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3-4

レガリア宮。

灯りを落とした寝台の上で、ルナリアとラミエルは身を寄せ合っている。


先ほどまで、ふたりは濃密に求め合っていた。

今日もまた情熱的に愛され、恥ずかしいほど乱れた自分。

それでも──求められて嬉しくないわけがなかった。


けれどもルナリアがいちばん好きなのは、その後のひとときだった。

髪を撫でてもらったり、口づけを落とされたりする時間。

大事にされていることを感じるからだ。

どうやらこの人は、相手に尽くすことが好きらしい。

抱き合う時も自分のことは二の次で、いつも彼女ばかりを満たそうとする。

それでも満足そうにしているものだから、絆されてしまうのだ。


「少し、暑くなってきましたね。」


包んでくる腕が、ほんのりと汗ばんでいた。

ルナリアもぼんやりと頷く。


「……もう夏、ですから。」


「あなたとお会いするようになって、一巡りの季節を重ねました。夏は二度目になりますね。」


春も、夏も、秋も、冬も、この人と過ごせた。

一度きりだと思っていた時間が積み重なり、気づけば季節を二度巡ろうとしている。


「どの季節が好きですか。」


促されたルナリアは、少し考えてみた。


「わたしは……秋が好きです。

寂しいという感情を抱かせる季節でもありますけど、感性が研ぎ澄まされてゆくようで。」


「花の季節が好きとおっしゃるのかと思っていました。でもその気持ち、なんだか分かる気がします。」


ルナリアは小さく笑って言い添える。


「あとは、食べ物が美味しくなるところも、好きです。」


「健康的でいいですね。たくさん食べて大きくなってください。」


「また、ちびって言いましたね。」


「言ってませんよ。」


「成長期、終わってます。」


どついてやると、ラミエルは目を細めて笑っていた。

こうした他愛もない遣り取りがとても心地よくて、胸に沁みてゆくようだ。


「夏は苦手です。帝都の夏は、暑すぎますから。」


「そういえば、苦手だと前も仰っていましたね。」


「はい、外に出るのも億劫になってしまうのです。」


言葉を濁した彼女の頬を、ラミエルは愛しげに指先で突いた。


「でも、夏には夏のよさもあります。夜空が綺麗に見えるのですよ。」


「夜空が?」


「ええ。空気の澄んだ冬の方が星はくっきり見えますけれど。

夏の夜空は光が帯のように重なって、格別の美しさがあります。」


静かに耳を傾けるルナリア。


「そういえば……近く、星が降る夜があったはずです。」


ラミエルが思い出したように呟いた。


「星が降る夜?」


「ご覧になったことは?」


見たことがないと、首だけで返事をする。


「子供の頃、一度だけ“流星雨”を見たことがあります。

夜空のあらゆる場所から光が落ちてきて、消える間もなく次の星が流れる……空が燃えているようで、圧巻でした。

忘れられない光景です。」


語る声は熱を帯びていた。

ラミエルはいろんなことを知っているけれど、月や星の話になると殊更饒舌になる。

好きなのだろう。ルナリアはひっそりと思った。


「見せてあげたいな。」


ぽつりと洩らされた彼の言葉に、ルナリアの胸が甘く震える。


「帝都では、見られないのですか?」


「少し明るすぎますね。もし本当にご覧になるなら、郊外の……そう、標高の高い丘のあたりがいいかもしれません。」


「郊外まで足を運ばないと、見られないのですね。」


残念、と少しだけ落胆した。


「少し遠いけれど、行ってみますか?」


思いもしない提案に、ルナリアは目を丸くした。

ラミエルは彼女の髪を撫で梳きながら、とびきりの笑顔を向けてくる。


「今回ご覧いただけるのは“流星雨”ほどではありませんが、それでもよければ。」


「い、行きたいです。けれど、ラミエル様のご負担になるのでは。」


「あなたひとり馬に乗せて走るくらい、わたしにとっては造作もないことです。むしろ嬉しいくらいですよ。」


頼もしげに笑う声に、鼓動がにわかに弾む。

遠駆けの約束が現実味を帯び、ルナリアは抑えきれぬほどのときめきを覚えていた。

天候や日程、といった条件が幾つかあったが、それらの問題もなんとか整えられる。

そして某日の早朝。

皇宮の裏手の通用口からひっそりと馬で駆け出してゆくふたりの姿があった。


「大丈夫ですか?」


前に座る彼女の肩越しに、ラミエルがそっと声をかけてくる。


「だ、大丈夫です。」


必死に笑ってみたものの、声はひどくぎこちない。

ラミエルは心配そうに続けた。


「いまは並足です。田舎道に入ったら少し駆けますけど、本当に大丈夫ですか?」


「だ、だ、だ……大丈夫です……」


実は全然大丈夫じゃない。

馬に揺られながら、ルナリアは全身を強張らせていた。

鞍の上は視界が高すぎて、落ちてしまいそうな恐怖が込み上げてくる。


怖いと伝えられればよかったのに。

