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謁見の間には、張り詰めた沈黙が漂っていた。
中央の玉座には、年老いてもなお威厳を失わぬ帝がどっしりと構えている。
重臣たちは一様に硬い面持ちで並び立っていた。
軽々しく言葉を発することさえ憚られるように、帝の威光が広間を支配している。
そのただ中、場の緊張などどこ吹く風とばかりに皇太子ナイジェルが前へと進み出た。
「陛下。
前期、北辺では二度も敵の侵攻を許し、我らは後手に回りました。これを繰り返せば、帝国の威光も失墜いたしましょう。
来期こそ先手を取り、帝国の覇を示すべきかと存じます。
そのためには足場が必要にございます。
ゆえに北辺に五万を収め得る規模の前線要塞を築き、そこを拠点に迎撃・攻勢へと転じるべきかと。」
発言が終わるや否や、若手武将たちが目を輝かせて声を上げる。
「壮大な御構想にございます。さすがは皇太子殿下。
五万の兵を擁すれば、一挙に敵領へ打って出ることも叶いましょう。」
だが老将たちは渋い顔だ。
「五万。その規模を常駐させるとなれば、兵糧と金は計り知れぬものとなりましょう。
恐れながら、皇太子殿下。戦の最中ならいざ知らず、平時からそれほどの人員を要塞に置くは無謀にございます。」
慎重派の将シュタイナー。
彼は一歩進み出て、ナイジェルに諫言する。
だがすぐに若手の将ヴァイスが椅子を鳴らして身を乗り出し、真っ向から応じた。
「シュタイナー将軍、なんと弱気な。要塞があれば、敵の攻勢など一度で跳ね返せましょう!」
シュタイナーの眉が吊り上がる。
「経験も積まぬ若造が、戦を語るか?」
ヴァイスも怯まず身を乗り出した。
「ですが将軍、守りに徹してばかりでは敵を増長させるだけ。攻めてこそ帝国の威光は示されましょう。」
「威光を示すこと自体は否定いたさぬ。
だが五万を北に縛りつければ、他方が手薄となる。
軍の均衡を崩してまで望む策が、果たして帝国を守ることに繋がるのか?」
議場の応酬は、次第に熱を帯びていく。
互いの声がぶつかり合うたびに、広間の空気は刺々しさを増していった。
やがて議論は平行線を辿り、途切れると、場には苦い沈黙が残る。
ナイジェルが息を吐き、横に並ぶ男へと視線を向けた。
「前期、北辺で戦った当事者はどう見る?その耳には、現場の声が届いているはずだ。」
瞳の奥には、試すような光が潜んでいる。
指名されたシアトリヒは静かに頭を垂れ、一拍置いてから顔を上げた。
涼やかな眼差しが広間を巡る。
「僭越ながら。」
ざわめいていた武官たちが口を閉ざし、視線を注いだ。
「要塞の構想そのものは理解いたします。
足場の弱さが連戦で後手を取った一因であることは、否定いたしませぬ。
されどシュタイナー将軍のおっしゃる通り、五万を北に常駐させるのは軍事の均衡を崩すものと考えます。
帝国は未だ南方にも戦線を抱え、さらに東方では土着部族の抗争に介入している。
いずれも常駐兵が不可欠という状態。その上で五万を北へ移せば、確実に手薄となりましょう。」
「第一皇子殿下。」
挑むような視線がヴァイスから注がれる。
「南方は既に膠着状態。大規模な衝突はございません。
そこから兵を割いても均衡は保てましょう。東方の部族争いも散発的。現状の駐屯兵で十分対処できるはず。
北辺こそ、帝国の急務ではありませぬか?」
物腰は丁寧だが、底には嘲笑が覗いていた。
シアトリヒは目元を緩め、にこやかに応じる。
「ヴァイス将軍。剛毅なるご発想、まこと頼もしいことでございます。」
将軍は胸を張った。
だが、シアトリヒの微笑みはすぐに温度を下げる。
「ですが、わたくしはそれほど楽観的にはなれませぬ。
南方が膠着に見えるのは、兵と資を絶やさず注ぎ込んでいるからこそ。
均衡とは、注ぎ続けて初めて成り立つ薄氷のごときもの。兵を抜けば瞬く間に崩れます。
東方もまた同じ。小競り合いと侮れば必ず広がる。
一昨年、駐屯兵を減らした折に蜂起が連鎖し、鎮定に三月を要したことをお忘れか。」
ヴァイスは視線を逸らした。
どうやら東部の情勢については、十分に把握していなかったらしい。
「要塞は確かに有用でしょう。しかし北に置くために他を削るのは、如何なものか。
仮に南や東に火急の事態が生じた際、そのたびに北から兵を移すおつもりですか。
それこそ無駄なのでは。」
広間に沈黙が落ちる。
その静寂こそが、理が響いた証だった。
中立の諸侯や文官は目を伏せ、老将は深く頷く。
