3-15
柔らかな光が部屋を満たしていた。
夜の気配はすでに遠く、窓の向こうでは朝が息づいている。
外にはすでに人の往来があり、忙しない空気が務めの刻を告げていた。
ルナリアは、隣で眠る彼の寝顔を見つめる。
穏やかな表情を浮かべており、昨夜とは打って変わって年若い少年のように映った。
奇跡のような朝が、今ここにある。
嵐のような一夜が明けたことを、ようやく実感として受け止めつつあった。
しかし昨夜のことを思い出すと、顔から火が出そうになる。
未だ現実の出来事とは思えない。
まるで夢の中を漂っていたかのようで、目を覚ました今も、その続きを生きているような心地がしている。
幸せな時間だった。
伴侶にと望まれ、狂おしいほどに求められた。
いつも穏やかな人が、あんなにも乱れて。
理性をかなぐり捨てたような姿を思い出すだけで、動悸が止まらなくなる。
けれど幸福の余韻に浸るには、現実はあまりに深刻だった。
彼は、帝国の第一皇子。
自分は、罪人の家の娘。
望んではならない関係であり、決して埋められない隔たりがある。
昨夜、彼は言った。
すべてを捨てても、自分がほしいと。
その言葉の意味を、今になって理解していた。
彼は、己の命をすでに勘定に入れていないのかもしれない。
なぜこの人ばかりが、そこまでの覚悟を強いられなければならないのだろう。
本来ならば、幸せにならなければならない人である。
彼は孤独と痛みを抱えながらも誰にも頼らずに立ち続けてきた、誇り高い人だ。
不遇にあっても折れることなく信念を示してきたこの人は、正しく報われるべきなのだ。
それなのに、自分は何ひとつ支えになれない。
それどころか重荷となっており、彼を傷つける存在になっている。
自分を抱える以上、今度こそ彼は致命的な打撃を受けるだろう。
たとえ伴侶になると誓っても、現実には叶わぬこと。
自分では幸せにできない。
そう理解しているのに、昨夜の彼の声が焼きついて離れない。
言葉の残響が、今も耳の奥に残っている。
「愛している」
「一緒にいたい」
閨の中で紡がれたものでも、単なる睦言ではない。
あんなにも真剣な眼差しで告げられたのだ。
どうして忘れることができるだろう。
素性を知られてしまった自分の行く末は、もう分かっている。
ずっと一緒にいられないことも。
だから贅沢は言わない。
終わりが来たら、その時はきちんと受け止めるから──もう少しだけ。
せめて今だけは、夢を見てもいいだろうか。
……などとぼんやり考えていたら、ふと視線を感じた。
藍色の瞳が開かれており、目が合ってしまう。
いつの間に、目を覚ましていたのだろうか。
しどけない姿のままでも、その面差しは麗しい。
途端に恥ずかしさが込み上げてきて、慌てて狸寝入りを装った。
すると、頭上からくすりと笑い声が降ってくる。
薄目を開けると楽しげにこちらを覗き込んでいる瞳があり、また視線がぶつかった。
「おはよう、ルゥ」
とびきり甘い声。
ひどく親密な響きに、耳まで熱くなる。
恥ずかしさに耐えきれなくなり、掛布の中に潜り込んだ。
しかしそれもあっさりと剥がされ、腕の中に捕らえられてしまう。
「もう……戻りませんと……」
「どこに戻るのだ?」
「つ、勤めが……ありますから……」
「そなたの勤め先は今日からレガリア宮だ。もう第一皇子の寵姫なのだから」
「ち、ち、ちょ……寵姫……?」
ルナリアはどうにもならないほど動揺した。
彼はそれを面白がるように、顔を寄せてくる。
「寝ている間に、転属手配をした。宮務課にも伝わっているはずだ」
「い、いつの間に……?」
「女官長には難色を示されていたが、実のところ手配そのものは前から整えてあった。
ゆえにそなたはもう、レガリア宮の侍女である。しかも私の専属だ」
「専属……侍女……?」
「私に仕える私的な女官。つまり、誰がどう見ても寵姫というわけだな」
──なんという人だ。
ルナリアは目眩を覚えた。
本気で考える余地を与えることなく、こうして素早く搦め取るつもりだったのだろう。
あまりの周到さに、苦笑が漏れる。