けれど、彼に余計な気を遣わせたくなくて、とうとう言い出せなかった。

そのせいで、今はなんとも情けない状況に陥っている。


そんな彼女の様子を察したのか、ラミエルが気遣わし気に話を振ってきた。


「この馬はね、とても賢いのです。」


「へ?」


思わず間抜けな声が漏れ、振り返りそうになる。


「今日は大事な人を乗せたいとお願いしました。だからとても大人しい。よく分かっているんですね。」


ラミエルの声音には、愛馬への信頼が滲んでいた。

少し間を置いてから、ルナリアは尋ねる。


「お名前、あるんですか?」


「はい、キーラといいます。どこかの言葉で女王とか、そんな意味があるのですよ。」


黒々とした毛並みを朝の光が照らしていた。

凛とした立ち姿には、確かに気品が漂っている。


「美しい馬なので貴人への献上品になるほどだったのですが、気位が高くて皆を困らせていたそうなのです。

ところがわたしの前に来た時だけは、不思議と大人しくなった。以来、いい相棒を務めてくれています。」


「キーラという名前が、ぴったりですね。」


「そう思いますか?」


「主にしか従わない誇り高さを、感じます。でもそんな子が、よくわたしを乗せてくれましたね。」


言葉にした途端、後ろから柔らかな口づけが降ってきた。


「大事な人と言ったでしょう?だからこの子も分かってくれているのです。」


ルナリアは、顔がにやけてしまうのが止められない。

ああ、もう。

認めよう。

猛烈に照れるけれど、このひとのこういうところが──とても好き。


「でも、ヤキモチを焼いているかもしれないので、注意してくださいね。」


「ヤキモチ?」


「ええ。人馬はつがいのようなものですから。キーラは主人を伴侶のように思っている節があります。」


「それって、この子はラムのことを?」


「あまり不用意に手を出すと、噛みつかれるかもしれません。」


ラミエルは冗談めかして笑いながら、馬のたてがみを撫でた。


「でも、よくよく持ち上げて褒めてあげれば、機嫌を直してくれるはずです。ねえ、キーラ。」


黒毛の彼女は鼻を鳴らして答えていた。

思わずルナリアは苦笑する。


そうした語らいに夢中になっているうちに、気づけば緊張は解けていた。

馬上の高さにもいつの間にか慣れ、乗ったばかりの頃に押し寄せていた恐怖は感じられない。

今はただ、頬を撫でる風が心地よいとさえ思える。

景色は帝都の石畳の街並みから、緑豊かな田園へと移り変わっていった。

のんびりとした空気の中を、ふたりを乗せた馬は軽やかに進む。


田舎道を進んでしばらく経った頃、慣れたと判断したのか背後のラミエルが軽く身を起こしたのが伝わった。

街を抜けるまでは並足だったが、そろそろ速度を上げなければならない。

彼が軽く声をかけると、キーラはしなやかに脚を伸ばして駆け足へと移った。

ぐんと引っ張られる感覚に、ルナリアは身を強張らせる。

けれど背後から支える腕の確かさに、すぐ落ち着きを取り戻した。

風を切る感覚は、恐怖よりもむしろ胸を高鳴らせる。

青く茂る麦畑、風に揺れる野花の彩り、小さな集落の藁屋根。

めまぐるしく変わってゆく景色に心を奪われながら、馬を走らせる。


早朝の澄んだ青はいつしか眩さを増しており、陽は高く昇っていた。

時の流れに合わせるように、空の色も移ろってゆく。

東の空から中天、西の空。

陽もまた、ゆるやかにその道を辿る。

そして空に赤みが混じり始めた頃、ふたりはとある山裾の屋敷に至った。


開けた場所とはいえ、森の中に立っているためか辺りは静まり返っている。

人影もわずかで、どうやら管理人と思しき者たちが数人だけで暮らしているらしい。

けれど、不思議なほど手入れが行き届いていた。

隅々まで整えられていて、訪れる者を迎える準備がいつでもできているようにも見える。

ラミエルの話によれば、ここは「縁」の保養所なのだという。


帝都から遠く離れた片田舎にこれほど整った屋敷があることが、ルナリアに小さな違和感を与えていた。

いったい彼は何者なのだろう。

そんな考えが一瞬胸をよぎる。

けれど、その不安はすぐに霧散してしまった。

出迎えに現れた老女が、彼を見てにこやかに「ぼっちゃま」と呼んだからだ。

「いい歳ですから、その呼び方はやめてください」と、恥ずかしそうに言い繕うラミエル。

その姿がなんだか可笑しくて。

ルナリアは笑いをこらえることが出来なかった。


案内されたのは、母屋から少し離れた小さな棟。

人里離れた山荘のさらに奥、静けさがひときわ濃い場所だった。

足を踏み入れると、まるで世界にふたりきりになったかのような気分になる。

調度は過不足なく整い、離れでも不自由さは感じない。

誰も寄せ付けたくない、そんな意図を感じ取って胸の奥に甘い響きが落ちた。

夜までは時間がある。

少し疲労を覚えていたがそれでも誘惑に流され、寝台で睦み合った。

相変わらず彼は最後の線を越えることはなかったが、いつにも増して情熱的に愛される。

この非日常の時間の共有に、思うところでもあったのだろうか。