ナイジェルは皮肉めいた笑みを浮かべ、焦りを隠すように言った。
「第一皇子は慎重ですな。」
シアトリヒは真っ直ぐ視線を返す。
「慎重ではなく、用心でございます。」
皮肉にも応じない様子に、広間の空気がさらに引き締まった。
そのまま彼は続ける。
「それに五万を常駐させる要塞とは、もはや基地などではなく都市です。
都市ならば、城壁に兵舎、糧秣庫、武具庫、厩舎、市場や水利施設まで、すべてを備えなければなりませぬ。」
文官達は一層渋い顔に。
「また維持にも常に莫大な費用がかかります。
兵の俸給に加え、糧秣、施設維持、武器、挙げればキリがない。それらを北の荒れ地でどう賄うのか。」
「費用がかかるのは承知の上。
だが毎度後手に回り、遠方から兵を走らせることこそ、どれほどの浪費でございましょう。
要塞に兵を置けば、備えは常に前にあり、迎撃も迅速。都から兵を呼ぶよりはるかに安くつく。
さらに強固な要塞はベル・トラーナに刃を突き付けるもの。
戦を仕掛けられるたびに損耗するより、結果として安い抑止力ともなりましょう。」
ナイジェルが一歩踏み出し、力強く言い放つ。
血気に逸る若手武官達は熱に浮かされたように頷き、老将や文官達は渋い顔を崩さぬまま黙していた。
シアトリヒは遠い眼差しで、それらを見据える。
「利があるのは理解いたしました。備えが前にあれば応戦は容易、抑止の効果もありましょう。
ですが現実の話、財源は厳しい。
半年で二度の戦、さらに去年はセルバン地方が不作。
帝国の穀倉と謳われた地の凶作で、その影響は帝国全土に及んでいます。
今季は、貯蔵分でどうにか凌ぐので精一杯。
このうえ都市に等しい要塞を築けば、抑止よりも先に帝国の内部が干上がります。」
文官の一人が手を上げた。
「セルバン地方の収穫高は、昨年平年比の六割。
前期の徴発が重なり、納税額は三割減。国庫の実入りは大幅に目減りしております。
これ以上の負担を課せば、反発を招きましょう。」
一瞬、ナイジェルは顔を曇らせる。
それでも、すぐに表情を改めた。
諦めの色は微塵もない。
むしろその瞳には、策を巡らせる光が宿っていた。
「金の手立てについては──ご安心を。
何も無策に要塞を築こうとしているのではない。
まず資金は北辺諸侯からの拠出を見込める。敵に最も近い地、恩恵を受けるのは彼らなのだから当然の負担。
さらに帝都商会連合も利を見出すはず。建設・補給路の開拓は、彼らにとっても大規模な取引の機会となりましょう。
財源は必ずしも国庫のみではございませぬ。」
若手武官たちは頷き、賛意を囁き合った。
対照的に文官たちは押し黙る。
その間を縫うように、シアトリヒは口を開いた。
揺らぎのない姿勢で、淡々と継ぐ。
「北辺諸侯や商会を動員できれば、確かに国庫の負担は軽くなるでしょう。
ですが本当に、それは見込めることでしょうか。」
兄弟の視線が鋭く交錯した。
周囲は息を呑む。
「商売人は利益があれば金を出しますが、なければ背を向ける。
北辺は帝都からの関心も薄く、開発の手が入らないことから交易路も頼りない。
見合う利を商人たちが得られるとは、とても思えませぬ。」
ナイジェルは眉根を寄せた。
「たしかに北辺は未開の地。
だからこそ、資源開発の余地がある。鉱脈を探り、街道を通せば、新たな利が生まれるはずだ。」
「その北境の地の鉱脈は、過去に幾度も探査がなされております。
鉄は脈が細く、銀や銅も不連続。
運搬の労を考えれば、採算が合いません。要塞建設と並行すれば、人も物資も二重に食い潰すことになりかねない。
利益より費用が大きくなるのでは。
諸侯もまた同じ。防壁の恩恵は受けましょうが、出費まで担ってくれるでしょうか。」
ついに表情を崩す。
苛立ちを隠すことなく、棘を含ませた声で言い募った。
「第一皇子は、常に『できぬ理由』ばかりを探される。その慎重さこそ、帝国の足を縛っているのではありませぬか?」
一瞬、シアトリヒは視線を落とす。
しかし顔を上げると、口元に穏やかな笑みを刻んでみせた。
「ご懸念はもっともにございます。
ただ、無謀を避けることは決して歩みを止めるものではありませぬ。時に歩を緩めることもまた、遠くへ進むために必要かと存じます。
賢明なる皇太子殿下なら、その理はお分かりいただけましょう。」
「帝国に真に必要なのは、慎重よりも決断かもしれませぬぞ。」
「決断は確かに重要でございます。
しかし、その一つ一つが民の命運を左右するのです。ゆえに、決断とは慎重でなければならぬものでございましょう。」
ナイジェルの唇が白くなるほど強く結ばれる。
