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古文書室。
宮廷にあっても人の寄りつかぬその場所に、ルナリア・プレセアは立っていた。
本来は自分の持ち場ではない。
けれど立場の弱い彼女は、誰も好んでやりたがらぬ掃除を押し付けられるのが常だ。
断ることなどできない。
できるのは、黙って受け入れることだけ。
昨日も、その前も、同じように。
反論しないと分かっているから、周囲は気軽に仕事を投げる。
それが、繰り返し繰り返し続いていた。
どこにいても、自分はこうして蔑まれるのか──と、自嘲が浮かんでくる。
人から軽く扱われるのは、今に始まったことではない。
帰る家もなく、守るべき声もない娘など、憂さ晴らしの道具にしかならないのだ。
女官になれと言われた時は、せめてここから抜け出せるのではないかと一瞬だけ期待した。
しかし、やはりここで何かが変わる訳でもなかった。
みそっかすは、どこまでいってもみそっかす。
さらに吃音がいじめに拍車をかけている。
両親が生きていたころ、吃音は「個性」だと言って、優しく励ましてくれた。
けれど今は違う。
人の嘲りの的にしかならない。
声を出すたびに笑われるのが怖くなり、必要以上のことを話さないようにしていたらこの有様である。
どうして、いつもこうなのだろう。
もしこれが自分の生の在り方なのだとしたら、なぜ生かされているのだろう。
生きている意味を問いかける思いは、毎日少しずつ胸の奥に沈んでいく。
しかし答えは見つからない。
高い窓から差し込む光は淡く、長く連なる書棚の間に埃が重く積もっていた。
紙と蝋と乾いた木の匂いが溶け合い、それが肺に触れるたびに息苦しさを覚える。
彼女は刷毛を手に、棚の埃を払っては隣へと移り、黙々と作業を続けた。
そうして一冊の書に至る。
ここは文書室だ。
なぜこんなところに、本が挟まっているのか。
しかも、隠すように押し込まれている。
誰かがうっかり置き忘れた、というには不自然だ。
一瞬、手を止める。
けれど興味には抗えず、手を伸ばした。
背表紙の文字が目に入る。
詩集──
ここには、もう使われることのない記録や古い報告書ばかりが並んでいる。
都合上残されているだけで、誰も読み返さない。
そんな紙束の墓場のような場所だ。
その中にたった一冊だけ、心の内を綴るための書が紛れ込んでいる。
誰かが私物として持ち込み、こっそり隠したのだろうか。
思い切って引き抜く。
抜いた瞬間、指先に小さな抵抗が伝わった。
紙の束の奥で、眠りを破られたように何かが揺れたのだ。
彼女は本を机に置き、慎重に頁を繰る。
紙は息を吐くように広がり、何かを滑り落とした。
床に落ちたそれは、一枚の紙片だった。
けれど拾い上げれば、指先が異質を告げる。
この部屋に収められるような古い文書のざらつきではない。
まだ新しい──誰かがつい最近記したものだ。
丁寧な筆跡が並んでいた。
お手本のように整っており、書き手の心のありようを覗き込むような感覚にとらわれる。
軽い気持ちで文字を追った。
しかし読み進めるほどに胸の奥がざわめき、落ち着かぬ気配が広がっていく。
そこにあったのは、重く深い絶望だった。
言葉は静かで、乱れはない。
けれどその整った形の奥には、痛烈な痛みが刻まれていた。
最後まで目を走らせ、ルナリアは息を吐く。
静まり返った古文書室の中で、その紙だけがまだ温もりを帯びているかのように思えた。
しばらく指で紙の端を撫でる。
誰のものとも知れぬ想いを壊さぬように。
やがて彼女は紙を畳み、お仕着せのポケットへ収めた。
再び棚に向き直り、刷毛を動かす。
手の動きはいつも通りだったが、胸の内には拭えぬ戸惑いが残っていた。
その夜、女官たちの部屋が灯りを落としたあと、ルナリアは自分の寝台の脇に燭台を置き、揺れる焔の下で机に向かった。
書かずにはいられなかった。
読んでしまった以上、見知らぬ誰かの痛みを置き去りにはできなかった。
放っておけない自分を、どうしようもなく感じていた。
炎は揺れ、蝋が溶けて垂れる。
筆先が紙に触れ、細い線が文字を描き始めた。
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あなたへ
偶然、お手紙を手にするに至りました。
どれほどの苦しみを背負ってこられたのか──
読んだだけの私などには到底伺い知れないものです。
それでも書かずにはいられませんでした。
読んでしまった以上、あなたの痛みを見過ごすことができません。
顔も知らないあなたですが、胸が酷く痛みます。
お身体は大丈夫でしょうか。
とても心配です。
苦しい胸の内を吐き出すために書かれたのでしょうから、
他人からの返事などは期待されていないかもしれません。
