2-10
帝都を進発したシアトリヒ一行は、五日をかけて北西の街道を北上した。
動員兵力は近衛第十三連隊を中心とする約三千名。
あくまで戦地への合流を目的とするものであるため、決して大軍ではない。
途中、補給拠点で糧秣と野営物資を補充。
第七日目の夕刻、一行はようやくアルマーレ港近郊の帝国軍陣地に到着した。
そこには、燃え残った倉庫群と、疲弊しきった兵たちの野営が広がっていた。
遠く湾口にはベル・トラーナの艦影が並び、黒煙を吐く桟橋が夕陽に沈んでいる。
湿った春風に、火薬の焦げた匂いが混じっていた。
アルマーレ港の外周には砲撃で穿たれた倉庫群が並び、石積みの岸壁は崩れ落ちて黒煙を吐いている。
海面には破片や漂流材が浮かび、湾口にはベル・トラーナ所属の軍艦が砲門を向けて居座っていた。
補給船は一隻も入れず、港湾施設そのものが敵の支配下にある。
帝国軍の陣地に足を踏み入れると、疲弊は一目で知れた。
弾薬は残弾の確認を口にするたびに溜息が漏れるほど乏しく、砲列は半数が破損したまま。
砲弾を運ぶはずの荷馬車は空で、修理も弾補充も追いつかない。
兵たちは泥に腰を下ろし、冷えた雑穀粥をすすりながら遠い海を睨むばかりだった。
守備軍が押さえているのは、港に至る街道と臨時の外陣だけ。
肝心の港湾部は敵が押さえ込み、艦砲と砲台で固められている。
正面から挑めば砲火に晒され、退けば補給が尽きる。
戦はすでに「持久」ではなく、「干上がるのを待つ消耗戦」へと変わっていた。
シアトリヒはしばし陣営を歩き、疲弊した兵たちの姿を目に焼きつけたのち、従卒に案内されて幕舎へ向かった。
そこに、この戦を指揮してきた老将が臥していると聞かされたのである。
幕舎の中は薬と血の匂いがこもっていた。
粗末な寝台に凭れかかるバラウド将軍は、従卒に支えられながら上体を起こし、深く頭を垂れた。
「……ようこそお越しくださいました、殿下。
不甲斐なくも、この地を守り切れず、かたじけのう存じます。」
シアトリヒもまた姿勢を正し、低く応じた。
「ご無理はなされますな。将軍の奮戦、陣地を見れば明らかにございます。」
老将は短く息を整え、報告を始めた。
「兵力は残存、およそ三千。
うち三割は負傷し、戦列に立てぬ者が多うございます。
砲は三十門のうち、稼働は半ば。弾薬はあと十日と持ちませぬ。
糧秣はさらに乏しく、三日もすれば干上がりましょう。
敵は港湾部を完全に掌握。桟橋と倉庫を拠点とし、艦砲と陸砲で固めております。
正面から突けば、我が軍の損耗は計り知れませぬ。
一方、街道筋は辛うじて我らが押さえておりますが、補給船は一隻も通らぬゆえ、持久は不可能とご承知ください。」
バラウドは悔恨を滲ませながらも、言葉を切り詰め、核心を託した。
「……これが現状にございます。
ここより先は、殿下の御采配に従うほかございませぬ。
どうか、この軍と北辺をお救いくださいますよう、伏してお願い申し上げます。」
シアトリヒは深くうなずく。
「残る力、必ずや活かしてみせましょう。」
ひとときの黙礼が交わされたのち、シアトリヒは振り返って随行武官に指示を与えた。
「幕僚を集めよ。状況の整理と、方針の決定が先だ。」
すぐさま命が伝えられ、負傷者の間を縫うように武官が駆け出していく。
やがて幕舎の奥、粗末な天幕の下に急ごしらえの軍議卓が据えられた。
火薬と血の匂いがまだ抜けきらぬ空気の中、数名の将校たちが椅子に着く。
「始めよう。」
集まった面々を見渡しながら、静かに腰を下ろす。
その瞬間、場の空気が張り詰めた。
ただの沈黙ではない。
それまで散在していた不安と緊張が、一点に収束してゆく──まるで意志を持ったかのように、場の温度が変わる。
灯火の揺らめきすら、彼の言葉を待っているようだった。
