3-1
文書局の一室。
積み上げられた書簡の山に囲まれ、ひとりの壮年の男が机に向かって筆を走らせていた。
片目に嵌められたモノクルの奥で、蛇のように細い眼差しが鋭く光る。
その耳許には黒い影が寄り添い、ひそやかな声で報告を告げていた。
──扉を叩く音がした瞬間、影は音もなく霧散する。
男は筆を置き、入室を許した。
現れた若い文官が深々と頭を下げる。
「西翼からの便りにございます。紅の墨は乾いたか、との仰せにございました。」
彼は深く息を吐き、背凭れに身を預ける。
そして唇の端で皮肉げに笑ってみせ、肩をひとつ竦めた。
「仕上がりは然るべし、と伝えておけ。」
文官が退室すると、静けさだけが残る。
誰もいなくなった部屋で、彼は小さく鼻を鳴らした。
「まったく、気の急く若造め……」
男の名はエーリヒ・ヴァルツェン。
文書局の局長として、帝国中枢の膨大な記録と書簡を取り仕切る人物である。
腹芸と事務処理能力に長け、他の文官からは「事務屋」と揶揄されていた。
と、それが表の顔。
裏の顔は、「墨影」と呼ばれる秘密結社の頭領。
元は官僚仲間や記録係、地方役人を秘密裏に取り込み、情報収集と利権操作を目的に築いた組織だった。
いまや市井にまで根を張り、商人・娼館・盗賊ギルドに至るまで手を伸ばす。
諜報、偽造、密輸、粛清、裏金の流れ──帝国の裏帳簿を一手に握る男である。
その夜。
仕事帰りの足を、渋々レガリア宮へと運ぶヴァルツェン。
西翼の宮殿は灯りも乏しく、夜にはことさら薄気味悪さが際立つ。
装飾らしい装飾もなく、質素そのもの。
まったく、あの男の性格をよく映してやがると、苦笑が漏れる。
第一皇子シアトリヒ。
身分も頭脳も容姿も、何ひとつ欠けるものはない。
それでいて感情の起伏に乏しく、何事にも執着を示さぬ男。
皇太子の座すら頓着せず、弟へと譲り渡してしまったほどである。
冷遇も意に介さず、人に嫌われようが気にも留めぬ。
陰口を浴びても反論せず、まるで自分自身にすら関心がないかのように振る舞っている。
──だが、ヴァルツェンは知っていた。
この男は、実のところそういう人間ではない。
自分と同じく「価値を見出せぬものに労力を費やしたくない」という、徹底して合理的な人間に過ぎぬのだと。
そして、そんな男がひとたび執着を見せたとき──誰よりも厄介な相手に化けることも。
見えない部分に爪と牙を隠している。
その確信を抱かせたのが、かつての一件である。
自分が関わった密輸の帳簿操作、秘密結社の頭領であることを彼は嗅ぎつけていた。
露見すれば即刻死罪に値する大罪。
それを第一皇子は握り潰す。
代わりに強いられたのは、絶対の服従だ。
以来、ヴァルツェンにとって彼は「命の恩人」であり、逆らえぬ「主」となった。
──まったく、因果な話だ。
やがて通された部屋で、ヴァルツェンは主と相まみえる。
母親譲りの美貌に無表情が載ると、その迫力は尋常ではない。
しかも今宵はひどく空気が刺々しかった。
機嫌の悪さがひしひしと伝わってきて、思わず内心で悪態が洩れる。
おっかねえ御仁だな。
「ごそごそと、ネズミがうるさい。例の件はどうなっている。」
ヴァルツェンは間を置き、軽くモノクルを押し上げた。
「商会の背後に、妙な資本の流れを見つけました。帝国と通商を持つ“外の商人”が関わっているようです。そしてどうやら、内側でも手を結んでいる者がいる様子。」
「ほう。“外の商人”か。」
「細部はまだ霞がかかっておりますが、もし事実なら──御座所に大砲をぶち込むに等しい代物。使える、使えぬの議論を超えておりますな。」
「裏で協定でも結んでいるのか。」
「そんなところでしょう。でなければ、これほど必死に口を塞ぐはずがございません。」
「なるほど。確かに大砲になり得るものだ。それにしても、よく掴んだな。」
唇の端に皮肉を漂わせ、ヴァルツェンは鼻を鳴らす。
