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2-14

戦後処理の骨子は整った。

捕虜の移送、戦場の整理、物資の再配分。

その一切は現地守備隊と、バラウド将軍率いる部隊に委ねられることとなった。


老将は負傷中であるにもかかわらず、文句ひとつ言わずに後方を引き受けてくれた。

港湾都市の再建計画にも着手しており、その目はすでに次の段階を見据えている。

バラウドが残ることで、この戦の着地点は定まった。


そうしてシアトリヒは直属部隊だけを率いて、密かに港を発つ。

勝者としての凱旋を拒み、声高な報告も祝意も、すべてを老将に預けて。


往路と同じく、喧騒を避ける街道を選んだ。

戦の痕跡も、勝利の余韻も、表に晒すことはない。

ただ静かに、ただ整然と。

第十三近衛連隊の隊列は、帝都を目指して淡々と進んでいった。

この戦の始まりが密命による出立であったなら、その帰還もまた静謐のうちに終えるべきだとでも言うかのように。

何もかもが密やかに処理されてゆく。

そして帝都に帰還した。


到着早々、息をつく間もなく皇帝との謁見が命じられる。


玉座の間は、冷えた静寂に包まれていた。

磨き上げられた大理石の床に片膝をつき、シアトリヒはひたすら頭を垂れている。

玉座から声が掛かるその時まで、決して顔を上げてはならない。


帝は手元の報告書に目を落としていた。

既に戦の大要は把握しているはずだ。

事実だけを淡々と記し、戦功を誇ることのない簡潔な報告書である。

だが、頁を繰るたびに玉座から漂う空気は冷え込み、不機嫌の色が濃くなっていくようだった。


「なぜ信号灯を失った。」


低く落ちた声に、シアトリヒは静かに答える。


「信号灯の所在する灯台区域において、敵の予想を上回る抵抗がありました。

その戦闘のさなか、混乱に乗じて火災が発生した次第です。」


「火災、だと?まさか故意ではあるまいな。」


「指揮官の報告によれば、あくまで戦闘中の偶発によるものとのことです。

既に復旧に向けた作業を開始しておりますゆえ、被害は最小限に──」


「港を押さえたところで、船が寄港できぬようでは話にならぬ。」


「技術将校を投入し、最短での復旧を図っております。

航路の封鎖も、一時的なものであり。」


「そなたはいつから弁解の達人になったのだ、シアトリヒ。」


帝の声音がさらに低く落ちる。


「たとえ敵を退けようと、“使えぬ港”では意味がないと申した。

そなたの手で取り戻したのは──ただの瓦礫だ。」


シアトリヒは口を開きかけたが、言葉を飲み込んだ。

返す言葉がない。


「兵の損耗、指揮系統の分断。そして、灯火の喪失。

そなたの作戦には、あまりに“無駄”が多い。」


「……申し訳ございません。」


「戦に勝っただけで満足するな。

この戦の目的は“港を取り戻すこと”ではない。

“港を使えるかたちで保持し、帝国の威信を繋ぐ”ことにあった。

それを見失った戦術など、ただの徒花だ。」


玉座の間に、叱責の声が静かに広がった。


「要所を守りきれなかった時点で、勝利の意義は半ば崩れている。

戦の帰結が“機能しない港”なのであれば、結果として“意味のない勝利”であったということだ。」


言葉は静かだった。

しかし、それだけに鋭く重い。


「大体そなたは、いつもそうなのだ。

才に頼り、理を積み上げればすべてを制御できると思い込んでいる。

だが戦とは、盤上の理屈で動くものではない。己の判断に疑いを持たぬ者こそは危うい者だ。

その驕りが──信号灯を焼かせたのではないか。

……弟に食われたのも、まさに同じであろう。

己は常に一段上にいると高を括り、足元を掬われた。慢心こそが、敗北の種だとまだわからぬか。」


玉座から放たれた言葉は、過去の古傷を容赦なく抉る。

胸の奥に、冷えた刃がゆっくりと沈み込んでいくような感覚が走った。


(……確かに、どこかで“ここまでやるはずがない”とは思っていた。)