一同は息を呑み、視線が自然と引き寄せられてゆく。
老将バラウドの代行として現地指揮を引き継いで以降、これが初めての正式な軍議だった。
時間的余裕はない。
準備に与えられたのは実質一日。
この場で方針を定め、すぐさま実行に移さねば、次の潮目には間に合わない。
シアトリヒは手元の地図に目を落とし、短く息を吐く。
「各々、戦況は聞き及んでおろう……我らが奪還すべきは“港”そのものだ。
だが履き違えてはならぬ。破壊してしまっては意味がない。
施設を生かして奪回し、敵の補給と再上陸を断つこと。それが狙いだ。」
言うは易し。
しかし実行は極めて困難だ。
軽々しく口にできるような作戦ではない。
それは誰もが理解していた。
「ノイマン大佐。」
「はっ」
現地防衛を担っていた老練の大佐が進み出る。
「敵軍艦の行動パターンについて、あらためて報告を。」
「斥候の観測、および潮の動きと照らし合わせた結果……敵艦はこの三夜、いずれも“一時過ぎ”に港を離れております。
出航の信号、艦影の動き、いずれも定型的なもので、同様の行動が予想されます。」
「よろしい。」
彼はうなずき、卓上の地図へと視線を落とした。
「よって──敵艦が沖へ出ている“夜半”を狙う。主力が不在の隙に、我らは港を急襲する。」
明快な声が響く。
戦略上の要。
それは、敵軍艦が港を離れている数時間の空白を突くことだった。
シアトリヒは卓上の地図を押さえ、指で各拠点を辿る。
見張り台、倉庫、火薬庫、信号灯──
いずれも敵の手にあるが、艦が戻る前に制圧できれば、その機能を封じることができる。
「最終目標は港の奪取だ。だが、そこに至るには段階を踏まねばならぬ。」
まず正面に兵をぶつけて敵を引きつけ、その間に裏手から突入。
主要拠点を制圧し、指揮系統を破壊、守備隊を分断する。
要は時間との勝負だった。
「これを、艦が戻る前に終えねばならない。さもなくば、我らの頭上に降るのは砲弾の雨だ。」
天幕内に緊張の気配が走る。
ややあって、軍務院から随行していたエグバルト大佐が声を発した。
その物言いには、慎重さよりもあからさまな懐疑の色が滲んでいた。
「仮に敵艦が帰還してしまった場合は、如何されるおつもりか?」
「それを防ぐために、港外縁複数箇所に火砲を布陣させる。
弾を当てる必要はない。制圧している間、奴らが港に戻れぬよう牽制する。」
「その火砲の牽制を潜り抜けて、港に戻ってくる艦がおるやもしれませぬが。」
言葉の棘を隠そうともしないその口調に、場の空気が揺れる。
だが、シアトリヒがそれを遮ることはなかった。
むしろ静かにその問いを受け止めるように、淡々と答える。
「その時は、我が方の敗北を認めるしかない。艦砲の前で、軍艦のない我らでは勝ち目がないからな。」
エグバルト大佐は腕を組み、声の調子を変えぬまま続けた。
「帝都では、失策に対して厳しい評価が下されます。“想定外”では、通りません。」
「失策は許されぬとは言うが、このような状況で選べる選択肢があると思うか?できることをする以外に、道はないのだ。」
「だとしても……性急です。もう少し別の手段を探っては。
軍艦については、たとえばここから一番近いアヴァロアの軍港から派遣を依頼するとか。」
「帝都を出る前に打診しておいたが、航海に出ているとのことだった。
戻り次第ということなので、確実な到着日が出せない。」
「せめて、派遣の目処が立つのを待つことはできませんか?」
「そこまで待っている余裕がない。」
静かだが一歩も引かぬ声音だった。
「糧秣は三日、弾薬も十日と持たぬ。
この戦域は、今まさに首の皮一枚で繋がっている状態だ。一日でも早く、動かなければならぬ。」
静寂。
重い言葉の余韻が、全員の胸に残った。
だが次の瞬間、それをかき消すような声が投げられた。