「もっとも、おかげでこちらの手駒が何人も消えましたがね。それだけ、連中が死守したい秘密ということでしょう。ばら撒いてみるのも一興ですが。」
この情報ひとつで、再び皇太子の座に返り咲くことも夢ではない。
けしかける──そんな意図でちらつかせてやった。
だが返ってきた反応は、あまりにこの男らしいものだった。
「それはもうひとつが潰えた際の備えだ。より鮮明になるよう、引き続き調査を続けよ。」
もうひとつ──その言葉に、ヴァルツェンは思わず腹を抱えそうになる。
本命は、むしろこちらの件なのかと笑いが込み上げてきた。
それは、とある女にまつわる記録の改竄である。
依頼されたときには、大した意味もない仕事だと考えていた。
ところが素性を洗っていくうちに、ヴァルツェンは驚愕する。
改竄が露見すれば、重罪に直結する代物だったからだ。
なぜそこまでの危険を冒してまで、と首をひねらざるを得ない。
だが動機の見当はついた。
その女は、おそらくこいつの秘して囲う女なのだろう。
皇太子の座よりも女の方を優先するとは、全くもって興味深い。
だから目が離せないのだ。
ヴァルツェンは蛇のような目を光らせ、第一皇子を見据えた。
「たかが女官一人の記録の手直し如きが“本命”とは──殿下におかれては、まことに深きご配慮にございますな。
御所存のほど下吏の身には計りかねますが。さしでがましくも御寵の御方のためと拝察いたして差し支えございませんか。」
「慎め、貴様が知ることではない。」
氷のような視線でヴァルツェンを突き刺す。
だがヴァルツェンは唇の端に薄い笑みを浮かべ、わざとらしく肩を竦めてみせた。
「ふふ──ひとつ、面白いことがわかりましてな。
実はその女官の記録、過去に“別の手”が入っていたのです。」
第一皇子の片眉がわずかに動く。
「一介の女官ぞ。誰が手をつけると申すのか。」
「入宮の際に、何者かが記録を操作した形跡がございます。どんな意図で仕組んだのかまでは、印を押した御仁に尋ねてみるほかございませんが。」
「女官長?何ゆえ、彼女が……」
「個人的なものか、あるいは組織的なものか。まあ、おそらくは前者でしょうな。あれほど厳格なお方が、かようにお粗末な処理で済ませておられるのですから。」
ヴァルツェンは唇に皮肉を漂わせつつ、さらりと続けた。
「ジグバルト殿に負い目でもあったのやもしれませぬ。女官長どのの働きあってこそ、かの乱──アーヴェライン大公の謀反は白日の下に晒されたのですから。」
「なるほど、だからか。」
第一皇子は、どこかの記憶を手繰るように小さく独りごちる。
「さて──今度は殿下まで同じ道をお選びになるとは。それほどまでにして、その女官にどれほどのものをお望みなのでございましょう?」
向けられる眼差しは一層温度を下げてゆく。
「またしても余計なことでございましたか?どうかご無礼はお許しくださいませ。ただ、まことに興味深うございまして……殿下が天秤に掛けられるものは常に人の常道とは異なっておいでですから、一体どのような御方なのかと。殿下のお選びになる女性なら、尋常一様な存在ではございますまい。
ましてやジグバルト殿に縁を持つ女官とあれば、ますます好奇心をそそられますな。」
何も答えない。
彼はひたすら感情の読み取れない表情でヴァルツェンを眺めている。
(フン、この俺様を顎で使っているのだ。少しくらいは毒づきたくもなるさ。)
胸裏で呟きながら、ヴァルツェンも負けじと微笑む。
「しかし殿下。反逆者の血筋など、身の内に火薬庫を抱え込むようなもの。いずれどこかで火を噴くやもしれませぬぞ。」
「それがどうした。」
短く吐き捨てる声音。
「爆ぜようが崩れようが、別にどうでもいい。」
その言葉には、一切の揺らぎもなかった。
よくわからない奴だ。
自分がどうなろうと構わんというのか?
