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3-13

帝国は繁栄の影で腐っていた。

宮廷は権力者の欲と策謀に満ち、正義を語る者ほど排斥された。

それでも人々は現状を安寧とみなし、沈黙の中に身を置いた。


だからこそ、彼の声は異端とされた。

皇弟アーヴェライン大公レオルド。

彼は腐敗した国の根を断ち、乱れた秩序を正そうとした。

官僚の粛清と軍政の改革を進め、宮廷貴族が長年にわたり貪ってきた利権を断ち、国に理を取り戻そうとしたのだ。

しかしその結果は、多くの血を流すところとなった。

志は「皇弟の反乱」と名を変え、今もなお裏切りの象徴として語り継がれている。


父のジグバルト伯が、その時どんな選択をしたのかは知らない。

ただ、あの人は優しく私利私欲とは縁遠い、誠実な人だった。

きっと、何らかの覚悟をもってその渦中に立ったのだろう。

反乱の終焉とともに、父も母も、親族も皆処刑された。

しかし自分だけが取りこぼされるように、生き残った。

機転を利かせた母が、最期に周到な手を打っていたのだ。


遠い親類の家に預けられた自分。

だが、そこにあったのは名目だけの庇護。

拾ってもらったことに感謝がないわけではない。

人道として放置できなかったのだろうとも、理解はしている。

でもそれだけ。

優しい言葉も誰かのぬくもりも、与えられなかった。


幼いころから言葉がうまく出せず、性格も内気だった。

父と母は惜しみない愛情を注いでくれたが、自分は人となかなか打ち解けられない性分。

可愛がられるはずもなく、疎ましく思われるのも無理はなかった。

やがて「養ってやっているのだから」と言われるようになる。

食い扶持は自分で賄え。

置く以上は働いてもらう。

掃除や洗濯、使い走りのようなことをするのが日常となり、気づけば扱いは使用人と変わらなくなっていた。


食卓を囲む笑い声を、遠くの部屋から聞いていた。

自分はその片付けを終えたあとに残り物を与えられ、厨房の片隅で口に運ぶのが常だった。

言葉もうまく出てこない。

吃音がひどく、話すたびに笑われた。

親が揃っている子たちが羨ましかった。

楽しそうに笑う声、叱られて泣く姿、抱きしめられる幸せを見て、すべてが遠い世界の出来事のように思えた。


自分には何もない。

何も持っていない。

その事実を思い知らされるたび、心の奥でぽつりと思った。

──どうして生き残ってしまったのだろう。


十五のとき「ここまで面倒を見てやったのだから、奉公に出て恩を返せ」と言われた。

その奉公先とは、何の因果か皇宮。

恐ろしくて堪らなかったが、自分の意思が入り込む余地などなかった。

それでもここにいるよりは、幾分ましなのかもしれない。

そう言い聞かせて、奉公に出ることを受け入れた。

貴族子女としての体裁が整えられ、血筋の保証のために遠縁の貴族と形式だけの養子縁組も交わされる。


しかし、奉公に出たとて何かが変わるわけではなかった。

吃音は治らず、出自も曖昧なまま。

おどおどとした態度は格好の標的。

陰で嘲られ、用が済めば忘れられた。

人手が足りないときだけ呼ばれ、自分のものでもない仕事を押しつけられる。

それでも嫌とは言えず、黙って引き受ける毎日。

自分に嫌気が差していた。


それでも耐えていた。

虚しさに押し潰されそうになった日もあったが、いつか自分の足で立てる日が来ると信じて。

誰にも頼らず、感情を封じて、日々をやり過ごしてきた。


葛藤と希望の狭間を行き来するように生きていた時期だった。

文書室の棚を整理していたとき、一冊の本のあいだに手紙が挟まっていたのを見つけたのだ。


壮絶な悲しみが綴られた、一枚の手紙。

引き摺り込まれてゆくように読んだ。

そして、気づけば返事を書いていた。

手紙の向こうの書き手の悲しみを、どうしても置き去りにできなくて。


それが、この人の書いた手紙──遺書だった。


「アーヴェライン大公の反乱のとき、わたしは十歳でした。