帝都から派遣された軍務院直属の監察官──ヘルツベルク少将である。
彼は軍部が掻き集めた予備戦力を率いて、バラウド隊の増援と指揮監察の両権限を与えられていた。
建前こそ増援だが、実際には戦況の暴走を抑えるために差し向けられた“締め具”のような存在だ。
「あまりに乱暴すぎますな。
敵の戦力も配置も、把握には程遠い。
その状態で拠点急襲とは、まさに無謀の一語に尽きる。
結果が出なければ、それは蛮勇と変わらんでしょう。」
ヘルツベルクの発言は、作戦を案じているというよりも責任の線引きを強調するような、冷たい打算が滲んでいた。
続けて、エグバルト大佐が口を挟む。
「殿下。帝都では本件を“防衛的措置”として通達されております。
万が一、さらなる損耗が発生した場合、責任の所在は極めて──」
言葉を遮るように、シアトリヒの双眸がぎらりと閃いた。
「そなたたちは、一体、何のためにここへ来たのだ?作戦の邪魔をしに来たのか?」
低く絞られた問いかけに、場の空気が凍りつく。
内心では、抑え難い苛立ちが、静かに煮え立っていた。
策も覚悟も持たず、口先だけで責任を逃れようとする者ども。
──いや、それだけではない。
皇子たる自分に向かって平然と異を唱え、作戦を貶すその態度。
無礼であり、不遜にも程がある。
いかに冷遇されていようとも、口先ばかりの輩に侮られる謂れなどない。
シアトリヒは、言葉を失ったふたりを冷ややかに睥睨した。
「わたしとて、無謀であるのは百も承知している。
だが今は、責任の所在を論じている場合ではない。
動かなければ、より大きな損失が待っている──それだけのことだ。」
言葉は鋭く地を打ち、重く響いた。
揺るがぬ意志、そして――最前線に立つ者だけが持ち得る、切実な覚悟が滲む。
「猶予もなく放棄もできぬ状況で、なお“無謀”を盾に動かぬと申すなら、今すぐ帝都へ戻るがよい。
そして皇帝陛下に、戦をやめよと上奏することだ。
不満があるとしても、この戦は陛下の御裁可によって始まっている。
わたしは、その御旨を受けてここに立っているのだ。その認識でないのならば、今すぐ改めよ。」
声音は冷えきっていた。
「できぬ理由を並べるな。できることを考えよ。
ただ不満を言いたいだけなら、その言葉をぶつける相手はわたしではない。」
沈黙が落ちる。
反論の言葉を持つ者は誰もいなかった。
ただその場にいた全員が、シアトリヒの言葉の余韻をひとしく胸に刻み込んでいた。
「……続ける。」
シアトリヒは卓上の地図に指を置いたまま、静かに言葉を継いだ。
「まず最初に、肝に銘じておけ。
この作戦の成否は、敵艦を港に戻らせぬことにかかっている。」
幕内に、ひときわ鋭い緊張が走る。
「敵は夜半に港を離れ、沖合に出る。
だがこちらの制圧が半ばであれば、やがて奴らは引き返してくる。」
指先が、地図上の海岸線を静かになぞった。
「軍艦牽制のための火砲の配置──これを、バラウト隊に任せる。
効率的な射点を見極め、港外縁の要所に布陣せよ。
目的はただ一つ。艦の通行を阻むことだ。
命中は要らぬ。だが、撃ち続けろ。
こちらは沿岸に潜み、夜目も利く。奴らには何も見えぬまま、砲火だけが降る。
それだけで、前に出るのを躊躇わせるには充分だ。」
白髪混じりの眉をわずかに持ち上げ、ノイマン大佐が静かに頷く。
この地に長く駐留してきた者として、地形の責は自らが負う──そう言外に示していた。
「火薬庫と連絡路の制圧は、ヘルツベルクの部隊で当たれ。
爆薬を掌握し、後詰めと補給を断て。
また、見張り台と信号灯も叩け。高所であっても、徹底的に遮断せよ。
ここを潰せば敵艦との通信は断たれる。」
ヘルツベルクはわずかに顎を上げて返す。
「承知。」
その声音には、不服の色が同居していた。