ヴァルツェンは心底愉快になった。
だとしたら、大した純愛だ。
この男が、ねえ。
「はは。あんたにも、ちゃんと人間の感情があったんだな。」
第一皇子は変わらず無言を貫いている。
その無礼な物言いすら、咎めようとしない。
「愛妾にでも上げるつもりなら、身元は綺麗にしておかないとなあ。」
「それくらいにしておけ。」
第一皇子の声音には、警告の色が混じった。
だが興味の隠せないヴァルツェンは、なお続ける。
「命も座もどうでもいいというあんたを、この世に繋ぎとめてる女。一体どんな毒婦なんだ?よほど手管に長けているのか、それとも身体の具合がいいのか?」
その瞬間、濃藍の双眸が冷たく閃いた。
「その口、二度と利けぬようにしてやろうか。」
吐き捨てられた声は、氷刃よりも鋭かった。
冗談のつもりだったのに、おっかない。
この男が自分を本当に切ることはないと知っているからこその不敬だった。
だが気をつけねば、本当に首と胴を切り離されかねない。
「これは失礼。」
「今のは冗談で済ませてやる。だが貴様の首など、もとより俺の機嫌ひとつで繋がっていることを忘れるな。」
「寛大な御心に痛み入ります。肝に銘じておきます。」
冷や汗を滲ませながらも、ヴァルツェンは殊勝に頭を垂れた。
「さて、進捗でございます。」
帳簿を指先で軽く叩き、蛇のように囁く。
「まず郷籍。こちらはすでに手を加え、“ジグバルトの娘”ではなく“プレセア子爵家の養女”として登録を整えました。ただし中央の血統台帳との照合までは、まだ完全には済んでおりませぬ。」
唇の端を歪め、さらに言葉を継ぐ。
「つまり“女官どの”は、いまだ子爵家の娘を名乗り切ったわけではない。裏帳簿を突き合わされたなら、ほころびが露見しかねませぬ。」
一呼吸おき、口角を吊り上げた。
「罪籍についても同様にございます。
例の台帳から女官どののお名前を抹消する作業は進めておりますが、いまは仮初めの白墨で塗り潰しただけ。古い写本を繰られれば、一筆で甦ってしまう脆さにございます。」
恭しく頭を垂れつつ、皮肉を忘れない。
「“未来の御寵姫様”をお抱えになるのは、今しばらくお待ちいただきとうございます。」
その言葉に、シアトリヒの顔が渋くなる。
「あまり待てぬ。先ほども申したが、ネズミが身辺を彷徨いている。すでに嗅ぎ付けられているやもしれぬのだ。」
「大した人気者でいらっしゃる。敵が多いのも考えものですな。」
ヴァルツェンの眼が細まり、皮肉を滲ませた。
「急ぐ理由はご尤もですが。きちんと整えておかねば、後々禍根を残しましょう。」
「籍を整え、とっとと俺の庇護下に入れてしまえば、その後どれほど宮廷や宗令院が詮索しようと取り消すのは容易ではなくなる。
また発覚して処罰が必要になるとしても、責任を問われるのは指示を下した俺ひとりだ。」
「なるほど。殿下は愛する女官どののために、ご自身がどのような責めを負っても構わないというお考えなのですな?」
返答はない。
その沈黙こそが、何より雄弁な肯定だった。
恐ろしい女。この男にそこまで思わせるとは、一体何者だ?
思わず息を呑む。
だが同時に、胸の奥に愉悦が走った。
こいつの執着は、支配から逃れる絶好の隙となるかもしれん。
うまく立ち回れば強請りの種にもなると、ヴァルツェンは口元を持ち上げた。
「エーリヒ・ヴァルツェン。俺を出し抜こうなどと思うな。貴様の考えていることなぞ、お見通しだ。」
「滅相もない。」
ヴァルツェンは即座に掻き消してみせたが、空気は一層冷え込んだ。
第一皇子の声が低く落ちる。
「そうだな。
これがしかと整った暁には、俺が握っている“破滅の証”を、すべて返してやろう。貴様を解放するのもやぶさかではない。」
「いやはや、殿下のお慈悲とは有り難いものですな。もっとも、蛇の口から吐かれる“約束”を信じるほど、私めは愚かではございませんが。」
「蛇とな。俺をそう呼ぶのは、貴様くらいだ。」
「ああ、世間では“犬”と呼ばれておいででしたな。まあ、噛みつかれる身としては、どちらにせよ厄介なことです。」
「蛇でも犬でも構わん。気まぐれを買うと思って励め。牙を仕舞うか突き立てるかは、貴様の働き次第だ。」
ヴァルツェンは喉の奥で笑った。
「御意。蛇でも犬でも殿下に噛み殺されぬよう、務めを果たすといたしましょう。」
沈黙が落ちる。
帳簿の頁は静かにめくられ、氷の空気だけを残したまま次の報告へと移った。