運がよかったのか、悪かったのか……ひとりだけ生き残ってしまったのです。

本当は処刑されるはずの身でしたが、なぜか親戚の家に拾われ、女官になるまでの間をそこで過ごしていました。」


ルナリアの声は震え、次第に力を失っていった。


「その家は冷たかった。

“置いてやっているだけで十分だろう”──そういう扱いでした。」


使用人のように働いていたこと。

憂さ晴らしの道具として、日々蔑まれていたこと。

皇宮に来たのは、親戚の顔を立てるためであったこと。

恐ろしくても、自分には選ぶ権利がなかったこと。

皇宮でも身元がばれるのではないかと怯える毎日で、誰とも馴染めず、いつでもひとりだったこと。


訥々と過去を語る。

ひたすら黙って、シアトリヒは話に耳を傾けていた。

背を撫でる掌は痛みを引き受けようとするかのように優しく、あたたかかった。

こんな小さなところでも、彼は寄り添ってくれる。


「でも……あなたが……ラムだけが……わたしに確かな居場所をくれた。

あの頃、手紙が……わたしの世界のすべてだったんです。

あの手紙の遣り取りは、わたしがまだ生きていていいのだと思える、ただひとつの証でした。

届いた手紙を読むこと、寝る前に返事を書くことが唯一の楽しみでした。

仕事の合間に古文書室へ通って……便りが届いていないか毎日のように確かめました。

擦り切れるほど読み返した手紙もあります。

手紙の言葉には、幾度も慰められました。

苦しいときもそれを読めばまだ生きていけると、力をいただいていたのです。

そしていつしか、手紙の向こうにいる相手を意識するようにもなっていました。

その人から会いたいと言われた時は、怖かったけれど天にも登る気持ちだった……」


彼女は小さく息を整え、言葉を継ぐ。


「初めてお会いした時、ルゥと呼んで欲しいと言ったことを覚えておられますか?

この名前は、両親がわたしを呼ぶときのものだったのです。

だから、あなたに愛称を聞かれたとき、両親だけが呼んでくれた名前で呼んでほしいと思いました。

ルゥという愛称は……わたしが、まだ幸せだった頃の名残だったから。」


シアトリヒは少しだけ驚いたような顔をしたが、静かに笑った。


「同じだ。」


ルナリアが、涙の瞳で見上げる。


「わたしも母だけが呼んでいた、もう誰も呼ぶことのなくなったその名を──そなたにも、呼んでほしいと思っていた。」


次の瞬間、ふたりは弾かれたように強く抱き合った。

衝動のまま、互いの胸に顔を押しつける。


「ルゥ……」

「ああ…………ラム──」


言葉も理屈も要らなかった。

万感の想いが混じり合う。

痛みと恋しさと、救い。

名を呼び合うだけで心の奥底に沈んでいたものが引き上げられてゆき、光の方へと流れてゆく。


「苦しいばかりの生など、運命と呼ぶ価値もないと思っていた。だが、そなただけは違う。」


シアトリヒは押し殺すように言いながら、抱き止める腕に力をこめた。

その腕には、揺るぎない決意がこもっていた。


「この先、そなたのいない未来など考えられぬ。」


声には、涙の気配があった。

ルナリアも泣き笑いをしながら、彼の頬に手を添える。

唇が震えたが、懸命に言葉を紡いだ。


「わたしも……です。あなたのいない世界なんて、何の、意味もない……」


夜の静けさに想いが溶け合う。

シアトリヒは額を重ね、息を抑えるようにして囁いた。


「そなたがいるから、わたしはまだ生きていられる。」


「わたしも……あなたに、ずっと支えられてきました。」


胸の奥に熱がこみあげる。


「すべてを失っても……いい。今はそなたこそが、わたしの存在の理由なのだ。」


──自分も。この人の孤独に寄り添えるのなら、何にだってなりたい。


堪えきれず、彼の胸元に顔を埋めた。

抱き返す腕は熱く、強い。

失いたくないという想いが、ふたりをひとつに結び付けていた。

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