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3-0

夜の宮廷は静寂に満ちていた。

多くの灯は既に落とされ、長い廊下には夜番の兵士が影のように佇むだけ。


けれど女官たちの小さな作業部屋には、まだ幾つか蝋燭が灯っていた。

ルナリアもその中で作業をする一人だ。

彼女は書類の整理を任されており、机の上で黙々と手を動かしていた。


周囲では疲れた顔の女官たちが小声で噂話を交わしている。

上司の居ない隙に囁かれる声は、どこか陰湿な楽しさを漂わせていた。


そんな中、扉がきぃと音を立てて開く。

現れたのは黒の軍装に身を包んだ男。

肩章が月明かりを浴びて、淡く光を纏っている。

石の床を踏む軍靴の音だけが、場に際立って響いた。


「ルナリア・プレセア殿はこちらに?」


低く抑えた声。

女官たちは息を呑んで、互いに視線を交わす。


「え……あ……はい」


思わず立ち上がったルナリアに、周囲から好奇の視線が注がれた。

こんな野暮ったい娘に、一体どんな用があるのか。

そう言いたげな空気が肌を刺す。


「申し訳ありません。少々、お時間をいただきたいのですが。」


女官たちの間でまた囁きが生まれた。

それが鋭く痛い。


「どのような……御用でしょうか?」


「ウィスタリア卿が、先日の件について詳しく話を聞きたいと。」


「わかり、ました。」


小さな声でそう答えると、軍服の男──エルハルト卿は短く頷き、蝋燭を掲げて先を進んだ。

ルナリアは慌てて机を離れ、背後に残る視線の針を感じながらその後を追う。


廊下に出れば、ほとんどの灯が消えている。

月明かりに照らされ、影だけが細長く伸びていた。

──逢瀬はいつも、こんな暗がりの中で。

明るい場所では息ができない自分たちを映すようで、胸が痛む。


その逢瀬も、あの日を境に変わってしまった。

庭園の四阿で人知れず会っていたのに、今はこうして堂々と呼び出されるほど。

向かう先は皇宮西区のレガリア宮。

軍の施設にも近く、将校の控え所としても使われる一角だ。


その一室で、以前よりも頻繁に会うようになった。

そして会うたび自分たちは肌を重ねている。

おそらく今日もまた、そうなるのだろう。

動悸が止まらなくなるほど緊張する。


彼は以前と変わらず優しい。

それでも裸で抱き合うことは、どうしても勇気が要った。

さまざまな不安がまとわりつくからだ。

かつて庭園でただ言葉を交わしていた頃には、こんなことを思わなかった。

だが今は違う。

肌を近づけるたびに、強く意識させられる。


自分は平凡だ。

顔も体も取り立てて美しくはない。

それなのに、彼はとても美しい。

その輝きを見上げるしかなく、いつでも引け目を覚える。

本当に自分なんかでいいのか──満足させられているとはとても思えなかった。


しかも自分には、人に隠している事情がある。

本当ならば、特定の誰かと親密な関係になってはいけない身の上。

誰とも結ばれてはならない以上、別れの日は必ずやってくる。

それなのに、誘われれば結局は行ってしまう自分がいた。


怖い。

いつかやってくる暗澹たる未来も、分かっていながら止められない自分自身も。

その全てが怖かった。


不安の一端は──ラミエル自身にも向けられている。

自分は彼の在り方に怯えていた。

ぎりぎりの精神状態であることが、どうしようもなく分かってしまうからだ。

何ひとつとして語ることはないけれど、多分彼は多くのものを抱え込みすぎて、破裂寸前になっている。


以前、ふとした弾みにこの部下の人に言われたことがあった。

彼は人の心が見えすぎて、悲しいほどに優しいのだと。


理解できる。

ラミエルは優しい人だ。

細やかで、人の機微にとても鋭い。

だから、何もかも引き受けてしまうのだろうと思っている。

しかし、その優しさは危うさと背中合わせであるとも感じていた。

時折見せる眼差しがあまりに遠く、闇が深くて。

自分を犠牲にして何とか立っている、そんな風に見えてならないのだ。


自惚れるつもりはない。

けれど、もし自分が手を離したら──彼は消えてしまうのではないか。

そんな気さえしていた。

自分に向ける感情の質量が、尋常ではないから。


抱きしめる腕は強く、離すまいとする気配がある。

微笑んでいても、その奥には追い詰められた影が差している。

裏側には常に怯えのようなものが貼りついており、それが胸をざわつかせていた。


そして──このひともまた、そうした危うさを感じているようだ。

呼びに来るたびに向けられる眼差しは、どこか懇願の色を帯びている。

近しく接している者として、彼のことを案じているのだろう。

どうすることもできず、もどかしい思いを抱えているのかもしれない。


夜の回廊はひどく静かだった。

窓から差す月明かりが床に冷たい模様を描き、歩くたびに長い影を引きずっていく。

吹き抜ける風に蝋燭の炎が揺れ、その光もまた頼りなく震えていた。

その儚さが胸の奥の切なさと重なり合い、息苦しさを一層強める。


時おり雲が月を隠し、回廊は闇に沈んだ。

そのたびに蝋燭の光だけが頼りになり、影は不安げに壁を這う。

まるで行く先すべてが闇に呑まれてしまうかのようで、心細さが募った。

その心細さの奥で──早く会いたい、という衝動が芽生える。