欲を抑えきれない様子が見て取れた。

ルナリアも一緒に引き上げられ、無我夢中でその想いに応える。

そして、ぐずぐずになるまで触れ合いを続け──

気づけば空は、夜の色に変わっていた。


今日は、月の光が頼りない。

星を見るには適した夜だ。

ルナリアはひとりテラスに立ち、夜気に身を晒していた。


頭の中では、一日を振り返っている。

夢のように幸せな日だった。

いつもの優しい姿だけでなく、初めてお目にかかれるような一面も見ることができて、胸はこの上なく満たされている。


それなのに、片隅には影がさしていた。

幸せすぎると、いつもこうだ。

素直に喜んでいればいいのに、自分には過ぎたものだと心のどこかがじくじくと苛んでくる。

いつかは離れてゆく人なのだから、この幸福に慣れてはいけない。

失った時の落差を思え。

そんな声が内側から聞こえてくる。

そうなるとしばらく浮上できない。

だから「空気が吸いたい」と言い訳をして、少しだけ彼から離れていた。


顔を上げると、夜空は限りなく広がっていた。

月明かりの乏しさを補うかのように、数多の星々が瞬いている。

空が近いと錯覚するほどの輝きに、ルナリアは畏怖を覚えた。

同時に、届かないものへの切なさも。

それは、いくら手を伸ばしても届かない光。

自分の手には決して掴めない幸福のようで。

あまりにも遠く、冷たく、美しかった。


ラミエルの存在もまた、きっとこの星たちのように遠いもの。

どれほど求められても、自分の存在は彼に不利益を与えるだけ。

思いが強くなるごとに、その事実が胸を突き刺してくる。


その瞬間、目の前でひとつの星が尾を引きながら流れていった。


きらきらと光り、あっという間に消えてしまう。

まるで自分の恋のように。

輝けば輝くほど、次の瞬間には儚く消え去ってしまう──そんな予感を残して。


そしてまたひとつ、星が降る。

胸に突き刺さるように煌めいており、痛いほど綺麗だった。

発作的に手を伸ばしたが、掴めるはずもない。

瞼には、知らぬ間に涙が浮かんでいた。


「……ルゥ。」


いつの間にか傍にいたラミエルに、背後からそっと抱きしめられる。

怖くて振り返ることはできなかった。

この温もりまで幻のように消えてしまいそうで──


「人は誰もが空に自分の星を持っていて、命が尽きるとその星が落ちるらしい。」


彼の低い声が、耳元で静かに重なった。


「もしわたしの星があるのなら。それは、あなたのために生まれてきた星だと思います。」


──ああ。


「愛している。燃え尽きて落ちるその時まで、わたしはあなたと共にありたい。」


──わたしも、あなたを愛している。


そう心の中で叫びながらも、唇は動かなかった。

言えない。

わたしはずっと、あなたの傍にいることはできないのだから。


どうして。

どうして自分は罪人の娘なのだろう。

これまで一度も疑問に思ったことはなかった。

それを考えたら、足元から崩れてしまうから。

けれど今、初めて思ってしまった。

もし自分の生まれが暗いものではなかったなら、この人の言葉に胸を張って応えることができただろうか。


「泣いているのですか?」


ラミエルが静かに問う。

振り向けない。

どうしようもなく、涙が止まらないから。


「どうして?」


「あんまり、星が……きれいだから、苦しくて……」


涙の混じる声で、なんとかそう答える。


次の瞬間、ラミエルはルナリアの体の向きを変えていた。

見上げた彼の瞳には、流れ星の残照が映っている。


なんて綺麗なのだろう。

夜空を翔ける光が、その瞳の奥で揺れていた。

掴めない星をそのまま閉じ込めてしまったかのようで。

触れられない美しさに胸が締めつけられる。


さっきの彼の話。

もしも自分の星があるのだとしたら、それはこの瞳に出会うためだけに存在するのかもしれない。

罪人の娘であっても、生かされてきたのはこの瞬間のため。

そう思えば、今ここに自分がいる理由が成り立つ気がした。


涙と共に、積もった思いが溢れていく。

この瞳を──いつまでも見ていたい、いつまでも。


「何も心配しなくていいんだよ。

あなたの憂いは、全部わたしが引き受けるから。不安にならなくてもいいんだ。」


その言葉にどれほどの意味が込められているのか、ルナリアはまだ知らない。

ただ胸の奥に沁みるその声に、涙を零すしかなかった。


「だからどうか、一緒にいたいと言っておくれ。」


縋るような眼差しが、流星の光と共に胸を射抜いてくる。

あまりに強いその視線を直視できず、ルナリアは目を閉じた。


この恋には終わりがある。

彼の想いに、自分は最後まで応えることはできない。

だとすれば、できることはただひとつ。

せめてその時が訪れるまで、大事に抱きしめていたい。


星の降る夜空の下、いつまでも抱き合うふたり。

頭上には、幾つもの光が降り注いでいた。

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