「中央の司令部──これは我が麾下の部隊で対応。
指揮系統を破壊すれば敵の統制は瓦解する。クライス。突き崩して、二度と立て直せぬようにせよ。」
指名を受けたクライス准将は、即座に敬礼する。
「砲兵を先行。突撃隊は二手に分け、奇襲で仕留めます。」
声には一分の迷いもなかった。
彼がこの任務を待ち受けていたことは、誰の目にも明らかだった。
「囮部隊は、正面から敵の目を引け。
港の裏手から主力が侵入する間、真正面で敵を足止めし、戦力を分散させるのが目的だ。
これは、バラウト隊または十三近衛で編成する。」
ノイマンとクライスは静かに頷き、準備の意を示した。
シアトリヒは地図に視線を落とす。
「すべてを同時にやるぞ。
どこか一つにでも綻びがあれば、敵は立ち直る。
動いたら一挙に畳みかけ、そうして夜明けまでに全てを終わらせるのだ。それが、この作戦のかたちになる。」
さらに言葉を続けた。
「そして制圧後。
明け方以降に敵艦が接近してきた場合の手立ても講じておく。」
視線が再び地図の海側へ向けられる。
「港の制圧が完了し次第、直ちに敵軍艦への備えに移れ。
港内に残された敵の火砲は即座に接収し、反転配備。敵艦が動けば、それを用いて牽制できる構えを取る。
火砲の移設と運用体制の整備は、工兵隊に任せる。必要な戦力と資材は前夜のうちに準備し、遅滞なく布陣せよ。」
地図の岸側へ指を滑らせながら、さらに命じた。
「牽制を無視して接近してくる艦には、小艇を用いての妨害を試みる。
これにあたるのは、遊撃および狙撃に長けた待機部隊とする。
軽装かつ迅速に動ける者を選り抜き、予め沿岸部に潜ませておけ。
いずれも、“反撃を受ける恐れがある”と印象付けるのが目的だ。
実際に交戦する必要はない。奪い返された港が“牙を持っている”と悟れば、奴らも軽々しく踏み込むまい。」
再び幕内が静まり返った。
誰も異を唱えない。
その沈黙は、同意であり、覚悟だった。
静まり返った幕内にシアトリヒの声が沈んでいく。
「繰り返す。港の施設は、決して破壊してはならぬ。
我らはそれを“使うため”に奪うのだ。燃やすためではない。」
語調は淡々としていたが、その言葉には明確な意志が込められていた。
「火責め、略奪、無断での撃ち方始め……すべて厳禁とする。
命令に背いた者、規律を乱した者は、戦後、軍法会議にて裁く。
たとえどれほどの功を立てていようとも、例外はない。」
威圧ではなかった。
だが、確かな警告である。
この戦は、ただの武力衝突ではない。
秩序を奪われた土地を、秩序ある手で奪い返す──その覚悟が求められている。
沈黙の中、ひとつの声が響いた。
ヘルツベルク少将が、躊躇いながらも口を開く。
「……計画通りに、いきますかな。」
皮肉でも反対でもなかった。
しかし言葉に込められた現実の重さは、誰の耳にも伝わった。
敵情は不明な点が多く、兵力も余裕もない。
無謀と取られても仕方のない綱渡りの作戦──そう思う気持ちは、シアトリヒ自身にもあった。
それでも、彼の声に揺らぎはなかった。
「進まねば、全員ここで終わる。それは明白だ。」
静かに言い切る。
「退路はなく、持久もできぬ。補給も絶たれている。
ゆえに、やり遂げるほかに道はない。」
成功か、全滅か。
あいまいな勝利など、最初から存在しない戦だった。
椅子を押し、彼は静かに立ち上がる。
背筋は伸び、身じろぎ一つない。
「言いたいことがあるなら、ひとまずは自分の胸に収めておけ。」
広間を見渡しながら、言葉を続ける。
「勝てるかどうかではない。やるのだ。
凱旋か、絶望か──それは、この場にいる一人ひとりの働きにかかっている。」
炎は、言葉を飲み込むように静かに揺れていた。
やがて将たちは無言のまま立ち上がり、それぞれの任務へと散っていく。




