3-14
やがてふたりは、言葉を交わすことをやめた。
唇を触れ合わせる。
最初はためらいがちに、互いの痛みを宥めるように。
徐々に重なりは深くなってゆき、いつしか吐息が乱れるまで求め合う激しさへと変わっていった。
熱を奪うかのような口付けに目眩を覚えつつも、応える。
余裕を少しずつ無くしてゆく彼の様子が愛おしくて、必死で追いかけた。
気の遠くなるような長い口付けの後、大事に抱えられながら寝台に運ばれる。
徐にシアトリヒは足元に跪いた。
そして、ルナリアに縋るような眼差しを向ける。
「伴侶となってくれるだろうか。」
はたと、ルナリアの呼吸が止まった。
予期していなかった言葉に、空白が訪れる。
「伴侶」という言葉の響きは夢物語のようで、自分にはあまりに似つかわしくないものだった。
嬉しくない訳がない。
でも畏れの方が強かった。
二つの感情がせめぎ合い、胸が押し潰されそうになる。
「わたしは……何も持たないだけでなく、殿下の重荷になるだけの女です。それなのに……伴侶など……」
シアトリヒはわずかに怯んだような表情を見せた。
それでも、すぐに問い返す。
「嫌なのか。」
「そう、ではなくて……」
言葉が途切れる。
どうしても言い切れなかった。
別れが訪れることを前提に考えていたから、どう答えればいいのか分からない。
逡巡の果てに、やっとの思いで声を絞り出す。
「本当に……わたしで、よろしいのですか。」
シアトリヒは手を取り、甲に恭しく口付けた。
それは求婚の口付け──生涯を賭して添うという、静かな誓いの証である。
儀礼ではなく、ただただ真心を感じた。
「他の誰でもなくルナリアがいい。過去にどんな影があろうとも関係ない。」
彼の言葉は、心の奥底でずっと渇望していた「存在の肯定」だ。
十字架を背負う自分にはあり得ないことだと思ってきたからこそ、震えるほどの衝撃があった。
ルナリアの頬を涙が伝ってゆく。
「うれしい……こんな、わたしでもいいと、言ってくださって……」
「で、どうなのか?」
冷静な男が珍しく、少し焦れた様子で問い返してきた。
涙とともに精一杯の思いを込めて、ルナリアは微笑む。
そして、しっかりと彼の手を握りしめた。
「一緒に……いたい……」
目元を緩めたシアトリヒも、強く握り返してくる。
「ああ、どこまでも一緒だ。」
それは誓いというよりも、破滅を分かち合う覚悟だった。
すでに多くのことが明るみに出てしまい、自分達に残された時間は少ないことは分かっている。
それでも嬉しかった。
生きていてよかったと、初めて思えた。
改めてふたりは見つめ合う。
誰からも祝福されない契りではあるが、それがかえって自分達らしいとも思った。
正しく生きたいのではない。
人から許されたいのではない。
自分達はただ、愛し、愛されたいだけなのだ。
それを選んだことで、たとえ暗がりに落ちてゆこうとも。
「そなたを壊してしまうかもしれない。それでも……わたしに情けを掛けてくれるか?」
震えながらも微笑むと、睫毛の先で涙が揺れた。
「いい。全部……あなたのものに。」
言い切る前に、指先が頬に触れる。
熱い。
けれど、その熱がただひたすらに愛しかった。
互いは互いのために存在している。
その絆を確かにするために、静かに衣を落とし合った。
惜しげもなく全てを曝け出し、偽りのない自分を差し出す。
羞恥も恐怖も、覚悟の前では意味を持たなかった。
ふたりは固く抱き合い、重なり合う。
指先が身体を這った。
耳に、首に、肩に。
その後を唇が追う。
慈しむように口付けられ、彼の想いの強さを呆れるほどに刻みつけられた。
細い月の光が、頼りなく窓辺を照らしている。
ルナリアは肩越しに、空を見上げた。
銀に濡れた夜の輝きは、美しくも儚くて。
温もりと溶け合い、胸を切なく震わせてくる。
あまりに鮮烈な情景だからだろうか、どうしても感傷的になってしまう。
都合のいい夢でもみているのではないか──そんな思いが浮かんでくる。
最初の手紙から、四年以上が過ぎていた。
あの時、恐々と筆を取っていた自分には、今日のことなど到底想像もできなかった。
