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2-4

灰色の空に、塔の鐘が低く鳴り響いていた。

帝都の尖塔群を抜ける風が、礼拝の庭に冷えた空気を運んでくる。


帝城の北翼に位置する、戦没者を祀る白亜の広場。

名もなき者の死も偉勲を遺した者の死も、すべて等しく記憶するこの場所に、いま重苦しい沈黙が満ちていた。


先の攻防戦──

それは、北方の要衝アストレイアの地にて起きた戦である。

敵国ベル・トラーナの主力を撃退し、その南下を阻止することに成功。

戦術的には勝ちと言える内容だったが、代償は決して小さなものではなかった。


特に犠牲が集中したのは、別働隊として派遣された側面部隊や補給守備隊である。

敵の補給線を断つために組まれた強行突破。

その行軍は予想外に長引き、待ち伏せと伏兵に晒される形で多くの命が失われた。

勝利の影に、流された血。

そして今日、その戦で命を落とした者たちを悼む慰霊式典が粛々と執り行われていた。


中央には黒檀の献台と花冠が捧げられている。

張り詰めた空気の中、聖職者の低い詠唱だけが風に乗って響いていた。


「近衛第三歩兵連隊、第二小隊、シルヴェスト・ラインベルク一等兵……戦死、アストレイア近郊。」

「国境独立偵察隊、ツェーリク・ハーゲル中尉……敵後方偵察中戦死。」

「補給監督隊、第五支部、マウリス・ゼーベック伍長……後衛支援中、伏兵に遭遇し戦死。」


列の端に立っていた従騎士長のエルハルトは、名簿と戦死者の名前が噛み合っていくのを静かに確かめていた。

視線の先には、ひとりの男がいる。


第一皇子シアトリヒ。


彼は将官たちに並ぶ列の最前に立っていた。

腕には喪章、胸には一つだけ十星の記章を下げただけの軍服姿だ。


進行役からは事前に弔辞を依頼されている。

だが彼はそれを断っていた。

「自分は何も語るべきではない」と、静かに。


どんな言葉であれ、都合の良いものになってしまう。

皇族という立場から発される限り──それは“慰め”ではなく、“処理”として受け取られてしまうだろう。

それでは、遺族が報われない。

命を預けた者の名に、黙して頭を下げる。

それこそが自分に許された弔いの形であると告げていた。


壇上にも立たず、広場の中央にも出ない。

ただ最前列に佇み、名前が読み上げられるたびに深く頭を垂れる。

儀礼でも演出でもなく、責任の重みをそのまま姿に変えたような在り方だった。


最後の戦没者の名が読み上げられ、鐘の音が静かに途絶えた。

式は、静寂のうちに幕を閉じる。

将官たちは頭を下げ、それぞれの足音を残して退場していった。

聖職者や記録官も、定められた出口へと歩みを向ける。

広場に漂っていた沈黙はいつしか人の声に溶け、厳粛な空気は少しずつざわめきへと変わっていった。


しかし、第一皇子の姿はなお、そこにあった。

列の流れが途切れ、退場の導線が乱れたのだ。

関係者が足早に去っていく中、彼だけが取り残される形になった。

それでも彼は咎めることもなく、当然のことのように立ち尽くしている。

群衆の波を前にして、広場の片隅に身を置いていた。

エルハルトは一歩後ろに控え、彼の背に視線を注ぐ。

行き交う人々のざわめきがまだ渦を巻き、式の余韻と混じり合って広場を覆っていた。


そして、彼らがようやく歩き出そうとしたそのとき──ふらりと現れた影があった。

顔色の悪い、壮年の婦人。

彷徨うような足取りで、ゆっくりと歩いてくる。

事務官のひとりが慌てて声をかけた。


「ご婦人、退場口はあちらでございます。こちらは関係者用の──」


しかし、婦人は耳を貸さなかった。

そのまままっすぐに歩みを進め、退場してゆく軍服の男の方へと向かっていく。


瞬間、衛士たちが動いた。

剣が抜かれ、鞘鳴りが鋭く空気を裂く。


「下がれ!」


エルハルトの声が飛ぶ。

だが、それより一瞬早くシアトリヒが手を上げた。

その動きで、剣は鞘へと戻る。

緊張に満ちた空気が、少しだけ緩んだ。


