱えている。

騒然とした中で、ナイジェルは表情を崩さぬまま静かに告げた。


「戸籍は周到に改竄されておりました。

この女はプレセア子爵家の養女として宮廷に潜り込んでおりましたが、本来の出自──ジグバルト伯爵家との繋がりが辿れぬよう、家系の記録そのものが書き換えられていたのです。

そして罪籍。

原本では“病没”とされておりました。

しかし写本には“行方不明”と記されており、廃棄予定の副本にはその改竄の痕跡がはっきりと残っております。

つまり、生きたまま別家の娘として仕立て上げ、元の身分を死人として抹消していたのです。」


宗令院の長老が、証拠の提示を求めた。

ナイジェルは無言で、罪籍の原本と廃棄予定だった副本を差し出す。

長老は震える手で帳簿を受け取り、ばらばらと頁をめくっていった。

ジグバルト伯爵家一門の処遇記録に目を留めた途端、呻き声を上げる。


「これは確かに、書き換えの跡……」


動揺が広がる中、ナイジェルはなおも言葉を続けた。


「これらの改竄が、いずれの部署で行われたものかは不明です。

おそらくは、金品を握らされた官吏の一部などが、記録の書き換えに関与したのでしょう。

ですが、所詮官吏は命令を遂行しただけに過ぎません。

つまり、すべての責任は──この命令を発したシアトリヒ第一皇子にこそ帰すべきなのです。」


第一皇子の名前が出た瞬間に、ざわめきが止む。

視線は一斉に皇族の末席に身を置く彼へと注がれ、そこからさらに玉座へと移っていく。

そして沈黙が広間を支配した。


一同は、玉座の主の反応を注視する。

その口から放たれる次の一言が、すべてを左右することを悟っていた。

だが、敢えてナイジェルはそれらの反応を無視して告発を続行する。


「さて。ただの血脈隠蔽などであれば、まだ多少の情状も考慮されましょう。」


さらに緊張を高めるように、間を置いた。

貴族院と宗令院の面々の表情が険しくなっていく。


「ですが、これはそれだけに留まりませぬ。

わたくしが手配した者の報告によれば、この女官は第一皇子の寝所へ通い、逢瀬を重ねておりました。」


どこかで、短い息の音が漏れた。


「逆臣の娘を情婦として囲い、夜ごと爛れた関係を重ねるのみならず。

ひとりの女のために、皇家の威信をも踏みにじった──これこそが、第一皇子の真実にございます。」


重い空気が、さらに沈み込む。

息を吐くことさえ憚られるような圧が、広間を覆い尽くした。

皆、無言で第一皇子と皇帝の顔を交互に見比べる。


「シアトリヒ。」


長く続くかと思われた沈黙を破り、皇帝は玉座から身を起こす。

普段は爪ほどの興味も見せぬ息子に向け、冷たく言い放った。

第一皇子は視線を一身に浴びながら進み出て、膝を突く。

そして静かに皇帝を見据えた。


「事実です。」


弁明もせず、罪を認めた姿に廷臣たちは目を見張る。

皇帝は眉を寄せ、不機嫌を露にした。


「何故とは問わぬ。だが……そなたらしくないことをした。」


「そうでしょうか。自分の人生で最も自分らしいことをしたと思っております。」


「情のために忠を蔑ろにすることが、自分らしいことか。」


「忠か情かを選んだのではない。

ただ、自分が選んだもののすべてを、最後まで自分の責任として抱えてゆくと決めただけです。」


「では、逆臣の娘を情婦とした咎までも負う覚悟はあるのだな。」


「敢えて申し上げるまでもないことです。

彼女を選んだことを悔いる理由はどこにもございません。」


皇帝は唇の端を吊り上げ、苦々しく嗤った。


「理屈をこね、己を曲げぬところまで似おって……血というものは、かくも厄介なものか。」


誰に似ているのか、言わずとも知れたこと。

口にする者はなかったが、沈黙の中で同じ思いが共有されていた。


「誠に目障りな気質よ。ならばその覚悟とやらを貫き、どこまでも落ちてゆくがよい。」


確固たる宣告。