しばしの沈黙ののち、彼は深く一礼した。
「……勉強させていただきます、兄上。」
礼の形は崩さぬものの、声音は冷え切ったものだ。
シアトリヒは、ただ静かに言葉を受け止める。
「いずれにせよ、さらに議を重ねるがよかろう。」
玉座から、帝の低い声が落ちた。
ナイジェルは深く頭を垂れ、シアトリヒもまたそれに倣う。
広間に再び重い空気が立ち込め、沈黙だけがこの場に於ける結論となった。
*
会議が終わり、執務室。
要塞構想をまとめた計画書を丸めると、力任せに屑籠へ放り込む。
そうして椅子に背を預けるナイジェル。
彼の胸中は、兄から与えられた屈辱で殺伐としていた。
要塞建設には、莫大な利権が生まれる。
資材調達、兵站、交易路の開拓。
それぞれの旨味に群がる商会や諸侯は、こぞって自分を支持するだろう。
その支持を背にすれば、兄を踏み潰し、自らの立場をもっと磐石にできたはずだった。
だがそれを阻んだのは、欲なき正論。
どこまでも目障りなやつ。
皇太子の地位を毟り取ってやったのに、まだ前に立ちはだかるか。
自分が兄に遠く及ばないことは知っている。
努力して「権力」を積み上げているのに、あの男はただ立っているだけで「権威」を持ってしまう。
それは、努力を積み上げても届かぬ一段高い場所だ。
幼い頃からずっと。
まわりから愛されるためには何でもやった。
みっともないと思いながらも、舌先で媚を売るのをやめなかった。
滑稽だと分かっていても──それが唯一、兄が持たないものだったから。
誇り高い兄は決して媚びぬ。
人々に畏怖を抱かせると同時に、劣等感をも与える存在だった。
父をはじめ、それを疎ましく思う者も少なくない。
ゆえに皇嗣の座から引き摺り下ろしたいと願う輩は、必然として自分のもとへ集まってきたのだ。
そして、ヴァルティスが起こる。
隙のない男を崩すのは難しいが、その幕僚までも隙がないとは限らない。
その一人に接触して家族の安全と引き換えに協力を取り付け、捕虜に不安を植え付けた。
やがて暴動が広がり、鎮圧の名の下に虐殺が起こる。
そうやって事は面白いほどに進み、兄の勝利は「失態」へと塗り変えられた。
しかし奴は変わらなかった。
皇嗣の座を追われたが、だからといって卑屈になることもなく、その物腰は何一つ揺らがぬまま、奴は今も俺の前に立ちはだかっている。
いっそ跪かせたい。
お前の矜持を、一つずつ剥がして──
その顔を、どうしようもなく歪ませてやりたい。
そうすれば、今度こそ満たされるのだろうか。
ナイジェルは、側近に視線を向けた。
彼は足元で恭しく膝を付いている。
「どうしたものかな?」
「ヴァルティスを再び演じてみては、いかがでしょう?」
「いいや、効果はあるまい。奴は皇太子の位にさえ拘っていなかった。」
渋い顔で腕を組んだ。
「何か策はないものか。」
「弱みなどは本当にないのでしょうか。人間ですから、一つや二つくらいの泣きどころはあるかと。」
「あの男に限って、そんな隙があると思うか?叩いても埃すら出ない。不正も奢りも、影一つ見つからぬ。」
「私生活はどうでしょう。」
彼は鼻で笑う。
「あの古びた離宮で慎ましく暮らしている。私腹を肥していると思うか?」
「女はいかがでしょう?」
「女?ますます有り得ぬな。かつてはそれなりに場数を踏んではいたようだが、今は影すら見えぬ。
女の方も狂犬になど目をつけられたくないだろうし、近づける親もいない。」
「ならば、切っ掛になるものを探すところから始めましょう。
金の線や人の出入り、文書の往来を探れば、何かしら見えてくるやもしれませぬ。」
「ふむ……」
ナイジェルは思い出したように、片眉を上げた。
「文書局に、駒は残っていたか?」
「はい。次官の一人にファルケンベルクという者がございます。借財を抱えており、いつでも動かせます。」
「ヴァルツェンに嗅ぎつかれると厄介だ。彼奴は目ざといからな。」
「その点はご心配要りませぬ。
ファルケンベルクは、局内でも温厚で愚直と評判の男。帳簿を纏めることにしか能がないと見られております。
ヴァルツェンも、よもや殿下に通じているとは夢にも思うまいかと。」
口元で弧を描く。
「よし、そいつを使え。台帳でも目録でも、出納の記録でもいい。シアトリヒの周りを洗い上げろ。」
「仰せのままに。」
こうして密やかに、陰謀の網が張り巡らされていった。
その行き着く先がどのようなものであるのか──明らかになるのは、まだ少し先の話である。
要塞の動員数を三万→五万に変更しました。