主君は婦人に視線を向ける。

彼の眼差しは話せばいい、と語っていた。

彼女は息を呑み、震える声を絞り出すように告げる。


「ご無礼をお許しください……でも、どうしても……お訊きしたくて……」


シアトリヒの眉が動いた。

婦人は深く頭を下げたまま、懸命に言葉を継ぐ。


「第五歩兵旅団・第二大隊、ギュンター・ラウディッツ一等兵の母です……

シェーン峡谷南方にて敵の伏兵に囲まれ、隊ごと壊滅したと聞いております……」


傍らに控えていた事務官の一人が、青ざめた顔で婦人の袖を引いた。

それが礼を欠く行為であることは重々承知の上で、それでも止めようとしたのだ。

だが、婦人は払いのけて、なお前へと進む。


「出征前、息子は“後方勤務だから心配はいらない”と……そう申しておりました。

それなのに、なぜか……最前線の深部で戦死したと。」


責め立てるような色はない。

ただ一人の母親が息子を想うあまりに、どうしても知っておきたいと願った“理由”だった。


「急に転属でもしたのでしょうか……

でも、誰に聞いても、“それは言えない”とばかりで……」


あまりに無防備で、あまりに真っすぐな問い。

エルハルトでさえ、呼吸を一度止めてしまったほどだ。

母の眼差しには悲嘆と一抹の希望、そしてどうにもならなかった過去への悔いがないまぜになって宿っている。


「現場のことを……ご存知の方であると、お見受けいたします……

貴方様なら、何か……何かご存知なのではないかと……そう思って、いてもたってもいられなくなってしまって……」


婦人は必死だった。

心が動いたままに言葉を紡いでいた。

事務官のひとりが慌てて前へ出てくる。


「ご婦人、それは軍機に関わる事柄ゆえ、お応えすることは──」


シアトリヒは片手で制すると、事務官は口を噤んだ。

目で促された婦人は、唇を震わせたまま語り続ける。


「“後方だから安全”──そう信じて、送り出したんです……

それなのに、帰ってきたのは……手も、脚も……ない姿でした。顔も、傷だらけで……誰だか分からなくて……」


言葉を切ると、彼女の目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちていった。

立っているのもやっとという様子で、痛ましいことこの上ない姿を晒している。


「あの子はどうして前線の深部なんかに移動したのでしょうか。

どうして、あの子がそんな目に遭わなければいけなかったのか。何も分からないままでは、わたしは眠ることもできないんです……」


母の言葉は、広場にいたすべての者に突き刺さっていた。

エルハルトも込み上げるものを抑えきれず、奥歯を強く噛みしめてしまった。

こうして矛先が向けられているのは、他の誰でもない──戦の責任者である主君なのだ。


婦人はなおも「どうして」「なぜ」と繰り返し、ついにその場に膝を突いた。

啜り泣きが広場の端まで届く。

溜まりかねた衛士が制止に入ろうと進み出たそのときだった。


「止めてはならぬ。」


低く通る声が、空気を断った。

人々の視線が一斉に彼へと向く。


「遺族の想いが正面から届く場は、あまりに少ない。」


再び、広場に沈黙が降りた。

風が喪章を揺らし、花弁が舞う。


「……怖かったでしょうね……どれほど痛かったことでしょう……」


婦人は地に跪いたまま肩を震わせ、祈るように地を見つめていた。

シアトリヒは動かない。

彼女の姿を静かに見つめている。

しかし手袋越しでもわかるほど、握り締めた拳が震えていた。

誰も気づかない。

エルハルトだけが、それを見ていた。


──我が君は、逃げない。

目を背けもせず、取り繕いもせず、真正面から受けておられる。

皇族の振る舞いは、何をしても偽善と詰られるというのに……


胸の奥に熱いものが込み上げるエルハルトは、唇を強く噛み締めた。


やがて、傍らに控えていた事務官のひとりが婦人の肩に手を添える。

続いて、補佐役と思しき若い係員が歩み寄り、そっと身体を支えた。