一片の躊躇すらなく、皇帝は冷酷に処分を下す。


「第一皇子シアトリヒ・ラミエル・ロエル・デ・ルクスフォル。

すべての職務・権能をここに解く。以後は、宮中において謹慎とし、厳重に監視せよ。

また、逆臣ジグバルトに連なる女は直ちに拘束し、血脈の調査および尋問を行え。

その後の沙汰は任せるが──生かして還す必要もない。」


廷臣たちの間に、戦慄が走った。

ただ一人、皇太子だけが笑っている。

悲願を果たした者の満足が全身から滲み出ており、彼だけが凍りついた広間の中で異様に浮き立っていた。


「畏まりました、陛下。」


小さく指を鳴らすと、控えていた侍従が素早く動き出す。

扉が開かれ、近衛達が物々しく入室してきた。


「兄上、これがあなたの選んだ結末です。」


勝者の眼差しを兄に突きつけるナイジェル。

しかしシアトリヒは、彼を見据えるだけだった。

その佇まいは、集う者のすべての目に威厳を刻みつけている。

一方には権勢を手にしても渇きを抱く姿があり、他方にはすべてを失いながらも静謐な誇りを纏う姿があった。

その対比こそ、ふたりが決して相容れぬ存在であることを示していた。


「連行せよ。」


皇帝の言葉に従い、両脇が近衛に固められる。

自ら腰の剣を抜き、シアトリヒは胸元に佩いた徽章とともに恭しく差し出した。

そして抵抗の素振りすら見せず、誘導に従って歩み出す。

だが数歩歩いたところで足を止め、振り返った。


「……弟よ。そなたには礼を言わねばなるまい。」


唐突な一言に、広間の空気が乱れた。

礼?

その場にいた誰もが、シアトリヒの言葉の意味を測りかねていた。


「礼、だと?この俺にか?」


「そうだ。」


「何の礼だ?」


ナイジェルは怪訝に眉を吊り上げている。

真正面からその視線を受け止め、シアトリヒは静かに告げた。


「どんな形であれ、犬はようやく檻から解き放たれるのだ。

自分一人では、終わりのない輪から出ることが出来なかった。感謝している。」


廷臣たちの脳裏に、第一皇子の蔑称である“狂犬”の比喩が思い起こされる。


「……感謝、とな?」


ナイジェルの瞳は大きく開かれた。


「何と言った?お前はたった今、すべてを失ったのだぞ。」


「そうか。それはよかった。そなたが満足したなら、なおのこと喜ばしい。」


兄の達観した様子に、顔から血の気が引いていく。


満足?

望んでいたのは、兄が絶望して這い蹲る姿だった。

だが目の前の男には、痛みも悔恨も見えない。

むしろ長き束縛から解き放たれたように、満ち足りた表情さえ浮かべている。


「喜ばしいだと?何もかも失い、惨めに死んでゆくというのに負け惜しみか?」


「もともと名など地に落ちていた。

そのうえ罪人に成り下がった身だ。今さら何を惜しむというのか。」


次の瞬間、激情が爆ぜた。


「ふざけるな……ふざけるなァ!!

俺はお前に感謝されるためにやったのではない!

俺は勝ったのだ!なのに……なぜお前は涼しい顔をしていられる!!」


掴みかかろうとして踏み出すナイジェルを、宰相や近衛が慌てて押さえ込む。


「どうかお鎮まりを!」


「離せ!離せと言っている!」


「殿下!お気を確かに!」


なおも暴れる弟をシアトリヒは一瞥したのち、静かに視線を外した。

深い憐れみの色を湛えた眼差しを残して。

やがて彼は近衛に導かれ、堂々と歩み去る。

背に漂う威厳は、邪魔者を排除したはずの弟をいっそう惨めに映した。


「シアトリヒ!!」


押さえ込まれたまま、ナイジェルは声の限りに叫ぶ。


「最後まで、最後の最後まで……この俺をコケにしやがって!!」


誰が敗れ、誰が真に勝ったのか。

廷臣たちは固唾を呑むより他はなかった。

重々しく閉ざされる扉の音。

あとに残されたのは、弟の絶叫だけであった。

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