ラミエルではない、シアトリヒという男の素顔を見た気がした。
「もっとも……そう長いことではないと思うが」
彼の声音が物憂げに沈む。
よい意味での話ではないことは分かるので、ルナリアも口を噤んだ。
「まあ、今のあいだくらいは大丈夫だろう。せっかく専属になったことだし」
「な、何を……?」
問い返した途端、急に乗り上げてきたので狼狽する。
「着任早々だが、侍女殿に仕事をお願いしようか」
「で、殿下……っ……」
唇に人差し指が触れた。
「シアトリヒ、だ」
名前を呼ばせたいのだと気づいた瞬間、混乱が訪れる。
真名は軽々しく口にできないものだ。
ましてや女官如きが皇子の名を呼ぶことなど、許されない。
この人は、一体どこまで自分を甘やかすつもりなのか。
畏れ多さに言葉を失った。
しかし目に飛び込んできたのは──子供のように無垢な期待を浮かべた瞳。
(そんな顔をされては)
根負けしたルナリアは、消え入りそうな声で呟いた。
「シ……シアトリヒ、さま……」
その瞬間、彼は花が零れるように破顔した。
笑顔のあまりの眩しさに、ルナリアはとうとう耐えきれなくなる。
「こ、これ以上は……ご勘弁を……」
「許せ。朝起きたら、そなたが傍にいた。それが嬉しくて、柄にもなく浮かれているのだ」
そう言われてしまったら、いよいよ立つ瀬がない。
ルナリアは降参するしかなかった。
そして朝っぱらにも関わらず侍従が呼びに来るその時まで、呆れるほどに彼の浮かれとやらを見せつけられる羽目になる。
その後の数日間は、現実が遠のいてしまったかのようだった。
時からも義務からも離れ、すべての掟から外れたところで、ふたりはただひたすら共に在り続けた。
朝。
目覚めたとき、彼は隣にいた。
眠そうにしながらも彼は自分を腕に抱いて、髪を梳く。
指が髪の間を抜けてゆくたびに、胸が震える思いだった。
くすぐったさと幸せを感じながら、目を閉じる。
食事は、離宮の食堂でともに取った。
腹心をはじめ彼に仕える数名の侍従が控えていたが、皆、主の変化に気づいていた。
離れたところから、彼の穏やかな様子を静かに見守っている。
悲しみと安堵、複雑な想いが交錯する眼差しが印象的だった。
陽が高くなると、ふたりは外へ出る。
離宮の庭は広く、散歩の場所に困ることはない。
「お仕事は……?」
恐る恐る尋ねると、彼は少し口元を緩めて答えた。
「蜜月、ということにでもしておこうか」
冗談めかした言葉に困惑を浮かべると、すかさず言い添える。
「心配いらない。自分がいなくても回るように仕組んである。
戦場で倒れることもあるのだから、欠けて立ち行かなくなるような組織にはしていない」
当たり前のように語っているが、やはりこの人は稀有な人なのだと実感した。
どんな状況にあっても、己の責務を果たしてきたのだろう。
それなのに、この国は正当な評価を与えない。
国のために尽くしていることが、必ずしも正しい道に繋がるとは限らないのだ。
それを分かっていても、彼は誠実だった。
報われなくても背を向けず、己の道を選び続けた。
次代の皇帝になっていたら、きっと歴史に残る素晴らしい君主になっていただろうに。
ルナリアは不条理を飲み込めずにいた。
草花が咲き始めた小道をゆっくりと歩き、他愛のない話を交わす。
皇宮の厳格な庭とは異なり、このあたりでは野の草花が自由に咲き、どこか懐かしい風景を思わせた。
手入れは行き届いていないが、それゆえの素朴さがあり、穏やかな時間を運んでくる。
「これは食べられる。飢えたときには役に立つ」
シアトリヒは足元の草を摘み上げて示した。
「召し上がったこと、あるのですか?」
「ある。兵糧が尽きてな。食えるものは口に入れた」
笑っていたが、言葉の底には過酷な記憶が滲んでいる。
尊い身の上にありながら、歩んできた道は険しかったのだと、ただ痛感した。
「これも食べられる。でも苦いから、やめておいたほうがいい」
「お詳しい、ですね。まるで植物博士みたいです」
「必要に迫られれば、誰しも学ぶものだ」
そう言って笑う背中を追って歩いていると、彼は小さな紫の花の前で足を止めた。