それでも、一つだけ。
どうか、死なないでください。
あなたにしか出会えないものや、
あなただけを待っているもの。
もしかしたら、すべてを乗り越えた先で待っているかもしれません。
どうか、今感じているその痛みに、あなたのすべてを委ねないでください。
痛みは深く、重い。
すべてを覆い尽くしているかのように思えることもあるでしょう。
けれども、それが全てではありません。
あなたがここにある限り、向かうべき場所は必ず残っています。
あなたの涙が止まりますように。
痛みの癒える日がやって来ますように。
平穏な日常を取り戻すことを願うばかりです。
優しくあたたかなものであなたの心が包まれる日が訪れることを祈っております。
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書き終えると筆を置き、しばらく紙を見つめた。
読み終えた後、丁寧に畳んで小箱へ収める。
燭台の火を吹き消すと、部屋は闇に沈み込んだ。
ルナリアは夜の冷たさを胸に抱き、目を閉じる。
静けさに身を委ねると、暗がりがゆっくりと彼女を包み込んでいった。
──そして翌日も、また古文書室に立つ。
昨日と同じ棚を辿り、同じ詩集を取り出す。
革表紙に触れた指先はわずかに迷って強ばったが、頁を開くと力が抜けていった。
畳んだ紙をそこへ忍ばせる。
白い紙は音も立てずに沈み、頁の陰にひっそりと収まった。
詩集を閉じて、その上に手を置く。
少しだけ留め──それから棚へ戻した。
刷毛を取る。
埃を払う動作は変わらないのに、その奥に昨日にはなかった温もりが潜んでいた。
古文書室は変わらず静寂を守り、差し込む光が埃を静かに舞わせている。
*
幾日かが過ぎた。
変わらない日々の中でルナリアは棚を掃除し、刷毛を動かし、埃を払い続けている。
手が伸びた。
例の詩集を机に置き、頁をめくる。
そこには明らかに自分の残したものではないもの──淡い真珠色の紙が挟まっていた。
指先が止まり、慎重に拾い上げる。
見覚えのある整った筆跡を前に、彼女は息を呑んだ。
―――――――――――――――――――――――――
あなたへ
手紙、拝読いたしました。
静かで真摯な言葉が、確かに胸に届きました。
その一行一行に触れるたび、心の奥で小さな波が立つのを覚えました。
わたしの痛みを理解しようとしてくださり、
それでいて、安易な慰めの言葉を選ばなかったこと。
その真摯さが、どれほど有難く、また、心を揺らしたか──
言葉にしようとすると、胸が詰まってしまう思いです。
正直に言えば、私は驚いています。
なぜなら、あなたの言葉を読んでいるうちに、どうしてまだ生きたいと願うのかと、自分に問いかけていたからです。
「死なないでほしい」と記されたその言葉が、想像以上に深く響きました。
またその響きに、嬉しいと感じている自分がいることにも気づきました。
わたしにしか見つけられないもの。
わたしだけを待つもの。
本当にそんなものがこの先にあるのかは分かりませんが、
あなたがそう言ってくださったから、
もう少しだけこの命を繋いでみたいと思います。
そして……
もし差し支えなければになりますが。
これからも、あなたへお手紙を差し上げてもよろしいでしょうか。
ご負担になるのではと迷いました。それでも──
今一度、あなたのお言葉に触れたいと、願わずにはいられませんでした。
わたしの想いを受け取ってくださったあなたへ。
改めて、感謝申し上げます。
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最後の行まで目で追い、ルナリアは紙片を抱き込んだ。
指先の震えを抑えるように、胸元で押さえる。
しばらくしてから、ゆっくりと紙を畳んだ。
それを懐に収め、再び刷毛を取って埃を払う。
手の動きは穏やかでも、瞳には昨日までになかった熱が確かに宿っていた。
古文書室は静寂を守っている。
けれど光に舞う埃は、どこか弾んでいるようにも見えた。
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あなたへ
お手紙、何度も読み返しました。
あなたが生きたいと願ってくださったこと。
それだけで、胸があたたかくなりました。
きっと、その先には
あなたにしか見つけられない景色が待っているかもしれません。
もしよろしければ、これからも遠慮なくお手紙をください。
わたしの言葉が少しでもあなたの心を軽くできるなら、それほど光栄なことはありません。
いつでも、お待ちしております。
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文書室なのに詩集?と思い、内容を少し付け足しました。