抑えきれぬ思いに背を押され、気づけば足取りは自然と速くなっていた。


そうして長い廊下を抜けた先──

目の前に現れたのは、装飾の少ない質素な扉だった。

蝋燭を高く掲げたエルハルトが、静かに促す。


「どうぞ。卿が中でお待ちです。」


胸の奥がひどく疼いた。

ルナリアはそれをごまかすように息を吐き、それから頷く。

そっと控えめに扉を叩いた──その瞬間。


「おいでくださったのですね……さあ、こちらへ。」


暗がりから伸びてきた手が、その細い手首を掴む。

ひやりとした指先が次の瞬間には熱を帯び、まるでその熱だけで肌を焼きつけるようだった。

息を呑む間もなく、そのまま扉の中へ強く引き込まれる。


ほら。

と、胸裏で呟く。

この顔を見てしまえば、もう抗えない。

求められている、その事実だけで胸が満たされてしまう。

向かう途中でいくら不安を積み重ねても、こうして目を合わせた瞬間にすべてが溶けていく。


怖いのに、幸せで。

だから結局、抗うことなどできないのだ。


背を扉に押しつけられ、そのまま唇を奪われた。

合わせた口づけはすぐに深まり、息さえ奪うように探られてゆく。

頬を染めながらも抗うことはできず、やがて自分も同じように応じていた。


衣服に手がかかり、互いに焦るように緩め合う。

その性急さは欲望というより、今すぐ確かめ合わなければ崩れてしまうとでも言うようだった。


ラミエルは、こうして抱き合うことで心の均衡を保っている。

まるで己の存在の許しを得るかのような求めで、空虚を埋めるような抱き方をした。

だから少し強引で。

その切実さを感じ取ってしまうからこそ、ルナリアは受け止めずにはいられなかった。


彼の腕の強さに縋るのは、自分もまた同じだ。

誰かに求められているという実感が、空虚な胸を満たしていく。

互いの見えない傷を抱きしめるようにして、二人は求め合っている。


本当にどうかしている──婚約者でも、夫婦でもないのに。

未婚の男女がするべきではないと分かっているのに。

それでも止められなかった。

強烈すぎる熱と、共にいなければ壊れてしまうという恐れが、すべてを呑み込んでゆく。


「……………っ……」


彼の唇が、手首から腕へとゆっくり辿っていく。

熱が置かれるたびに、そこだけが敏感に震え、思わず肩を竦めてしまった。

耳元にかかる吐息は甘い囁きのようで、心地よいのか、くすぐったいのか、自分でも分からない。

その戸惑いに気づいたのか、同じ仕草が何度も繰り返され、逃げ場を奪われる。


「恥ずかしい?」


羞恥を煽るような問いが降りてくる。

首だけで頷くと、彼の喉仏がわずかに動いた。

喉の奥で笑ったのだと悟り、胸の奥が熱くなる。

少し意地悪。

でも、その意地悪ささえも、どうしようもなく愛しい。


唇は首筋を辿り、胸元へと流れていく。

抑えきれずに声が洩れ、身体が上下に跳ねた。

そうするたびに幾度も口付けられ、粘着される。

その姿に、優越にも似た感情が胸を過ぎた。

彼が自分の身体に溺れているのが分かるからだ。


「ああ……可愛いな。」


肌はどんどん火照ってゆく。

意識の輪郭がぼやけていき、考えることすら次第にできなくなっていった。

気づけば強く抱き込まれており、そのまま寝台へと沈められる。

重なる影が上から覆いかぶさり、磔にされた。


そのあとは、荒波のただ中に投げ出されたかのようになる。

寄せては返す波のように、揉みくちゃにされた。

どこへ流されるのかも分からぬままひたすら翻弄され、絡め取られてゆく。

自分のものとも思えぬ声が喉から搾り出されたが、恥じらう余裕はなかった。

必死の態でしがみついて、懇願する。


「ラ、ム……お願い……も、う……」


「駄目だよ、まだ……その時じゃない……」


彼はいつもそう言う。

どれほど昂ぶっていても、どれほど縋りついても、決してその先へは進まない。

自らも苦悶しているのが分かるのに、頑なに境を越えようとはしないのだ。


最初の頃は、自分に魅力がないのかと悩んだこともあった。

だが、そうではないと彼は否定する。

理由は分からない。

これほど求め合っているのに、なぜ……


「苦しいの……」


「煽らないで……我慢できなくなってしまう。」


そう言って泣きどころを攻められ、最後にはいつもごまかされてしまうのだ。

やがて何も分からぬまま──意識はふわふわと揺らぎ、どこか遠くへ流されていく。

その朧げな世界の中で漂っていると、宥めるような囁きが決まって降りてきた。


──あなたのためなら、何だってできる。


幾度も重なる優しい口づけは、甘やかな雨のように降り注ぐ。

夢なのか現なのか、その狭間で揺蕩いながら受け止める。

答えたくても声にはならないのがもどかしい。

そんな微睡の奥で、彼女もまた思う。


愛している。

あなたの抱えている苦しみごと、すべて。


その想いを抱いたまま、意識は闇へと溶けてゆく。


やがて訪れた静寂。

緩やかな寝息に耳を澄ませながら、ラミエルは腕の中の彼女をじっと見つめていた。

注ぐ眼差しは限りなく穏やかで優しい。

満ち足りた海のように、すべてを包み込む深い安らぎを湛えている。


けれど、ルナリアはその顔を知らない。

そして、胸に秘められている覚悟も。

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