紫掛かった白い花弁。
眺めながら、ぽつりと呟いた。
「この花はジルバーブラットと呼ばれているが、ルナリアという名でも知られている」
自分と同じ名前の花との思いがけない出会いに、ルナリアは目を瞬く。
「乾かすと銀色に透ける。月のコインとも呼ばれているのさ」
足元に咲く、楚々とした花を見下ろした。
その小さな命がいとおしく思えた。
「綺麗……ですね」
「ああ、綺麗だ」
言外の意味を悟り、頬が熱を帯びた。
畏れ多くて恐縮してしまうものの、好きな人からそう言われれば、やはり嬉しい。
しかし不意の直球に、ぎこちなく微笑みを返すので精一杯だった。
もう少しだけ付き合ってくれないかと頼まれ、離宮の庭から南翼へと向かう。
南翼には馬場と厩舎があった。
陽に照らされた柵の向こうで馬達は鬣を揺らし、草を食んでいる。
一般の厩舎を通り過ぎ、皇族専用の厩舎へと進んでいった。
入口で待つよう促され、その場に留まる。
黒い軍馬──キーラの前に、シアトリヒは立っていた。
彼女は静かに首を伸ばし、甘えるように鼻を押し当てている。
待ちわびていた相手を迎えるような仕草だった。
彼は首筋に手を置き、やわらかに撫でる。
ひたすら優しく。
語りかけるかのように撫で続けていた。
その姿は、別れを済ませているかのようだった。
戦場を共に駆け抜けた相棒への、最後の挨拶なのだろうか。
撫でる手つきがあまりに優しくて、ルナリアの胸は詰まりそうになった。
南翼を後にし、ふたりは東へと歩を進める。
やがて姿を現したのは、歴代の皇族を祀る霊廟だった。
白亜の石で築かれた大いなる建造物は、権威そのものを形にしたように荘厳だった。
高い天窓から差し込む光が大理石の床に冷ややかな筋を描き、空気には沈黙の重みが漂っている。
その静寂の中に立つだけで、身が引き締まる思いがした。
彼は無言のまま奥へと導き、ひとつの石棺の前で立ち止まる。
そこに眠るのは、彼の母──亡き皇后陛下。
「子供の自分が言うのもなんだが、聡明で美しい人だった」
ぽつりと零された声は、石壁に吸い込まれて消えていった。
「人から慕われ、世をときめかせた。
けれど誰もが羨む身の上であっても、裏では苦悩を抱えていた。
多くの敬愛を集めながらも、夫の愛情だけは得られなかったのだ」
彼は石棺を見つめたまま、言葉を継ぐ。
「息子には決して弱音を吐かなかった。
強く気高い人というものを、自分は母を通して知った。
この人を母に持つことは、自分の誇りだった。
帝は首を垂れぬ女と疎んでいたが、母であることを抜きにしても尊敬に値する人だった」
揺るぎない敬意が言葉の端々に滲んでいた。
ルナリアは、背筋が伸びる思いで耳を傾ける。
「夫婦のことなど、外から測れるものではないと分かっている。
けれど子どもにとっては、簡単に割り切れるものではない。
私が生まれた後、父は外に愛を求めるようになった。
母は……その背中を、どんな気持ちで見送っていたのだろうな」
重い沈黙が落ちた。
何も言えることはない。
彼女には分かりようのない辛さだった。
自分の父と母は仲睦まじく、子どもの目から見ても互いに敬意を持って接していた。
だから彼の抱えてきた苦悩を想像することは難しい。
それでも、幼い頃から胸を痛め続けてきたのだということだけは理解できた。
この人が自分を唯一のように扱ってくれるのは、不実な父親の姿を見てきたからなのだろう。
どこまでも悲しく、優しい人だ。
幼き日の彼ごと抱きしめてあげたいと、胸の内で思った。
そんなことを考えている時に、ぽつりと彼は呟く。
「母に伝えておきたかった」
「皇后様に……?」
ルナリアはたじろいだ。
亡き人とはいえ、相手は皇后陛下。
緊張が走ったが、彼女の表情の硬さを見たシアトリヒは肩を抱く。
「きっと、嫁を連れてきたと喜んでいるはずだ」
「そう、でしょうか……」
「生まれがなんだと、いちいち気にするような人じゃない。細事に拘らぬ豪放な人だ。
もし生きていたら娘ができたと、あちこち連れ回されていたであろうな」