ふたりに導かれるようにして、婦人は泣きながらも立ち上がる。

涙で顔を濡らしながら、案内されるまま足を運び──広場の端へと姿を消していった。


彼女が完全に見えなくなるまで、シアトリヒは視線を送り続ける。

まるで子を亡くした母の想いに、最後まで寄り添おうとしているかのように。

少なくともエルハルトの目には、そう映った。

彼の情の深さは、決して声高に語られるものではない。

むしろ、沈黙と佇まいの中にこそ宿っている。

だがそうした在り方は、往々にして人の目には映らぬものだ。

誰の記憶にも残らない。

それが時にエルハルトの心を悲しくさせていた。


ところが、騒ぎは終わらない。

一連の遣り取りを見ていた群衆の中から、声が飛んできたからだ。


「若者を死なせて、母親を泣かせて……それでも何も思わないのか!」


皆が振り返った。

重く沈みかけていた空気が、一気にざらつきを帯びてゆく。


「弟は、たった二十でした……補給部隊だったはずなのに。

なのに戻ってきたのは、名前もわからないほど焼け焦げた遺体だけ。

一体どういうことなんだ!軍の人間は、なんで誰も何も教えてくれないんですか!」


その一言が呼び水となった。

あちらからもこちらからも、次々に声が上がる。


怒号、泣き声、詰め寄る声──

不満と嘆きが重なり合い、やがて怒りへと転じていった。

そのすべてが広場を渦のように巻き込み、混乱のうねりとなって膨張していく。

そして。

最初に声を上げた大柄な男が再び壇を指差して、声を張り上げた。


「“狂犬”殿下!あんたの無茶な命令で、これだけの遺族が泣いてるんだ!何か言うことはないのか!」


罵声が決定打となり、場のざわめきは一気に爆ぜた。

エルハルトは、即座に悟る。

涙も激情もない、その目に宿るのは冷ややかな光。

言葉の選び方も、反応を引き出すように計算されている。

──こいつはただ感情に任せて叫んでいるのではない。

仕込み、なのだろう。

慰霊式典を混乱に巻き込み、あえて場を壊すために放たれた異物。

弔いの場すら制御できない皇子として、外部に印象づけるための──政治的な演出だった。

死者を悼む場でさえ、道具として利用する。

その卑劣さに、怒りよりも嫌悪を覚えた。

誰の差し金かなど、考えるまでもない。

しかし火の粉が主君の背に届くことだけは、絶対に許せなかった。


エルハルトは前へ進み出る。

もしも混乱に紛れて刃が振るわれるようなことがあれば、その身で防ぐつもりだった。

周囲の衛士たちも視線を送り合う。

騒乱の中心を制圧すべきか、それとも皇子を囲うべきか──判断が揺らいだ、まさにそのときだった。


「やめよ。」


場は水を打ったかのように鎮まる。

叫びでも怒鳴り声でもなかった。

それでも、彼の一言で誰もが本能的に動きを止めた。


「これ以上、遺族の痛みに騒ぎを重ねてはならぬ。」


怒号の余韻を凍らせるような静けさが広がる。


「礼節を尽くせ。

ここは、命を賭して果てた者たちを悼む場である。

祈りの場であることを忘れるな。」


たったそれだけ。

だが、それで充分だった。


騒ぎの中心にいた者たちは口を噤み、視線を伏せた。

怒りに駆られていた者も我に返ったように肩を落とし──その場を離れていった。

そして、あの“狂犬”と叫んだ声の主も、いつの間にか人波の奥へと姿を消していた。


誰も、彼らを責めなかった。

そのまま騒ぎは引き潮のように、広場の隅へと吸い込まれていった。


残された遺族たちは、なお涙を流しながらも足を止めず、静かに歩みを進めた。

ひとり、またひとりと深く頭を下げて、それぞれの出口へと去っていく。

そのすべてに、シアトリヒは眼差しを返し続けていた。


式は“崩壊”を免れる。

鎮めたのは、力でも命令でもない。

ただ一つ、誠をもって向き合ったその在り方だった。

指示語が多かったため、修正をしました。

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