それが今や彼は誰よりも大切な存在となっており、こうして誓いを交わすまでに至っていた。
一通の手紙が、これほどまでに人生を変えてしまうとは。
人の縁とは、つくづく不思議なものだ。
本当にずいぶんと遠くまで来てしまったのだと思う。
自分は運命など信じてはいない。
どうして自分ばかりがと嘆いたことはあっても、決められた道を歩かされているなどとは思いたくなかった。
けれど彼だけは違う。
大きな流れに抱かれていると、確かに感じられる。
言葉にはならない何かで結びついている、不思議な実感。
例えるならば、それは巡り合わせとでもいうのだろうか。
自分を形作ってきたもののすべてが、この場所へと導かれていた──そう思えてならなかった。
だとすれば、これをやはり「運命」と呼ぶほかはないのかもしれない。
「知っているか?こんな神話がある。」
熱に浮かされた声音で、ふいにシアトリヒが囁く。
昔、男と女はひとつの存在だったという。
頭が二つに、手足が四本ずつあって──今の人間二人が背中合わせにくっつけたような姿をしていたらしい。
けれど彼らは傲慢で、神をも恐れぬ不遜な態度を取ったため、怒りに触れて身体を真っ二つに引き裂かれてしまった。
以来、人間はその引き裂かれた半身を求め、永遠に彷徨っているのだと。
「もしかしたら、わたしとそなたは、本来ひとつの人間だったのかもしれないな。
だから、こんなにも引き合うのかもしれぬ。」
荒唐無稽な話にも聞こえた。
だが、一方ではそうなのかもしれないとも思う。
そうだったらいい。
すでに彼のいない世界など、思い描くことができなくなっていた。
ルナリアはシアトリヒに向かって手を伸ばす。
彼も身を屈め、身体に腕を巻き付けてきた。
そして強く強く抱擁される。
「もう一人きりでは生きてゆけない……
そなたを知ってしまった今、切り離されてひとりになるなんて耐えられない。」
「殿下……」
「共に在ることが理に背くものだというのならば、罰など望むところだ──」
激情をあらわにした瞬間、鼓動がひとつに重なる。
瞼の裏が赤に染まった。
そして身体の奥が、限りない熱で満ちてゆく。
「ルナリア……」
狂おしいほどの喜びがあった。
これまでになく彼の存在というものを近くに感じており、苦痛でさえも甘い。
女の性なのか、それとも愛する男だからこそ受け入れられることなのか──もはや分からなかった。
ただひとつ確かなのは、欠けていたものが、いま満たされているということ。
(死にたくない。)
胸の奥から、想いが込み上げてくる。
やっと、この人とめぐり逢えたのに。
やっと、生きていてよかったと思えたのに。
こんな夜を知ってしまった今、どうして死など望めようか。
けれど分かっている。
自分達に未来はない。
この先にあるのは破滅だけだ。
「殿下……わたしを──離さないで。」
「離れられるはずがない。」
「離さないで。」
「死んでも離さない……」
世界は、なんと残酷なのだろう。
奪い尽くされて、ようやく得たものを、また奪おうとする。
幸福を知ったばかりの心を、どうしてこれほどまでに弄ぶのか。
ならばいっそ、この瞬間にすべてを燃やし尽くしてしまえばいい。
そうすれば、もう何も奪われずに済む。
小さな幸福でさえも望めない、惨めな自分達。
だからこそ、互いのぬくもりに縋るしかなかった。
悲痛なまでの想いは渇望へと変わり、引き返せないほど苛烈に燃え上がってゆく。
やがて情交は理も形も越え──人であることを忘れさせるほど、ただ「存在」と「存在」とが溶け合うものとなった。
境を失ったふたりの世界には、もはや何ものも存在しない。
確かめ合うというより、互いを取り込むための行為に変わっていた。
「愛している……ルナリア……」
「でん、か………」
「愛して……る……」
破滅が目前に迫っている。
しかし身震いするほどに甘く、そして痛いほどに残酷な幸福がここにあった。
もう、戻れない。
ふたりはこの夜を終わらせまいと必死で求め合い、破滅の淵へと身を投げた。