それを「油断」と呼ばれるなら、否定の言葉は持ち合わせていない。


血を分けた身内と争うということは、ただ一度の決断で終わる話ではなかった。

勝った翌日も、さらにその先も決断の続きが始まる。

正当化の理屈を毎朝用意し、ためらいを押し殺し、疑いに備えて誰よりも先に疑う。

そうしてようやく、“勝者”であり続けるのだ。


だが。

そうした繰り返しに、疲れていたのも事実だった。

だからこそ「なりたい者が継げばよい」と自分は皇太子の座を手放した。


それをこの人に言っても理解は決してしないだろう。

弟と帝位を争ったこの人──すなわち父である男は、食った側の人間なのだから。


胸が詰まり、呼吸が浅くなる。


「やはり、そなたに任せるべきではなかったのかもしれぬ。

少しばかり勝っただけで満足しているような将に、次の勝ちは望めぬ。」


「判断の軽率さについては弁明の余地がございません。

統率の甘さもまた、わたくしの不徳にございます。」


「口先だけで申すな!」


怒声が、石造りの広間に鋭く響き渡った。

帝は傍らにあった文書帳簿の束を掴むと、怒りのままに投げつける。

分厚い革装の冊子がうなりを上げて宙を飛び、シアトリヒの頬をかすめて床に叩きつけられた。

それでも彼は、ひたすらに頭を下げ続ける。

傷よりも、言葉が深く刺さっていた。


「澄ました顔で殊勝な口を利きながら、内心では誰より自分が賢いと思っているのだろう?

その慢心こそが、そなたの本質だ。」


「……決して、そのようなつもりでは。」


「黙れ。」


帝の言葉は、侮蔑と怒気に満ちている。


「まったく、母親にそっくりだ。

己の才に酔い、他者を見下し、何もかも思い通りにできると勘違いしている。

……忌々しい奴め。」


帝はさらに責め立てた。

その意図がどこにあるかなど、もはや明白だった。


どうしてなどと、今さら思うまい。

行けと命じられた時から、こうなることは予測していた。

自分はいい。とっくの昔に諦めている。

だが死力を尽くして戦った部下たちが、自分のせいで報われないことだけは、申し訳なく思えた。


「アルマーレ奪還の功は、すべてバラウドに帰するものとせよ。

港を落としたのが誰であれ──最終的な報告には、そう記しておけ。」


あまりにも理不尽な言葉だった。

いくら何でも、それでは筋が通らない。

咄嗟に、言葉が漏れていた。


「恐れながら陛下。

部下たちは命を顧みず、帝国のために死に物狂いで戦いました。

わたくしが不徳によりその栄誉に値しないのは重々承知しております。

されど、彼らの勇戦だけは、どうか正当にお認めくださいませ。」


それが、今の自分にできる精一杯の言葉だった。

だが玉座から返ってきた声は、氷のように冷たい。


「死に物狂いで戦った者など、どこにでもおる。珍しくもない。

問題は、その死が何をもたらしたか、だ。」


ああ、愚かな自分。

言葉など届かないこの人に、まだ何かを望もうとしたこと自体が間違っていた。

シアトリヒは深く頭を垂れ、己の感情を奥底に押し込める。


その後、何を言われていたのかも朧げなまま謁見は終わり、退室を命じられた。


結局、自分はこういう役回りなのだろう。

呼ばれれば矢面に立ち、用が済めば黙って退く。

そして誰からも顧みられることはない。


分かっていて受け入れてきたはずなのに、胸の奥ではなお、砂を噛むような苦さが消えなかった。

その苦味が内側で軋む。

慣れきったはずの痛みが、形を変えてなお自分を苛む。


いっそ心ごと壊れてしまえば楽になれるのに。

苦しみを覚える感情そのものを捨てられたなら、どれほど軽く生きられるだろう。

だがそれもできず、ただ地を這うように生き延びている。

正気を保つことなど馬鹿げているのに、それすら手放せない自分が、ひどく惨めに思えた。


ふと、廊下の高い窓に目をやる。

小さな鳥の群れが、淡く霞んだ空を横切っていくのが見えた。


行く先を知っているのだ。

ためらいも振り返りもなく、この場所を離れていく。

自分もまた、そうしてどこかへ辿り着けたなら。

この冷たい城も、息苦しい空も、すべて背にして遠ざかっていけたなら──


物思いを振り切り、再び歩き出す。


行き先を知っている鳥と、行き場所を持たぬ自分。

それが、今のすべてだった。

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