語る声音は、まるで目の前に母の姿を見ているかのようだった。
だから飾ることなく、素直な気持ちを口にする。
「存命の折に、お目にかかりたかったです」
彼は目を瞬いたが、それから嬉しそうに口元を綻ばせた。
「向こうもきっと言っているさ。苦笑いでもしながら、息子が苦労をかけているとでも言いそうだ」
静かな霊廟に、小さな笑い声が反響する。
手を繋ぎ、石棺に向き直った。
そうして──彼は言葉を紡ぐ。
「不甲斐ない息子に、さぞや心を痛めたことでしょう。
けれど今は、これで良かったのだと思っています。
歩んできた過程がなければ、知り得ないことばかりでした。
今日を限りに儚い身になろうとも、悔いはありません。
陛下ならば、きっと分かってくださることかと信じております」
彼は息を吐いて、視線を石棺に落とした。
しばしの沈黙の後で、深く頭を垂れる。
「……有難うございました。
いつかまた、時の巡るところでお目にかかれますように」
空気に溶けてゆくように、最後の言葉が消えていった。
握られた手の温もりを確かめながら、ルナリアはその横顔を目に焼きつける。
巡りゆく時の輪の中で母と子が再び抱き合えることを、祈らずにはいられなかった。
その祈りは自らの奥底へも流れ込み、失われた人々の面影へと重なっていく。
いつか彼らとも遠い未来のどこかで再会できたなら、それ以上の救いはないだろう。
やがて、その願いは自分と彼──訪れようとしている別れへと向かっていた。
時の巡るところで再び相まみえることができるのだとしたら。
この先に待つ未来をも、恐れずに受け入れることができるかもしれないと思った。
夕。
部屋に戻ると、彼は静かにヴァイオリンを取り出した。
重厚な胴体に指を丁寧に這わせ、懐かしむような仕草で弦を確かめる。
そして弓を持ち、迷いのない手つきで奏で始めた。
旋律は夕焼けに染まる離宮の空気を揺らし、静かに、情感を湛えて響く。
とても戦場の将とは思えぬほど繊細で、傷を宥めるような音色だった。
ルナリアは呼吸を重ねて耳を傾ける。
ただの趣味ではない。
長い年月、たしかにこの人の中で息づいてきた音だった。
そこには、魂の痛みを思わせるような深みがあった。
長く習っていたという。
弓を構えるその手には、長く親しんできた者の名残があった。
けれど途中、弦が引っかかるように鳴り、音が途切れる。
そこで、静かに弓を下ろした。
「昔のようには、動かないものだな」
そう呟く彼の横顔に、ルナリアは胸の痛みを覚える。
物悲しい音は感傷を呼び起こしていた。
かつてこの楽器を練習していたころは、幸せだったのだろうか。
願わくば、その時間が彼にとって痛みではなければいいと、思わずにはいられなかった。
夜。
寝る前の支度をしていると、彼が櫛を手に取ってルナリアの背後に座った。
「髪を梳かしてもよいか?」
頷くと、彼はそっと櫛を入れた。
一房ずつ、絡まりをほどくように丁寧に。
手つきはどこまでも穏やかで、触れるたびに愛情が染み込んでいくようだ。
「綺麗な髪だ。ずっと、こうしてやりたかった」
零れた声に、涙がこみ上げる。
誰にも言えなかった寂しさも、心の奥に隠してきた傷も、すべて包まれていくようで──
梳かれてゆく感触が、優しい祈りのようにも思えた。
この人のそばで、何気ない時間を共にすること。
ただそれだけのことが、今は何よりも尊く思えた。
そんなふうに過ごした数日間は、ひどく静かで、けれど濃密だった。
朝が来れば目を覚ました彼がいて、昼には笑顔があり、夜には熱があった。
食卓を共にし、同じ景色を眺め、隣で寄り添って眠った。
それはずっと心から望んでいた、ごくありふれた幸福の形だった。
しかし、この幸福に終わりがあることはわかっている。
ふたりはその終わりについて語ることはなく、今だけを、互いだけをひたすら見つめていた。
そうして心から知ったのだった。
誰かを愛することはこんなにも優しくて、こんなにも切ないものだということを。
後に何も残らないものだとしても、それでも差し出さずにはいられないものが愛なのだということを。




